第1話

文字数 1,590文字

 宮本哲司は潔癖症である。
 幼いころから綺麗好きではあったが、それは一般的なそれと大差なかった。だが、高校、大学と成長していくうちにより過敏になり、社会人となった今では、傍から見ても病的といえるほどだ。もちろん宮本自身もそれを自覚している。
 一日に何度も手を洗い、帰宅の度にシャワーも浴びていた。毎日の部屋の掃除はもちろんの事、少しでも埃が目に入れば徹底的に拭きまくる。外出時にはマスクと手袋、それに除菌シートは必需品であり、出来るだけ他人が触れたものには近づかないようにしていた。
 それは例えば廊下や階段の手すりであったり、吊り革であったり、ドアノブであったり……トイレに行く際にもなるだけ和式を選び、どうしても洋式しかない場合はお尻を浮かせるか、除菌スプレーで徹底的に便座を拭き上げてからでないと用が足せない。もちろん携帯用のウォシュレットも欠かせなかった。
 独り暮らしの自分の部屋に友達などの来客を入れることへはかなりの抵抗があるし、逆によその家に行くと、やたら埃が目につき、掃除したくてウズウズしてしまう。
 そんな性格が災いして親友と呼べる人は一人もいなかった。だが、宮本にとって、それは逆に有難かった。煩わしい人間関係に振り回されず、楽だったからだ。

 だが、職場ではそうはいかない。東京の大学を卒業して地元宮崎に戻り就職した宮本は、大手とまではいかないが、それなりの企業に就職し、事務関係の仕事をしている。しかし、入社したての彼にとって、職場でのコミュニケーションは避けて通れなかった。
 宮本は自分が潔癖症であることを他の社員に隠していた。それが対人関係において重要であることを心得ているからだ。もちろんストレスを感じる場面は少なくないが、我慢できないことは無い。
 幸い、周りには彼ほどではないにしても綺麗好きは大勢いる。自分のデスクにしょっちゅう除菌スプレーをかけたり、定期的に手洗いに行っても、誰も気にとめる様子もなかった。
 会社の人たちから一定の距離を保ちつつ、そこそこ上手くこなしているとの自信があるほどだ。

 そんな宮本が今、ある決断を迫られている。
 三つ先輩であり上司でもある課長の伊丹が、仕事をひと段落するのを見計ったように話しかけてきた。
「来週の土曜日なんだけど、彼女と一緒にキャンプに行こうと思うんだ」
「キャンプですか。楽しそうですね」アウトドアが苦手な宮本は適当に相槌を打つ。
「宮本、お前も一緒にどうだ?」
「えっ!」宮本は絶句する。
 伊丹とはたまに誘われて、嫌々ながら飲みに行ったりしている間柄だ。だが、キャンプの誘いを受けたのは今回が初。当然のように難色を匂わせたが、伊丹は一歩も引かない。
「いいから。たまには外でパーと過ごすのも気持ちいいぞ。お前がインドア派なのは知っているが、自然と触れあうのも決して悪いものではない。いい刺激になって仕事のパフォーマンスも上がるってもんだ。それに……」
 断わるつもりでいた宮本は意思を急変させた。伊丹の話だと一緒に後輩の西村かなえも参加するとのことだ。西村かなえは宮本が入社して以来、ずっと気になっていた存在だった。もちろん異性として。
 引っ込み思案である宮本は、これまで自分から声を掛けることは一度も無い。遠くから眺めては、ただ、ため息を吐く毎日を送っていた。おそらくだが、伊丹は宮本の気持ちに気づいていて、気を回したのだろうと宮本は汲んだ。
 これは西村かなえに近づくための千載一遇のチャンス。宮本は色めきださずにいられない
 だが、潔癖症である宮本にとって、キャンプは鬼門だった。とても最後まで耐えきれるとは思えない。
 イエスともノーともつかない曖昧な返事をしていると、業を煮やしたらしい伊丹は、なし崩し的に宮本の同行を決定した。
 宮本は、これを機に西村かなえとの距離が縮められるかもしれないと、腹をくくった。
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