あいまいな記憶(全文)

文字数 3,780文字

〈おまえをころす〉
と、書いてあるのだろうか。
震えた文字で、そう書いてあるようにも見える紙きれが、ベッドの下に落ちていた。
私を殺そうとしているやつがいるのだろうか。
「いったい、だれが……」
見当もつかない。どうせ、だれかのいたずらだろう。実際そう書かれているのかどうかも、はっきりとはわからない。 そもそも、こんなへたくそな文字を書くようなやつが、私を殺せるはずがない。
私は、そのいまいましいメモをにぎりつぶし、ごみ箱へ放りなげた。そして、ぼんやりとベッドにすわりこんだ。
頭の中に霧がかかってくるようだった。その霧はだんだんと濃くなって、私はつぶやいた。
「私はだれなのだろう。だれだったのだろう……」
そこで、はっとわれに返った。
いかんいかん、ぼんやりしていた。私は私だ。最近、なんだか記憶があいまいな気がする。少し疲れているんだ。
そのとき、電話のコールがなった。あいつからだ。そうだ、友人と会う約束をしていたんだった。予定を思い出し、喫茶店へと向かった。
喫茶店のドアを開けると、カランコロンと懐かしい音がした。友人はすでに、奥のテーブルに座っている。久しぶりに会う彼は、どこか他人のように見えた。
若手社員だったころ、私たちは、よきライバルだった。毎日がむしゃらに働いた。その仕事ぶりが認められ、いつしか私か彼がいずれ社長になるのだろうと言われていた。
しかし、あるとき突然、彼は会社をやめた。自分のやりたいことがみつかったと田舎へひっこし、農業をはじめたのだ。
彼の作っている野菜は、オーガニックなどといわれ、健康志向の人たちに人気らしい。しかし質にこだわっているために、大量生産もできず、ずっと小さな商売をつづけている。一方、私は社長にのぼりつめた。彼とこんなにも人生に差がついてしまうとは、思いもよらなかった。まじめでとてもいいやつだが、所詮えらくはなれない人間だったのだろう。
それにしても、頭がぼんやりする。どうもおかしい。彼がかつてのライバルだという記憶はあるのだが、本当にそうだという実感がわいてこない。本当にこいつは友人なのだろうか。 いや、むしろ、私は本当にこの男の友人なのだろうか。
「おまえ、大丈夫か。ぼーっとしているぞ。まだ、体調は万全じゃないのか」
体調?私は、具合が悪いのか。とくに体の調子が悪いような気はしないのだが。ただ、頭にもやがかかっているような感じだ。このぼんやりとする感覚が、どこか体の調子が悪いということなのだろうか。
「おまえは、おれのことを田舎でくすぶってるばかなやつだと思っているだろう。全くそのとおりだが、ばかみたいな人生もなかなかいいぞ。じゃあ、おれはそろそろ帰らないと」
そう笑いながら、友人は帰って行った。
喫茶店を出ると、あたりはすでに暗くなっていた。
「あいつ、なんだか生き生きしていたな」
前はあんなににこやかなやつではなかったような気がする。とはいえ、どんなやつだったのかはっきりと思い出せない。昔から知っているはずなのに、はじめて会ったような気がする。友人という情報だけを持っているような無機質な感覚。
自分の感覚に違和感を覚えながら、うす暗い道にはいる。ふと、ベッドの下に落ちていた不吉な紙きれのことを思い出した。
「おまえをころす、か。やれるものならやってみろ」
そのときだ。
シュッ 。
突然、暗闇から何かがとびかかってきた。私はとっさに身をよけた。その何かは、私の肩をかすめて、地面にべちゃりと落ちた。怖くなり、かけあしで部屋にもどる。
「なんだったんだ、今のは」
部屋に着いてジャケットをぬぐと、手にぬめっとしたものが触れた。
「なんだこれは……」
気味の悪いベトつきをふきとりながら、あたりをみまわして気づく。
「ここは……私の家じゃない」
ここはどこなんだ。私はどこにいるんだ?
枕の脇にボタンのようなものがある。ナースコールだ。
ここは病院だ。私は入院している。だから友人は、私の体調をきづかっていたのか。
しかし、どこか体に悪いところがあるようには思えない。おかしいとしたら、この記憶があいまいなこと、頭がぼんやりすることだけだ。記憶喪失にでもなったのだろうか。
なにか手がかりはないかと、部屋をみまわす。ベッド脇のデスクに写真がかざってある。私と一緒に中年の女性と若者が写っている。
「そうだ、私の妻と息子だ」
家族のことさえ、忘れていたとは、私はだいぶ重症らしい。
写真をよくみると、うしろに高級車がうつっている。だれもがうらやむ車。えらばれた者がのる車。
「この車は……」
思い出した。私の自慢の車だ。あのとき、私はこの車を運転していたのだ──。

