文字数 9,048文字

「ねーねー、リカちゃん先生!」
 沙彩ちゃんが、小会議室に飛び込んできた。布バッグを提げているところをみると、今日は、自主的に学習会に参加するつもりで来たらしい。
「よしよし、沙彩、ちゃんと来たね」
 筆記具を取りに来ていた和希ちゃんが、横から満足そうに言う。
「来たよ、もちろん」
 沙彩ちゃんは、和希ちゃんに向かって「当然でしょ」と言わんばかりの顔をしてみせてから、理香に向き直った。
「あたし、今日の英語、結構できたと思う。リカちゃん先生、すごいよ。ヤマカケしてくれたとこ、ほとんど出た」
「よかった──」
 心からほっとした。思わず漏れた言葉に、沙彩ちゃんが「ありがとう」と笑う。それを言うために、控室に立ち寄ってくれたらしい。
「沙彩、明日、数学あるよね。あたしが叩き込んでやるから。あんたの『留年防止プロジェクト』、発動してるからね」
 ふっふっふ、と笑った和希ちゃんに向かって、沙彩ちゃんは「こわ」と口では言ったものの、少し嬉しそうだ。それから沙彩ちゃんは、部屋の奥に目をとめた。
「あ、またイケメンが来てる」
「あんたさあ、本人の前で言わないの。長谷さんだよ、長谷さん」
 和希ちゃんが呆れたように言った。長机を二つ合わせた即席のミーティングテーブルの向こうで、書類ケースに手をかけたまま、長谷さんが苦笑している。
「こんばんは。またおじゃましてます」
「──やっぱりイケメンじゃん」
 沙彩ちゃんのつぶやきに、長谷さんは「君にイケメンって言ってもらえるような歳じゃないけどね」と穏やかに言った。「お父さん──って言うには、まあ、ちょっと足りないか」
「ちょっとじゃないよ、全然足りないよ」
 沙彩ちゃんが真顔で主張した。確かに、少なく見積もっても一回りは足りないだろう。
「でも、長谷さんみたいなお父さんだったらよかったのにな。しゅってしてて、カッコよくて。友達にも自慢しちゃうよ」
 沙彩ちゃんは、お父さんと二人暮らしだ。お母さんは、すでに亡くなっている。
「こないだ三者面談があったんだけどさ、もう最悪だった。さえないし。朝、ちゃんと服選んで置いてきたのに、違うの着てきちゃうし」
 よりによってダサいチェックのシャツだよ、と顔をしかめて見せた沙彩ちゃんを、和希ちゃんが横からからかった。
「そんなこと言って、沙彩、お父さんのこと大好きじゃん」
 沙彩ちゃんのお父さんは、個人タクシーを運転している。お母さんが亡くなった後、深夜の乗務で沙彩ちゃんを一人にしないために難しい試験に挑み、勤めていたタクシー会社を辞めて独立開業したのだと聞いた。
 本当は、沙彩ちゃんが、そんなお父さんのことを大好きなのは知っている。
「まあ、嫌いじゃないけどさあ」
 ほほえましい会話を聞きながら「いいなあ」と思う。ふいに、普段は思い出さないように気をつけている感情が顔を出した。
──わたしの親なんて、二人とも最悪だよ。そして、その両親から生まれて、何の苦労もなく、ぬくぬくと育ってきたわたしも最悪。
 沙彩ちゃんがうらやましい、と本気で思う。誰にも何の罪の意識も感じる必要がないこと、善良で普通であることが、どれだけ得難いことか。ちゃんとした世界で当たり前に生きている人には、きっと分からない。
 いつの間にかうつむいてしまっていたことに気づいて顔を上げると、長谷さんが、目の前で交わされる言葉のやり取りを眩しそうに眺めていた。その顔が、なぜだか少し寂しそうに見えた。
「沙彩、あんた勉強しに来たんでしょ。時間ないよ、数学やるよ、数学」
 和希ちゃんが言い、沙彩ちゃんを急き立てるようにして小会議室を出ていく。静かな中に二人で残されて、長谷さんがふわっと笑った。
「にぎやかですね」
「はい」
 改めて互いに「よろしくお願いします」と頭を下げ合い、長机越しに向かい合って座った。
 長谷さんは、持ち手がついた大判の黒いプラスチック製のケースを開き、中からA3判より少し大きい用紙を取り出した。机の上に差し出された用紙を見て、理香は息をのんだ。
「こんな風に出来上がるなんて──」
 前回、目の前で鉛筆書きしてくれた図案がデータとして仕上げられ、理香が渡した文字データが流し込まれている。
