心の街
文字数 1,995文字
久しぶりに学生の頃に住んでいた街を歩いた。
お鍋を買った雑貨屋さん、らっきょうの美味しいカレー屋さん、特別な日に一輪だけお花を選んだ花屋さん。みんなあの頃のまま、元気な下町の商店街。
商店街のはずれの銭湯があった場所は駐車場になっていた。
もしまだあったら入って帰ろうかとタオルやシャンプーを持って来たのだけど。
数年前の思い出まで消えてしまうようで、胸がギュッと痛くなった。
お互いに地方から出てきた芳樹 と私。歩いて行けるぐらいの隣の駅に、私たちの部屋はあった。
二人の部屋のちょうど真ん中にある商店街で芳樹とよく待ち合わせをした。
芳樹の部屋に泊まったり、芳樹が私の部屋に泊まりに来たり。楽しくてあったかい日々。
銭湯に行こうと芳樹が言い出した
「俺が男湯から『そろそろ出るぞ〜』って言うから、夕香 は女湯から『は〜い』って返事してよ」
なにかのドラマでそんな場面を見て、密かに憧れていたのだと芳樹は言う。
「なんだか熟年夫婦みたいだね」
それをするには今どきのスーパー銭湯ではなく、あの商店街のはずれにあるような昔ながらの銭湯が良いのだそうだ。
私も昭和ごっこみたいで楽しそうと思って芳樹の提案に乗った。
夏の終わりの夜に二人で銭湯に行った。
私は旅館やホテルの大浴場や温泉には入ったことがあるけど、銭湯は初めてだった。
体を洗ってシャンプーをして湯船に浸かる。ぬるめのお湯が心地よくてしばらく浸かっていた。
芳樹と決めた時間が近づくと、男湯と女湯の天井伝いに聞こえてくる芳樹の声を待った。
「お〜い、そろそろ出るぞ〜」
「は〜い」
みんなが聞いている気がして恥ずかしかった。でも周りを見渡すと、私のことなんて誰も気にしていない。
恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになって、もう一度サッとシャワーを浴び、体を拭いて脱衣所に出た。
下着をつけてTシャツを着ると、立っていられなくなってうずくまった。
「のぼせたんとちゃう?」
お母さんぐらいの年の女性が声をかけてくれた。
「とにかくここに横になり〜」
別の女性がベンチに寝るように促してくれる。
「すみません……。ありがとうございます」
「長いこと浸かってたんとちがう?」
「はい……」
「お姉ちゃん、銭湯初めて?」
「はい……」
「そら素人 やなぁ〜。いきなり長いこと浸かったらあかんねん。少し入って出てを繰り返す方がいいねんよ」
「そうなんですね……」
「これ飲み」
ファイトー! で有名な茶色い小瓶の炭酸飲料を持って来てくれる。
「のぼせた時はこれ飲んでゲップ出したら治る」
言われるがままに飲んだ。ゲップは出なかったけど、なんだか少し楽になった気がした。
「ありがとうございます。お金……」
「ええ、ええ。また誰かしんどそうにしてたら、今度はお姉ちゃんが助けたげて」
「ありがとうございます……」
「無理せんとゆっくりしてから行きや」
みんな、まるでお母さんみたいにやさしい。
「彼氏が待ってるのんか? さっき、もう出るで〜ってやり取りしてたやろ」
やっぱり聞こえてたんだ……。
「仲よおてええなぁ。それらしい子がおったら言うといてあげるわ。もうちょっと待っといたげてって」
『脱衣所スマホ等カメラ付機器使用禁止』の張り紙があって、芳樹に連絡が取れずに困ったなぁと思っていた。
「ありがとうございます。オレンジ色のTシャツを着て待っていてくれると思います」
ここは親切もお節介もぬるめのお湯のように心地よく、当たり前のように溢れているのかな……。
恥ずかしさと感謝の気持ちがごちゃ混ぜになりながら、脱衣所のベンチに横たわっていた。
しばらく体を休めてようやく動けるようになった私は、やっと銭湯の外に出た。
オレンジ色のTシャツを着た芳樹が私を見つけて
「大丈夫?!」
と駆け寄って来た。
「大丈夫。待たせちゃってごめんね」
「貧血起こした?」
「ううん、初めての銭湯が気持ち良くて張り切り過ぎちゃった。おばさんたちにいっぱい助けてもらった」
「そうみたいだね」
私は芳樹の腕につかまりながら歩いて、その日は私の部屋で一緒に寝た。
結局、芳樹と銭湯に行ったのはその一回きりだった。
その後、就職活動が始まるとなんとなくギクシャクして、芳樹とは別れてしまった。
あの銭湯の壁越しのやり取りが芳樹との一番の思い出になった。
かわいくて照れくさくて愛おしい思い出。
芳樹とは別れてしまったけど、一緒に過ごした時間は大切な宝物のように私の心にしまってある。
たとえ、忘れて思い出すことがなくなっても心の中の宝物は消えない。
私は商店街を後にして駅に向かった。
普通電車しか止まらない駅のホームは、特急電車や急行電車が通過した後、見慣れた電車がゆっくりと止まった。
