第13話 唯一の、気兼ねなくできる『自然保護活動』であるわけで
文字数 2,969文字
生き物や自然のために何かしたい。
そう思った人がいるとする。そんで、『自然保護』や『生物の保護』をうたって自分なりに考えて活動しようとすると、いいことをしているはずなのに、外野から茶々が入ることが往々にしてある。
特定の生物への餌やり、傷病鳥獣の保護、錦鯉やメダカやホタルの放流、河川敷や公園への花の種まき、農地周辺の花畑化など。
それが生物のため、あるいは自然保護のためになる、と、自分ではそう思っているのに、こともあろうに当の生き物の専門家たちが、その行動に異を唱えてくる。
それはもう、当人には悪夢のような話だろう。
だが、そのようなことが起きる確率は、この時代では非常に高い、と言わざるを得ない。
そりゃ腹も立つだろう、と思う。
目の前で苦しむ一個の命、それを救って何が悪い、そう思うかもしれない。
植えた花や放流した生物を見て、可愛いね、と喜ぶ子供やお母さん方、この笑顔を作ったのは俺なのだと、そう思うかもしれない。
注意しても、大抵の人はそう言って突っぱねるから分かる。
一昔前。そう、三十年ほど前までは、それでよかったのだ。
例えば、生き物の餌付けは微笑ましく、また慈しみ深い行為であり、自然保護にもなる、と評価されてきた。
生き物の放流は、生物資源を増やす善行であり、地域の話題としても、情操教育の象徴としても、イベントとして行われてきた歴史がある。
『花ゲリラ』などという、言葉もあった。種をポケットに潜ませて、ちょっとした地面を見つけると、こっそり植え、やがて立派な花が咲く。それを見て驚く通行人を、こっそり見て喜ぶ、などという穏やかな趣味である。
だが、これらはすべて、生態学や分類学、生物地理学の視点から見て、非常に問題のある行為であるのだ。
まず、餌付け。
野生生物に餌をやると、それに依存するようになる。
依存して、自然界で餌をとれなくなる場合もある。
依存して、数を増やし、力を蓄え、自然界の食物を食い尽くす場合もある。
野生生物でないもの、たとえばネコや錦鯉に餌を与えると、自然界では生きられない筈のものが生き残る。
数を増やし、自然界の生物に影響を与える。
捕食だけでなく、排泄や繁殖行動、縄張り行動などが、生態系に影響を与える。
密度が上がり、接触し合って、互いに伝染病をうつし合う。
いないはずのものがいるのに、何も影響が無いなんてことはないのだ。
放流。
もともとそこに住んでいないものを、放すとする。
そいつらが存在する分、もともと住んでいた生物の生活資源が減少する。
あるいは、そいつらの生活資源として利用されて、数や量を減らす。
そいつらを生活資源として、もともと住んでいた生物が殖え始める場合もある。
そいつらと競合して、もともと住んでいた生物が減ってしまう場合もある。
そいつらと交雑して、もともと住んでいた生物が消えてしまう場合もある。
じゃあってんで、もともと住んでいたものを放すとする。
もともと住んでいた生物が、今、住んでいないのには理由がある。
その理由を取り除かずに放流しても、放した生物は消えるだけである。
もともと住んでいた生物が、今、住んでいるのに放すとする。
放したことで、その生物が住めるだけの、自然界の許容量を超えてしまうかもしれない。
餌が足りなくなり、あるいは住処を奪い合い、病気が蔓延し、一気に崩壊し、全滅する場合もある。
もともと住んでいた生物と思って放した生物が、じつは同じものではないかも知れない。
いちゃもんではないのだ。
形態では見分けがつかず、かつ分類学上も同種とされているにもかかわらず、住む地域が違い、生態が微妙に違うものが、後に別種とされた例は腐るほどある。
「メダカ」という和名のメダカは、今はいない。「キタノメダカ」と「ミナミメダカ」に分けられたからだ。
「キリギリス」という和名のキリギリスも、今はいない。「ヒガシキリギリス」と「ニシキリギリス」に分けられたからだ。
まだ分かっていない生物もいくらでもいる。別種ではないまでも、『違う』可能性はあるのだ。
これは、人工品種や外来種を放すよりも、ある意味厄介だ。
近縁種は交雑してしまう。そうなれば、もう二度と、もともとそこにいた生物種は蘇ることはないからだ。
傷病鳥獣の保護。
これも、なかなか難しい。
まず、野生の鳥獣を捕獲することは、鳥獣保護管理法違反である。
狩猟鳥獣を猟期に確保するなら、問題はないが、それ以外の場合は、救護のためであっても法律違反に変わりはない。
それを圧して、あるいは許可を取って保護、救護したとしても、だ。
翼の折れた野鳥は、二度と野生に戻れない。
交通事故でハンデを負った獣も、野生で生き抜けない。
人間に育てられ、天敵の存在も餌の取り方も、子育ての仕方も習わなかった幼獣や幼鳥は、野生に戻しても生き延びることはほとんどできない。
それらを、一生飼い続けることが出来るだろうか?