「──素敵です」
 ひたすら感激している理香に向かって、長谷さんは少し困ったようにほほえみ、「いくつか提案があるんですが、いいですか?」と控え目に切り出した。
「何でしょう」
 長谷さんの提案はシンプルだった。ターゲットと伝えたいテーマを明確にすること、そして、余分な文字があれば削ること。
「僕は文章のプロではありませんが」申し訳なさそうに前置きをしてから続ける。「一般論として、こういう印刷物の場合、情報量が多いこと自体はあまり問題ではないんです。問題は、いろんな視点や情報が混在してしまうこと」
 誰をターゲットにするのか。何を伝えるのか。そこを整理して、情報に優先順位をつけることが大事なのだと長谷さんは言った。
「それを踏まえて、見出しは、想定しているターゲットにささる言葉を考える。あと、見出し自体、もう少し短い方がいい。それに、漢字が続くと言葉の切れ目が分かりづらくなるので、適度にひらがなを交ぜる。例えば──」
 言いながら、ペンケースから水性ペンと付箋を取り出し、いくつかの箇所にメモを入れていく。書き方のお手本みたいな字とは少し違う、ちゃんと個性があって、でも、読みやすい字だ。
 理香がうなずきながら聞いているのを見て、長谷さんは安心したように続けた。
「あとは、文字量。読みやすいように気をつけてレイアウトしたつもりですが」確かに、文字が多い割に画面はすっきりしている。「減らせる部分があるなら、減らすにこしたことはありません。例えば、こことここは若干内容がかぶっているので、どちらかにまとめてもいいかもしれない。あとは、この部分」
 言われてみれば「なるほど」と思うことばかりで、どうして今まで気がつかなかったのか不思議なくらいだ。
「ずっと決まり文句として使ってきた言い回しがあるものですから──」
 理香の言葉に、長谷さんが少し心配そうな顔になった。気を悪くしていると勘違いさせたかもしれない。理香は、あわてて言葉の先を口にした。
「ですから、ちゃんと考えて直します。指摘してくださって、ありがとうございます」
「よかった。余計なことだったかと」
「まさか」理香は笑った。「言ってくださってよかったです。見慣れ過ぎていると違和感を感じなくなってしまうものなんですね」
 理香が言うと、長谷さんがにっこりした。
「──理香さんは、柔らかな方ですね」
 意味がよく分からなくて首をかしげると、長谷さんが「唐突ですね。すみません」と、もう一度ほほえんだ。
 二人で頭を突き合わせ、その場で原稿に赤字を入れる。「文章のプロではない」と言いながらも、長谷さんはこういう作業に慣れていて、的確にアドバイスをくれる。
──たぶん、ものすごく優秀な人だ──。
 クリエイターとしても、コーディネーターとしても。
「CSR」で「ほぼノーギャラ」でなければ、彼が関わってくれるこの作業に本来はどれだけの対価が発生するんだろう。そう思うと申し訳ない気持ちになった。
 どうにか修正案が形になってきた頃、まるで見計らったかのように、篠崎先生が小会議室に現れた。長谷さんに会釈をし、「ちょっとくたびれたよ」と言いながら、自分の荷物の脇からお茶のペットボトルを取り上げる。人生経験の豊かさを現したかのような、しわの多いごつごつした手だ。
「もう、説明し続けで喉が──。それに、また『小春日和』論争をふっかけられるし」
 沙彩ちゃんのことだ。
 言葉に反して楽しそうな篠崎先生の様子に、理香はくすっと笑った。沙彩ちゃんには、周囲のほほえみを誘うような独特の天真爛漫さがある。きっと、お父さんに大事にされているんだろうな、と思う。
 それはそれとして、今すべきことは──。
「先生、お疲れのところ、本当に申し訳ないんですけど」
 理香は言って、赤字が入った原稿を差し出した。せっかく現れた「国語のプロ」を逃すなんて、そんなもったいないことをするわけにはいかない。


「これから事務所に戻ってデータを修正する」という長谷さんを、階段の手前まで見送った。
