第5話 巻雲
文字数 2,672文字
御台所はあれから変わらず、体調が優れず。
一方、ご懐妊中の側室、振はいつになく、神経をとがらせている。
2人のお付の者たちは、彼女たちの言動に振り回されてへとへとになっていた。
そんなおり、床につきがちになった御台所を見舞った梅小路が
意外な提案をして、皆の者を驚かせた。
町医者の沖田幽仁とは連絡がついたものの、
上臈御年寄と役人との間で、登城日をめぐってもめていた。
しかも、幽仁は、薬を処方するためにはどんな病なのか、
自分の目で見極めなければならないと主張していた。
見極めるためには、目で見える範囲で状態を知る必要があるが、
御台所は頑として、他人に肌を見せるのを拒んだまま。
「島。そなたが、御台さまの痛い部分を書いて、先生にお見せせよ」
梅小路が、お島を呼ぶと命じた。
「それはいったい、どういうことですか? 」
そばで聞いていた飛鳥井が身を乗り出すと訊ねた。
「絵を見ただけでわかるのですか? 」
姉小路が神妙な面持ちで言った。
「口頭で伝えるだけより、くわしく知ることができると思う」
梅小路が冷静に告げた。梅小路が教えた医学書の絵が心に響いたらしく、
「とりあえず、描いてみなさい」
最初は難色を示していた老女2人が最後には、OKを出した。
「はい! 」
お島は緊張した面持ちで返事した。
実は、人物を描いてみたいと考えていたところだ。
ましては、将軍正室の絵を描くなんて、思ってもいない大役に、
お島は、期待と不安を隠しきれなかった。
ドキドキしながら、準備をした後、御台所の枕元に座った。
今まで、風景や草花を描いたことはあるが、人物画は初めてだ。
「島。描く前に、ひとつ、頼みたいことがある」
姉小路が改まって告げた。
「何でございますか? 」
お島が訊ねた。
「そなたごときが何を聞く」
姉小路がカッとして詰め寄った。
「す、すみません」
お島は肩を震わせると平謝りした。
「良いか、島。梅小路にひいきされているからと言って、
いい気になるんじゃないぞ。
元来、そなたごときの者が、
御台さまの絵を描くことを許されるわけがないのじゃ」
飛鳥井がすかさず言った。
そのあと、御台所は、飛鳥井の手を借りて上体を起こした。
そして、姉小路の手を借りて上着を脱ぐと半身裸の状態になった。
(これはひどい! )
お島は、イチジクのような色に腫れた御台所の片乳を見るなり
一瞬、あまりの衝撃に言葉を失った。
(こんなひどくなるまで、放っておくなんて! )
「いわという病らしい」
御台所がぽつりと言った。その横顔はさみし気に見えた。
いわという病。お島にとって、初めて聞く病だ。
時々、胸を押さえたり、空咳をするのは、この病のせいらしい。
「いわ? 」
お島は思わず聞き返した。すると、飛鳥井が、お島のひざをぺしっとたたいた。
「早くいたせ。お風邪を召したら大変じゃ」
姉小路がせかした。着替えの時間以外に、
長く、肌を露わにすることが今までなかったため、
その気の遣いようは半端ではなかった。
冬でもないのに、火鉢に火がくべられた上、
他のおつきの者たちは、かん口令がしかれて部屋の外へと追いやられた。
お島には、当日限り、夕刻のお召し変えまでに、
絵を完成させるとの命令が下された。
姉小路や飛鳥井は、屏風の外で待機することになり、
お島は、御台所とふたりきりになった。
「いつから、絵を描いている? 」
御台所がふと訊ねた。
「本格的に、絵を描きはじめたのは、最近の話です」
お島が正直に答えた。
緊張のあまり手が震える。正しい診断を受けるためにも、
きちんと正確に写実しなければならない。最後の一筆は、手に汗握る瞬間だ。
「見せるが良い」
描き終わった後、御台所が、お島の絵を見たがった。
「実によく描けておるではないか? 誰かに教わったのか? 」
「いいえ。どなたにも師事しておりません。書物を参考にしています」
「さようか。島。次は、乳房ではなく、我の自画像を頼む」
御台所がにっこりと笑った。どこか、ほっとしたようにも見えた。
(わたしのような人間でも、御台さまのお役に立てることがあるんだ! )
さっそく、お島の絵は、幽仁が経営する医院に届けられた。
「島。そなた、奥の者らの絵を描いてみないか? 」
そのあと、すぐに、「いわ」との診断を受けて、
幽仁から、大奥へ、すみやかに薬剤が届けられて、
ようやく、本格的な治療がはじまったこともあり、姉小路も寛大になったらしい。