その覚悟は本当にあるか。
かように、自然や生態系、野生生物に対して「何かためになること」を、個人レベルですることは本当に難しいのだ。
何かいいことしたつもりになっても、その裏で、何かもっと厄介な問題を作り出してしまっているのが、実際のところだ。
『やれることは、ほぼ無い』と言ってしまってもいいくらいだ。
しかし。
しかしだ。
ゴミ拾い。これだけは違う。
ゴミを回収すれば、景観が良くなるだけではない。
レジ袋やプラ包装、ペットボトルを回収すれば、回収した分は少なくとも、マイクロプラスチックにはならない。
紙ゴミや様々な人工物から浸み出す、化学物質や油脂は、環境中に放出されなくなる。
水中の空き缶は、アメリカザリガニの住処となっている。回収すれば、確実に数は減る。
釣り糸をはじめとする合成繊維を回収すれば、野鳥の脚にまとわりつき、魚に巻き付いて死亡させることもなくなる。
ゴミを拾う人に文句を言う専門家は、まず一人もいまい。
専門家だけではない。町の人も、農家も、老人も、子供も、学生も、若い女性も、政治家も、どんな人も文句をつけることはできないのだ。
誰も文句をつけられない、誰も不幸にしない人間の行動、って、意外と少ないんじゃないか。と、俺はそう思っている。
どんな時も、人間は他に迷惑をかけて生きている。
息をして、そこにいるだけでも、誰かの居場所を奪い、何かの命を搾取し、誰かにイヤな思いをさせている。どんな人間も、例外なく。
だが、ゴミ拾いをしている間だけは、そうではないのだ。
こんな素晴らしいことが、他にあろうか。
そう思うと、ポイ捨てした人にすら感謝したくなるから不思議だ。
だからといって、ポイ捨てしろと言っているわけじゃないから勘違いするなよ。
心配せんでも、ポイ捨てゴミなんか無くなっても「うっかりゴミ」や「落とし物」「仕方のないゴミ」は無くならない。安心してポイ捨てやめろ。
今日も妻が怒鳴っている。
軒下に俺が拾い集め、勝手に集積したゴミが、強風で庭に舞い散り、邪魔であるらしい。
誰にも迷惑をかけないゴミ拾い。しかし、妻にだけは、迷惑をかけているのは認めよう。
まあ、妻は文句を言うだけで、分別し『出荷』するのも俺の役目ではあるのだが。
そう思った人がいるとする。そんで、『自然保護』や『生物の保護』をうたって自分なりに考えて活動しようとすると、いいことをしているはずなのに、外野から茶々が入ることが往々にしてある。
特定の生物への餌やり、傷病鳥獣の保護、錦鯉やメダカやホタルの放流、河川敷や公園への花の種まき、農地周辺の花畑化など。
それが生物のため、あるいは自然保護のためになる、と、自分ではそう思っているのに、こともあろうに当の生き物の専門家たちが、その行動に異を唱えてくる。
それはもう、当人には悪夢のような話だろう。
だが、そのようなことが起きる確率は、この時代では非常に高い、と言わざるを得ない。
そりゃ腹も立つだろう、と思う。
目の前で苦しむ一個の命、それを救って何が悪い、そう思うかもしれない。
植えた花や放流した生物を見て、可愛いね、と喜ぶ子供やお母さん方、この笑顔を作ったのは俺なのだと、そう思うかもしれない。
注意しても、大抵の人はそう言って突っぱねるから分かる。
一昔前。そう、三十年ほど前までは、それでよかったのだ。
例えば、生き物の餌付けは微笑ましく、また慈しみ深い行為であり、自然保護にもなる、と評価されてきた。
生き物の放流は、生物資源を増やす善行であり、地域の話題としても、情操教育の象徴としても、イベントとして行われてきた歴史がある。
『花ゲリラ』などという、言葉もあった。種をポケットに潜ませて、ちょっとした地面を見つけると、こっそり植え、やがて立派な花が咲く。それを見て驚く通行人を、こっそり見て喜ぶ、などという穏やかな趣味である。
だが、これらはすべて、生態学や分類学、生物地理学の視点から見て、非常に問題のある行為であるのだ。
まず、餌付け。
野生生物に餌をやると、それに依存するようになる。
依存して、自然界で餌をとれなくなる場合もある。
依存して、数を増やし、力を蓄え、自然界の食物を食い尽くす場合もある。
野生生物でないもの、たとえばネコや錦鯉に餌を与えると、自然界では生きられない筈のものが生き残る。
数を増やし、自然界の生物に影響を与える。
捕食だけでなく、排泄や繁殖行動、縄張り行動などが、生態系に影響を与える。
密度が上がり、接触し合って、互いに伝染病をうつし合う。
いないはずのものがいるのに、何も影響が無いなんてことはないのだ。
放流。
もともとそこに住んでいないものを、放すとする。