「よろしくお願いします」「失礼します」と頭を下げ合う。階段に足をかけ、一段だけ降りたところで、長谷さんが振り返った。思いのほか目と目の高さが近くて、どきっとした。
「言っていいものかどうか迷ったんですが、やっぱり言うことにします」
「何でしょう」
 散々意見交換をしたつもりだったけれど、まだ何か問題があるんだろうか。
「紙のことです」
「紙?」
「はい」と長谷さんはうなずいた。「紙、変更してはいけませんか。コート紙ってね、すごく一般的で便利な紙なんですが、こう、結構テカる感じで、インクの発色もよすぎる気がするんです」
 もっとやわらかいイメージを出したい、と長谷さんは言った。
「予算面で負担はかけませんから、僕の方で検討させていただけませんか」


 AFFの事務所は、スミレ小児科の二階、看護師さんたちのロッカールームの隣にある。
 ボランティア団体だった時代に倉庫として使わせてもらっていた部屋で、法人として認可を受ける際に、スミレ先生の好意で正式に事務所として提供してもらうことになった。小児科の中を通らなくても外階段から出入りできるし、区民センターも近くて、なかなかに便利な場所だ。
 そういうわけで、スミレ先生は、午前中の診療が終わると、週に一度は昼食を手にこの事務所にやってくる。今日も、一時半を過ぎた頃、「理香ちゃん、おじゃまー」という声と同時にドアが開いた。
 病院の左隣にある大手チェーンのコンビニの袋を、四人掛けのミーティングテーブルにそっと置く。袋の中から紙パックの野菜ジュースを二本取り出し、一本を「これ、差し入れ」と言って理香に手渡した。
「いつもありがとうございます。わたしも食べようかな」
 理香はパソコンの前から立ち上がった。部屋の隅の冷蔵庫を開けて、お弁当を取り出す。
「あ、理香ちゃんもまだなんだ。今日は遅いのね」
 スミレ先生が、いつものふわっとした口調で言った。
「作業が立て込んじゃって」
 今週末に迫ったフォーラムに向けて、やることはいくらでもあった。シナリオの確認や出席者名簿の整理、講師の交通費や謝礼の準備──。当日の運営はボランティアのメンバーが担ってくれるけれど、事前の準備作業や連絡調整は理香の仕事だ。
 お弁当を持って先生の向かいに座ったら、次の瞬間に、机の上で事務局の携帯電話が鳴り出した。さっと立ち上がって電話を取ると、区役所の福祉部門の担当者だった。区長の会場入り時刻の連絡だ。
 区長には、当日、来賓代表の挨拶をいただくことになっている。到着したら受付に声をかけてもらうようお願いして、電話を切った。
「こういう時、スタッフが一人っていうのは大変よね」
 スミレ先生が、コンビニの袋から、そろそろと中身を取り出しながら言った。
「普段は、そんなに忙しくないんですけどね」
「理香ちゃん、仕事、さばけるものね」
「さばけないです、全然」
 理香は苦笑し、お弁当の包みを開けた。
 節約のためもあって、理香は、ほぼ毎日、簡単なおかずを詰めたお弁当を持参している。一方、スミレ先生のランチは、この一か月ほどずっとコンビニの春雨炒めとポタージュスープだ。少なくともこの部屋では、それ以外を食べているのを見た覚えがない。
 先生いわく「気に入ったものは満足するまで食べたいタイプ」らしい。いつか「お医者さんなのにそれでいいんですか」と尋ねたら、「それはそれ、これはこれ。取りあえず患者さんには秘密」だと厳命された。そういえば、一階の小児科の待合室には「食事はバランスよく」と書かれたポスターが掲示されていたはずだ。
「先生の方も、今日は患者さんが多いみたいですね」
 理香は卵焼きをつつきながら言った。
「もう、へろへろよ」
 スミレ先生が、お箸をうずらの卵にのばす。つまもうとして、つるんと逃げられ、顔をしかめた。
「インフルのワクチンがやっと再入荷したの。朝から打ちまくり」
 理香はうなずいた。全国的に品薄になっているのは、ニュースで知っている。
「もう、処置室が阿鼻叫喚状態。ちびちゃんたちが泣く、泣く。うちは恐怖の館じゃないのよ。あー、おなかすいた」
 先生は、再びうずらの卵にお箸をのばした。午後の診療は二時からだから、あまり時間がない。