あの日まで私は、人にバカにされないように生きてきた。いい大学を出て、いい会社に就職し、出世し、結婚した。世間がいう“幸せ”というやつをそのままやってきた。まわりの人たちは、そんな私をうらやんだ。私は他人と比べて、よい人生を歩んでいる。だから、私は幸せだった。
そんなある日、見知らぬ子どもが私にこう聞いたのだ。
「おじちゃんがほんとうに大好きなことって、なあに?」
突然不安にかられた。
本当に自分が好きなこととは、なんだろうか。人がうらやむ今の生活が、本当にしたいことだったのだろうか。
急に目が覚めた。
私は誰もがあこがれる私の車にのり、エンジンをかけた。そして、そのまま崖にとびこんだ。
本当はあのとき死ぬはずだった。実際、死んでいた。肉体的には即死だったはずだ。しかし、私が死ぬと、会社や家族がいろいろと困ることになるようで、特別な治療がほどこされた。
まず、脳をコンピュータにつなぎ、私の記憶を吸いだす。 そして、細胞を培養し、新しい肉体をつくりあげる。最後はその新しい脳に、吸いだした記憶をコピーする。そうして再生されたのが、今ここにいる、“私”なのだ。私はできたばかりのクローンなのだ。
そしてまだ、今の体に記憶がなじんでいない。だから、記憶があいまいだったのだ。コピーされた記憶がリアルに実感されるようになるには、もう少し時間がかかる。今はそのリハビリとして、少しずつ知人に会っているところだった。
すべてを思いだし、いてもたってもいられなくなった。私は病室を飛び出した。これからどうしたらいいのだろう。
公園のベンチでひとりたたずんでいると、背後から殺気をおびた気配を感じた。とっさに、ふりかえる。
シュッ。
また、何かが飛びかかってきた。今度こそ、よけられない。
もうダメだと思ったとき、バサッと大きなネットがとんできた。
「すみません。ご無事ですか」
目の前には、やたらにこにこした白衣の人が立っていた。手には大きなネットをかかえている。中には、どろどろぶよぶよした肉の塊のようなものが入っている。私に飛びかかってきたのは、どうやらこの物体らしい。
「お怪我はありませんか。私たちの管理ミスで、一体、逃げ出してしまったのです」
捕獲されたどろどろの塊は、ぬめぬめと動いていた。よく見ると、目玉のようなものがあっちとこっちについている。 どことなく顔のようにも見える。そしてその顔はどこかで見たことがある……。
私だ。あの顔は、私の顔だ。
「お察しの通り、これはあなたと同じクローンです」
そういえば、科学雑誌で読んだことがある。私のような治療では、クローンを何体も作るのだとか。たいていの場合、細胞が完全に固定せず、あのようなどろどろの塊になってしまう。そのようなクローンのほとんどはすぐに死んでしまうが、ごくまれに、不完全なまま生きのびるやつがいるらしい。
私は、不完全なもう一体の私に視線をやった。すると、向こうもこちらをぎろりとにらんできた。目があって、はっきりわかった。ベッドの下に落ちていた紙きれはこいつが書いたのだ。こいつは私を殺して、いつか自分が本採用になるつもりなのだ。
白衣の人は、あいかわらずにこにこしながら、語り出した。
「数年前まで、本採用にならなかったクローンは、死んでも、生き残っても、すべて処分していました。しかし今では、動物愛護などの観点から、殺さずに保護しているのです。そして最近、富裕層のあいだでは、こういった不完全クローンをペットとして飼うのがひそかなブームとなっているのです。どうです、この機会にあなたもおひとついかがですか。ただでさえ、貴重なクローンです。それがご自身のクローンだなんて、こんな機会はめったにありません。なあに、大丈夫、今回のようにあばれることがないよう特別な処置をしておわたしします」
「なるほど。いいだろう。では、そいつをもらおう」
「お買い上げありがとうございます」
こうして私は、私を飼うことになった。適切な処置がされたからか、今はめっぽうおとなしい。しかし、いつまた自我にめざめ、私を殺していれかわろうとするかわからない。そう思うと、一日一日を大事に生きようという気になるのだ。
そういえば、少し前に、クローンペット専門誌が取材にきた。自分のクローンを飼っているめずしさから、多くの愛好家から注目された。だが、もはやそんなことはどうでもいい。私は、人の目など気にせず、ただ与えられた命をまっとうしている。そしてそのことに、心から感謝している。
私は今日も生きのびた。これが幸せということなのかもしれない。

(了)
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