そいつらが存在する分、もともと住んでいた生物の生活資源が減少する。
あるいは、そいつらの生活資源として利用されて、数や量を減らす。
そいつらを生活資源として、もともと住んでいた生物が殖え始める場合もある。
そいつらと競合して、もともと住んでいた生物が減ってしまう場合もある。
そいつらと交雑して、もともと住んでいた生物が消えてしまう場合もある。
じゃあってんで、もともと住んでいたものを放すとする。
もともと住んでいた生物が、今、住んでいないのには理由がある。
その理由を取り除かずに放流しても、放した生物は消えるだけである。
もともと住んでいた生物が、今、住んでいるのに放すとする。
放したことで、その生物が住めるだけの、自然界の許容量を超えてしまうかもしれない。
餌が足りなくなり、あるいは住処を奪い合い、病気が蔓延し、一気に崩壊し、全滅する場合もある。
もともと住んでいた生物と思って放した生物が、じつは同じものではないかも知れない。
いちゃもんではないのだ。
形態では見分けがつかず、かつ分類学上も同種とされているにもかかわらず、住む地域が違い、生態が微妙に違うものが、後に別種とされた例は腐るほどある。
「メダカ」という和名のメダカは、今はいない。「キタノメダカ」と「ミナミメダカ」に分けられたからだ。
「キリギリス」という和名のキリギリスも、今はいない。「ヒガシキリギリス」と「ニシキリギリス」に分けられたからだ。
まだ分かっていない生物もいくらでもいる。別種ではないまでも、『違う』可能性はあるのだ。
これは、人工品種や外来種を放すよりも、ある意味厄介だ。
近縁種は交雑してしまう。そうなれば、もう二度と、もともとそこにいた生物種は蘇ることはないからだ。
傷病鳥獣の保護。
これも、なかなか難しい。
まず、野生の鳥獣を捕獲することは、鳥獣保護管理法違反である。
狩猟鳥獣を猟期に確保するなら、問題はないが、それ以外の場合は、救護のためであっても法律違反に変わりはない。
それを圧して、あるいは許可を取って保護、救護したとしても、だ。
翼の折れた野鳥は、二度と野生に戻れない。
交通事故でハンデを負った獣も、野生で生き抜けない。
人間に育てられ、天敵の存在も餌の取り方も、子育ての仕方も習わなかった幼獣や幼鳥は、野生に戻しても生き延びることはほとんどできない。
それらを、一生飼い続けることが出来るだろうか?
その覚悟は本当にあるか。
かように、自然や生態系、野生生物に対して「何かためになること」を、個人レベルですることは本当に難しいのだ。
何かいいことしたつもりになっても、その裏で、何かもっと厄介な問題を作り出してしまっているのが、実際のところだ。
『やれることは、ほぼ無い』と言ってしまってもいいくらいだ。
しかし。
しかしだ。
ゴミ拾い。これだけは違う。
ゴミを回収すれば、景観が良くなるだけではない。
レジ袋やプラ包装、ペットボトルを回収すれば、回収した分は少なくとも、マイクロプラスチックにはならない。
紙ゴミや様々な人工物から浸み出す、化学物質や油脂は、環境中に放出されなくなる。
水中の空き缶は、アメリカザリガニの住処となっている。回収すれば、確実に数は減る。
釣り糸をはじめとする合成繊維を回収すれば、野鳥の脚にまとわりつき、魚に巻き付いて死亡させることもなくなる。
ゴミを拾う人に文句を言う専門家は、まず一人もいまい。
専門家だけではない。町の人も、農家も、老人も、子供も、学生も、若い女性も、政治家も、どんな人も文句をつけることはできないのだ。
誰も文句をつけられない、誰も不幸にしない人間の行動、って、意外と少ないんじゃないか。と、俺はそう思っている。
どんな時も、人間は他に迷惑をかけて生きている。
息をして、そこにいるだけでも、誰かの居場所を奪い、何かの命を搾取し、誰かにイヤな思いをさせている。どんな人間も、例外なく。
だが、ゴミ拾いをしている間だけは、そうではないのだ。
こんな素晴らしいことが、他にあろうか。
そう思うと、ポイ捨てした人にすら感謝したくなるから不思議だ。
だからといって、ポイ捨てしろと言っているわけじゃないから勘違いするなよ。
心配せんでも、ポイ捨てゴミなんか無くなっても「うっかりゴミ」や「落とし物」「仕方のないゴミ」は無くならない。安心してポイ捨てやめろ。
今日も妻が怒鳴っている。
軒下に俺が拾い集め、勝手に集積したゴミが、強風で庭に舞い散り、邪魔であるらしい。
誰にも迷惑をかけないゴミ拾い。しかし、妻にだけは、迷惑をかけているのは認めよう。
まあ、妻は文句を言うだけで、分別し『出荷』するのも俺の役目ではあるのだが。