 昨日は、診療時間が終わる少し前に、救急車が駐車場に入ってきていた。たぶん、重症の子どもを大きな病院に搬送したのだろう。子どもは大人ほど体力がないし、重症化するのも早いと聞く。こんな風に気楽そうにふるまっていても、小児科の先生は大変だと思う。時間的にも、精神的にも。
 スミレ先生は、自分のことはさらっと流して、理香に尋ねた。
「パンフレットの方、進んでる? 引き受け手があってよかったけど、大変よね、こんなばたばたで。どうにかなりそう?」
 どうにかなるどころか──。理香は、頭の中で長谷さんの穏やかな顔を思い浮かべた。
「あの人、すごいです」素直な称賛が口から出た。「土日も夜もずっと作業してくださったんだと思うんですけど、びっくりするくらい、その、どう言えばいいのか分かりませんけど、とにかく──すごいんです」
 こういう時、「すごい」という表現しか出てこない貧弱な語彙力が悲しい。
 控室で一緒に原稿を修正したのが月曜日。長谷さんの対応は素早くて、翌日にはメールで修正済みのデータが届いた。添付されていたPDFを開いてすぐに、長谷さんが言いたかったことが分かった。最初のデータとは比べものにならないほど全体が整理されて、見やすくなっていた。
「丸岡先生にもすぐに見ていただいてOKが出たんですが、長谷さんが、もう少しデザインの方に手を加えたいっておっしゃって。文字は固まったし、微調整はプロの判断で一番いい形に──ということで、長谷さんと川辺社長にお任せすることになりました」
「そっか。理香ちゃんはフォーラムの準備だけでも大変だしね」
 理香はうなずいた。丸岡先生は、そういう事情にも配慮してくださったんだろうと思う。そして、「餅は餅屋だ」ともおっしゃっていた。長谷さんが信頼できることは分かったから任せなさい、ということだ。その上で、最終データができたら、長谷さんから丸岡先生に直接メールしてもらうことになっている。
「参加者、今、何人くらいになってるの?」
「二百人ちょっとですね」
「悪くないじゃない」
 四百人収容できる会場だから満員には程遠いが、スミレ先生が言うとおり、一団体が初めて主催する催しにしては悪くない動員数だ。とはいえ、福祉関係者や学校関係者の参加が大半で、一般からの応募が少ないのが残念ではある。
「上等だと思うわよ」
 スミレ先生は言い、割り箸を持ったままバンザイをしてみせた。


 フォーラムまであと三日となった木曜日の午後、受付用名簿の最終チェックをしている時に、長谷さんから連絡があった。
──お世話になっております。長谷です。
 電話を取った里香に向かって、長谷さんは丁寧に言った。
「こちらこそ、たいへんお世話になっております」
 一週間ぶりに声を聞いたせいか、少し緊張してしまう。理香は、相手から見えているわけでもないのに背筋を伸ばした。
 長谷さんが「理香さん」と名前を呼んだ。仕事の相手なのに、長谷さんに呼ばれると、なぜだかくすぐったい。
──最終データ、丸岡先生からOKをいただきまして、先ほど入稿しました。
「ありがとうございます」
 間に合った──。
 心からほっとした。そしてそれ以上に、長谷さんにとっては降ってわいたような話だったはずなのに、時間の制約が厳しい中で、やっつけ仕事にせず全力で取り組んでくれたことが本当にありがたいと改めて思う。
──川辺社長からも連絡があると思いますが、土曜日の午前中に納品予定です。
「こんなに短時間で、本当に──」感謝の気持ちを伝えたいけれど、うまく言葉にできない。「あの、ありがとうございます、こんなにしてくださって。出来上がったものを見せていただくのが、とっても楽しみです」
 素直に伝えたら、電話の向こうの長谷さんが少しだけ黙って、照れたように「うん」と言った。くだけた口調がうれしかった。
 彼の声や物言いの中に親しげな響きを感じ取ってしまうのは、そうであってくれればいいと無意識に願っているからだろうか。
──僕としては、いいものができたと思っています。ご期待に添えていればいいんですが。あと、せっかく関わらせていただいたので、僕のFacebookでも紹介させてもらえたらと思うんですが、構いませんか?