すいた電車の窓から茜色の雲が見えた。藍色の夜とを結ぶリボンのように美しく輝いて、私はそのリボンをそっと心の中の宝箱にかけた。
お鍋を買った雑貨屋さん、らっきょうの美味しいカレー屋さん、特別な日に一輪だけお花を選んだ花屋さん。みんなあの頃のまま、元気な下町の商店街。
商店街のはずれの銭湯があった場所は駐車場になっていた。
もしまだあったら入って帰ろうかとタオルやシャンプーを持って来たのだけど。
数年前の思い出まで消えてしまうようで、胸がギュッと痛くなった。
お互いに地方から出てきた
二人の部屋のちょうど真ん中にある商店街で芳樹とよく待ち合わせをした。
芳樹の部屋に泊まったり、芳樹が私の部屋に泊まりに来たり。楽しくてあったかい日々。
銭湯に行こうと芳樹が言い出した
「俺が男湯から『そろそろ出るぞ〜』って言うから、
なにかのドラマでそんな場面を見て、密かに憧れていたのだと芳樹は言う。
「なんだか熟年夫婦みたいだね」
それをするには今どきのスーパー銭湯ではなく、あの商店街のはずれにあるような昔ながらの銭湯が良いのだそうだ。
私も昭和ごっこみたいで楽しそうと思って芳樹の提案に乗った。
夏の終わりの夜に二人で銭湯に行った。
私は旅館やホテルの大浴場や温泉には入ったことがあるけど、銭湯は初めてだった。
体を洗ってシャンプーをして湯船に浸かる。ぬるめのお湯が心地よくてしばらく浸かっていた。
芳樹と決めた時間が近づくと、男湯と女湯の天井伝いに聞こえてくる芳樹の声を待った。
「お〜い、そろそろ出るぞ〜」
「は〜い」
みんなが聞いている気がして恥ずかしかった。でも周りを見渡すと、私のことなんて誰も気にしていない。
恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになって、もう一度サッとシャワーを浴び、体を拭いて脱衣所に出た。
下着をつけてTシャツを着ると、立っていられなくなってうずくまった。
「のぼせたんとちゃう?」
お母さんぐらいの年の女性が声をかけてくれた。
「とにかくここに横になり〜」
別の女性がベンチに寝るように促してくれる。
「すみません……。ありがとうございます」
「長いこと浸かってたんとちがう?」
「はい……」
「お姉ちゃん、銭湯初めて?」
「はい……」
「そら
「そうなんですね……」
「これ飲み」
ファイトー! で有名な茶色い小瓶の炭酸飲料を持って来てくれる。
「のぼせた時はこれ飲んでゲップ出したら治る」
言われるがままに飲んだ。ゲップは出なかったけど、なんだか少し楽になった気がした。
「ありがとうございます。お金……」
「ええ、ええ。また誰かしんどそうにしてたら、今度はお姉ちゃんが助けたげて」
「ありがとうございます……」
「無理せんとゆっくりしてから行きや」
みんな、まるでお母さんみたいにやさしい。
「彼氏が待ってるのんか? さっき、もう出るで〜ってやり取りしてたやろ」
やっぱり聞こえてたんだ……。
「仲よおてええなぁ。それらしい子がおったら言うといてあげるわ。もうちょっと待っといたげてって」
『脱衣所スマホ等カメラ付機器使用禁止』の張り紙があって、芳樹に連絡が取れずに困ったなぁと思っていた。
「ありがとうございます。オレンジ色のTシャツを着て待っていてくれると思います」
ここは親切もお節介もぬるめのお湯のように心地よく、当たり前のように溢れているのかな……。
恥ずかしさと感謝の気持ちがごちゃ混ぜになりながら、脱衣所のベンチに横たわっていた。
しばらく体を休めてようやく動けるようになった私は、やっと銭湯の外に出た。
オレンジ色のTシャツを着た芳樹が私を見つけて
「大丈夫?!」
と駆け寄って来た。
「大丈夫。待たせちゃってごめんね」
「貧血起こした?」
「ううん、初めての銭湯が気持ち良くて張り切り過ぎちゃった。おばさんたちにいっぱい助けてもらった」
「そうみたいだね」
私は芳樹の腕につかまりながら歩いて、その日は私の部屋で一緒に寝た。
結局、芳樹と銭湯に行ったのはその一回きりだった。
その後、就職活動が始まるとなんとなくギクシャクして、芳樹とは別れてしまった。
あの銭湯の壁越しのやり取りが芳樹との一番の思い出になった。
かわいくて照れくさくて愛おしい思い出。
芳樹とは別れてしまったけど、一緒に過ごした時間は大切な宝物のように私の心にしまってある。
たとえ、忘れて思い出すことがなくなっても心の中の宝物は消えない。
私は商店街を後にして駅に向かった。
普通電車しか止まらない駅のホームは、特急電車や急行電車が通過した後、見慣れた電車がゆっくりと止まった。
すいた電車の窓から茜色の雲が見えた。藍色の夜とを結ぶリボンのように美しく輝いて、私はそのリボンをそっと心の中の宝箱にかけた。