女の身で、しかも、大奥というベールで包まれた
禁断の園にいる女たちを描くとは前代未聞な話だ。
「実は、後世、己の姿を残しておきたいと願いおなごが、
奥には多いのじゃ。だがしかし、
絵師が殿方だというので、奥へ招き入れるのは抵抗があるし、
許しは出にくいというわけじゃ」
姉小路が神妙な面持ちで語った。
「やります。ぜひとも、描かせてくだされ」
お島は元気良く返事した。
かくして、お島は、御台所の身の回りの世話に加えて、
上臈女中をはじめとした希望者の人物画を描く役目を手にした。
描くたびに、お島の絵の腕はめきめきと上達した。
それから半年後。尾張のお殿様がひょっこりと登城した。
家綱公との会談の後、大奥へ立ち寄られた。
矢島局とは、昔から知った者同士、同年代ともあって、
真っ先に、部屋をお訪ねになった。
しばらくして、お島は、矢島局に部屋に来るよう言われた。
訪れてみると、尾張のお殿様が上座に座っていた。
「そなたに会わせたい者がおる」
尾張のお殿様はそう言うと、両手をパンパンとたたいた。
すると、障子が開いて、あでやかな赤色の着物姿の女性が姿を現した。
「そなたが、かの絵師であるか? 思ったより、幼い」
その女性が甲高い声で言った。
「島と申します」
お島が名を告げると、その女性が、お島に近づくと、お島の顔をしげしげと眺めた。
「殿。決めました。わたしも、この者に絵を描かせます」
「福。それはまことか? 」
「はい。しばし、奥にいる口実ができましょうぞ」
「え?? 」
聞くに、この甲高い声の持ち主は、尾張のお殿様の側室。
御屋敷内には、彼女の他にも数人、側室がいるのだが、
ただでさえ、人目を惹くような絶世の美女なのに、
派手で気が強いため、他の側室たちとの仲がうまくないらしい。
出産するまで、何かあるといけないため、預かってほしいとの申し出だ。
つまり、大奥でかくまうというのである。
「部屋はどちらになさいますか? 」
矢島局が気を遣って訊ねた。
空いている部屋を見てまわった結果、梅小路の向かいの部屋に決定した。
この異例のもてなしが、思わぬ騒動を引き起こすとは今は誰も予想がつかない。
いわ=乳がん
一方、ご懐妊中の側室、振はいつになく、神経をとがらせている。
2人のお付の者たちは、彼女たちの言動に振り回されてへとへとになっていた。
そんなおり、床につきがちになった御台所を見舞った梅小路が
意外な提案をして、皆の者を驚かせた。
町医者の沖田幽仁とは連絡がついたものの、
上臈御年寄と役人との間で、登城日をめぐってもめていた。
しかも、幽仁は、薬を処方するためにはどんな病なのか、
自分の目で見極めなければならないと主張していた。
見極めるためには、目で見える範囲で状態を知る必要があるが、
御台所は頑として、他人に肌を見せるのを拒んだまま。
「島。そなたが、御台さまの痛い部分を書いて、先生にお見せせよ」
梅小路が、お島を呼ぶと命じた。
「それはいったい、どういうことですか? 」
そばで聞いていた飛鳥井が身を乗り出すと訊ねた。
「絵を見ただけでわかるのですか? 」
姉小路が神妙な面持ちで言った。
「口頭で伝えるだけより、くわしく知ることができると思う」
梅小路が冷静に告げた。梅小路が教えた医学書の絵が心に響いたらしく、
「とりあえず、描いてみなさい」
最初は難色を示していた老女2人が最後には、OKを出した。
「はい! 」
お島は緊張した面持ちで返事した。
実は、人物を描いてみたいと考えていたところだ。
ましては、将軍正室の絵を描くなんて、思ってもいない大役に、
お島は、期待と不安を隠しきれなかった。
ドキドキしながら、準備をした後、御台所の枕元に座った。
今まで、風景や草花を描いたことはあるが、人物画は初めてだ。
「島。描く前に、ひとつ、頼みたいことがある」
姉小路が改まって告げた。
「何でございますか? 」
お島が訊ねた。
「そなたごときが何を聞く」
姉小路がカッとして詰め寄った。
「す、すみません」
お島は肩を震わせると平謝りした。
「良いか、島。梅小路にひいきされているからと言って、
いい気になるんじゃないぞ。
元来、そなたごときの者が、
御台さまの絵を描くことを許されるわけがないのじゃ」
飛鳥井がすかさず言った。
そのあと、御台所は、飛鳥井の手を借りて上体を起こした。
そして、姉小路の手を借りて上着を脱ぐと半身裸の状態になった。