「もちろん構いません──というより、助かります。まだ空席もありますし」
 長谷さんが「よかった」と言い、それから、少しばかりあわてた様子で「いや、空席があるのがよかったって言ってるわけじゃないですよ」とつけ加えた。
「大丈夫です、分かってます」
──当日は、僕も参加させてもらいます。お手伝いできることがあれば、何でも言ってください。
 長谷さんは、最後に「理香さんも追い込みが大変でしょうけど、身体にだけは本当に気をつけてね。研みたいになっちゃダメだよ、絶対に」と優しく、でもとても真面目な声で言った。


 川辺社長は、フォーラムの前日、土曜日の午前十一時きっかりにやってきた。
 事務室直通のインターホンが鳴って、大急ぎで外階段につながるドアを開けると、そこに人のよさそうな大きな笑顔があった。出迎えた理香に向かって、川辺社長は、冬だというのにわざとらしく汗をぬぐうふりをした。
「ふぃー、間に合った。あがったよー」
 見ると、社長の足もとに、小さめの段ボール箱が三つ重ねられていた。パンフレットだ。
「ありがとうございます」
 明るく言い、靴をつっかけてドアの外に出ようとした理香を、社長が片手で押しとどめた。
「いいよ、中まで運ぶよ。重いからさ」
 さっさと持ち上げて、いつものように室内のテーブルまで運んでくれる。
 最終的にどんな風な仕上がりになったのか気になって仕方がない。箱を開けてみたくてそわそわしている理香に向かって、川辺社長は「これ見本だけど、見る?」と、茶封筒をひらひらさせた。てっきり納品書かと思っていた。
「見るに決まってます。もったいぶるなんて、ひどいです」
「だよなあ」と川辺社長は笑った。「ごめん、ごめん」
 川辺社長は、封筒の中から、まるで壊れものに触るかのように丁寧に印刷物を抜き出し、そっと机の上に置いた。理香は表紙を目にして息をのんだ。
 どことなく懐かしくて優しい気配がする柔らかなグリーンと、木漏れ日のようなオレンジ。その間からのぞく、控え目な青空を思わせる薄いブルー。カラー出力を見せてもらった時も、素敵だと思った。でも、今見ているこれは、まるで、この小さな紙を窓にして、別の世界をのぞきこんでいるかのようだ。
 長谷さんの姿が浮かんだ。涼しげな顔立ちと、落ち着いた物腰、そして、鉛筆を握る長い指。
──あの人の中に、こんな世界が存在している──。
 最初に学習会を見学した日、彼は、ラフなスケッチを描いてくれた。あの時、すでに彼には、この色や形や、紙の手触りまで見えていたに違いない。理香には見ることができない世界を見ている人。今ここにある彼の温かな世界とは別の場所から、どうしてだか切ない気持ちがあふれてくる。
 机の上に広げられた世界をただ見つめている理香の横で、社長がしみじみと言った。
「いや、今回、本当にいい経験をさせてもらったよ」大事そうにそっと紙をなでる。「さすがというか、俺も、自分とこの印刷機でこれを刷ったとは思えないっていうか」
「こんな風に仕上がるなんて──」
「な? ちょっと感動するだろ? こっちはかろうじて一般印刷って名乗れる程度の印刷会社で、小数点以下で色の調整が入るような仕事なんてそんなにあるわけじゃないからさ。紙だって、普段扱ってるやつとは全然違うし。でさ、奥付にさ」
 得意気に裏返してみせる。一番下に「版下制作/長谷デザイン 印刷/川辺印刷」と小さな文字が印字されていた。
「まさか、自分の会社と『長谷デザイン』の名前が並ぶ日が来るとはねえ。儲からなくても、ここの仕事をさせてもらっててよかったよ」
 理香は、少し前から気になっていたことを、おそるおそる口にした。
「あの、今さらなんですが、長谷さんの会社って有名なんですか?」
「え?」
 川辺社長の目が丸くなった。その顔を見て、あり得ない質問をしてしまったらしいことに気がついた。それに、そもそも長谷さんに失礼だ。理香はあわてて言い足した。
「すみません、わたしが無知なんです」
「──いや、それはいいけどさ。理香ちゃん、今まで知らずにやり取りしてたの?」
「知らずに、って? 長谷さんの会社をですか?」
「いや、会社じゃなくてさ、長谷貴文さん、本当に聞いたことない?」
 聞き返されて、戸惑う。
「まあ、塾の先生だったんだもんな、知らなくても当たり前か。でも、作品は絶対に知ってるはずだよ。例えばさ──」少しだけ考えて、社長は、著名なアーティストの名前を挙げた。「アルバムのジャケットは、ほとんど長谷貴文さんが手がけてるはずだよ。あと、あのミュージシャンもそう」
 誰もが知っている名前をいくつも挙げる。
「ほかにもさ──」
 アパレルブランドの広告や、雑誌のロゴ、ファッションビルのポスター。理香も当然目にしたことがあるものが、いくつも出てくる。
 長谷さん本人と華やかな業績がなかなか一致しなくて、混乱する。とまどう理香に、川辺社長は「ね? すごいでしょ?」と、まるで自分のことみたいに得意そうに言った。
「最初に電話かかってきた時、マジでどっきりじゃないかと思ったよ」
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