第9話

文字数 1,688文字

 夏休み始まって最初の密会は、七月二十九日の小雨降るジトっとした夜だった。今日は薄い雲が時折月を隠す程度だが風が強い。黒い海は度々月の光を反射させた。
 連絡手段がない僕らは、直感で風が強いかどうかを判断する。つまり、「今日天気悪いな」と感じた日に、相手が来ることを信じて海に行かなければならない。ちなみに、涼平は紗希が来ることを期待してすでに二回海を訪ねている。残念なことに二回とも、紗希は来なかった。今日は雨が弱く風が強い。前二回は、雨が強く、風が弱かった。紗希は宣言通り、風の強いこの日に現れた。
紗希は端から隠すつもりもなかったのか、密会の理由を話し始めた。
「風の吹く日はね、家が五月蠅いんだ」
雨が反射する傘の音に防がれまいと、紗希は声を張って話す。
「うちの両親は物音に敏感でね。特に母親が。ちょっとヒステリックに反応する。普通の物音には反応しないのに、私達姉妹の物音には物凄く耳がいい」
 つまりこういう事だ。紗希の母親は姉妹を溺愛しているが、愛情の方向を間違えている。姉妹を危険から遠ざけるという名目で、ほぼ家に幽閉しているのだ。両親以外とは連絡が出来ないスマホを持たせ、GPS で常に居場所を監視しているし、姉妹は休み時間の度に連絡をいれなければならない。
 夜母親が寝ている間はトイレに行く事すらままならない。母親が飛び起きてしまう。だから姉妹はベッドの中で静かに過ごす。一度リビングで水を飲もうとした時も、極力音を立てないようにしたにも関わらず、母親が飛び起きてきたらしい。そして、母の睡眠を邪魔するなと父親が逆上する。母が飛び起きると隣の父も邪魔することになるので、どうしても動けない。おまけに親の寝室は常に扉が全開だ。なぜ閉めないのかはわからない。
 ところが、風が強い日は違う。ところどころ隙間風の吹く紗希の家は、ギシギシとかなりの音を立てる。両親の部屋のドアが開きっぱなしだとギーと高めの不快な音を発し、ドアを閉めると収まる。もちろん音に敏感な母はドアを閉めて、耳栓をして、さらに睡眠薬を飲んでから眠る。よほどの音を立てない限り目覚めることはない。ちなみに、睡眠薬を勧めたのは紗希だ。
 だから風の強い日、紗希は久々の自由を満喫できる。多少危険はあるが、家に閉じ込めたがるのは母だけなので気づかれる危険は少ない。父親は別に紗希が家にいなくても何も言わないらしい。父親は怒らせなければ、基本は無干渉だ。
「だから、風の密会てことか」
紗希が小さく頷く。「涼平が来てくれて嬉しいよ」と笑顔になる。
「時々一人で来てたんだ。ここに来ると全部忘れて気持ちが良いの」
元々弱かった雨はほとんど止んでいる。紗希は傘を閉じて波打ち際を歩き始める。
「お母さんはちょっと、おかしいよね。私達のことを愛してくれているのはわかるんだけど」
そんなもの、愛情とは言わないだろう。もっと純粋に、もっと適切に、愛情を示してくれる人はたくさんいる。でも紗希はそれを知らない。自分の世界以外、気づくこともないのは紗希も同じだ。
 ところで、紗希は母親のことはすらすらと話す。涼平からしたら、母親がしていることも十分虐待に値すると思うが、紗希はそうは思っていないのだろうか。自分から虐待のことを話すのは初めてのことだ。
「父親は、どんな人なの」
「それは聞かない約束でしょ」
そんな約束した覚えはない。おそらく、僕らの暗黙の約束だろう。紗希が僕と交わした暗黙の約束は父親のことを、父親のことだけを指していたようだ。やはり言葉は大切だ。伝わっていると思っても、若干ずれがある。
涼平はごめんと頭を小さく下げる。紗希は海を眺め、少しため息を付いて
「お母さんは少し変わってるけれど、父親は異常だと思う」
と、はじめて父親について触れた。声が少し震えている。たった一言で、彼女が如何に父親を恐れているかを痛感した。二度と、父親のことを口にさせてはならない。少なくとも僕といる間は、現実を忘れられるよう努力しよう。
 涼平はそれ以上何も聞かないことを誓い、更新された暗黙の約束をもう一度胸に刻み込む。震える紗希の肩に優しく触れた。
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