(これはひどい! )
お島は、イチジクのような色に腫れた御台所の片乳を見るなり
一瞬、あまりの衝撃に言葉を失った。
(こんなひどくなるまで、放っておくなんて! )
「いわという病らしい」
御台所がぽつりと言った。その横顔はさみし気に見えた。
いわという病。お島にとって、初めて聞く病だ。
時々、胸を押さえたり、空咳をするのは、この病のせいらしい。
「いわ? 」
お島は思わず聞き返した。すると、飛鳥井が、お島のひざをぺしっとたたいた。
「早くいたせ。お風邪を召したら大変じゃ」
姉小路がせかした。着替えの時間以外に、
長く、肌を露わにすることが今までなかったため、
その気の遣いようは半端ではなかった。
冬でもないのに、火鉢に火がくべられた上、
他のおつきの者たちは、かん口令がしかれて部屋の外へと追いやられた。
お島には、当日限り、夕刻のお召し変えまでに、
絵を完成させるとの命令が下された。
姉小路や飛鳥井は、屏風の外で待機することになり、
お島は、御台所とふたりきりになった。
「いつから、絵を描いている? 」
御台所がふと訊ねた。
「本格的に、絵を描きはじめたのは、最近の話です」
お島が正直に答えた。
緊張のあまり手が震える。正しい診断を受けるためにも、
きちんと正確に写実しなければならない。最後の一筆は、手に汗握る瞬間だ。
「見せるが良い」
描き終わった後、御台所が、お島の絵を見たがった。
「実によく描けておるではないか? 誰かに教わったのか? 」
「いいえ。どなたにも師事しておりません。書物を参考にしています」
「さようか。島。次は、乳房ではなく、我の自画像を頼む」
御台所がにっこりと笑った。どこか、ほっとしたようにも見えた。
(わたしのような人間でも、御台さまのお役に立てることがあるんだ! )
さっそく、お島の絵は、幽仁が経営する医院に届けられた。
「島。そなた、奥の者らの絵を描いてみないか? 」
そのあと、すぐに、「いわ」との診断を受けて、
幽仁から、大奥へ、すみやかに薬剤が届けられて、
ようやく、本格的な治療がはじまったこともあり、姉小路も寛大になったらしい。
女の身で、しかも、大奥というベールで包まれた
禁断の園にいる女たちを描くとは前代未聞な話だ。
「実は、後世、己の姿を残しておきたいと願いおなごが、
奥には多いのじゃ。だがしかし、
絵師が殿方だというので、奥へ招き入れるのは抵抗があるし、
許しは出にくいというわけじゃ」
姉小路が神妙な面持ちで語った。
「やります。ぜひとも、描かせてくだされ」
お島は元気良く返事した。
かくして、お島は、御台所の身の回りの世話に加えて、
上臈女中をはじめとした希望者の人物画を描く役目を手にした。
描くたびに、お島の絵の腕はめきめきと上達した。
それから半年後。尾張のお殿様がひょっこりと登城した。
家綱公との会談の後、大奥へ立ち寄られた。
矢島局とは、昔から知った者同士、同年代ともあって、
真っ先に、部屋をお訪ねになった。
しばらくして、お島は、矢島局に部屋に来るよう言われた。
訪れてみると、尾張のお殿様が上座に座っていた。
「そなたに会わせたい者がおる」
尾張のお殿様はそう言うと、両手をパンパンとたたいた。
すると、障子が開いて、あでやかな赤色の着物姿の女性が姿を現した。
「そなたが、かの絵師であるか? 思ったより、幼い」
その女性が甲高い声で言った。
「島と申します」
お島が名を告げると、その女性が、お島に近づくと、お島の顔をしげしげと眺めた。
「殿。決めました。わたしも、この者に絵を描かせます」
「福。それはまことか? 」
「はい。しばし、奥にいる口実ができましょうぞ」
「え?? 」
聞くに、この甲高い声の持ち主は、尾張のお殿様の側室。
御屋敷内には、彼女の他にも数人、側室がいるのだが、
ただでさえ、人目を惹くような絶世の美女なのに、
派手で気が強いため、他の側室たちとの仲がうまくないらしい。
出産するまで、何かあるといけないため、預かってほしいとの申し出だ。
つまり、大奥でかくまうというのである。
「部屋はどちらになさいますか? 」
矢島局が気を遣って訊ねた。
空いている部屋を見てまわった結果、梅小路の向かいの部屋に決定した。
この異例のもてなしが、思わぬ騒動を引き起こすとは今は誰も予想がつかない。
いわ=乳がん
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