第13章 信濃毎日新聞

文字数 5,552文字

翌朝。

小梨平キャンプ場の裏手に設置してある多めのテントがもぞもぞ動いて、タカシが出てきてノビをする。

出勤するために小梨平食堂の前を通りかかると、ミドリが掃き掃除をしていた。タカシが「おはようございます」と声をかけると、ミドリは不機嫌そうに「うす」と手をあげた。



タカシが歩いて出勤して、村営ホテルの従業員寮の玄関をあけると、ちょうどエルデシュが通りがかる。モップを持って、作業着を着て、頭にタオルを巻いている。

「先生、に、似合う」

エルデシュがニヤッと笑う。

「そうだろ?あとで写真撮ってくれよ」

タカシが返事をする前に、ナオミの声が聞こえる。

「ポール!ポール!何やってんのー!」

エルデシュが「イエス!マム!」と大きな声をあげる。

「じゃな。ボスが呼んでるから」

エルデシュが笑顔でそそくさとナオミの声がする方に向かう。



村営ホテルの玄関の外でアズサがノボリを持って立っている。後ろに20人くらいの北欧の団体さんが立っている。

「じゃ、河童橋を渡ってバスセンターに向かいまーす」

アズサが歩き出すと、北欧の団体もそれについて歩き出す。その後ろで主任が礼をしている。

主任が頭をあげてホテルに入ると、手ぶらのナオミが横切っている。その後ろをエルデシュが色んな荷物を持ってついていっている。ナオミがあっちの方を指さすと、エルデシュは荷物を置いて、ちり取りとホウキでゴミを拾う。主任があきれる。

「ナオミくん、ナオミくん、きみ、威張りすぎじゃないか?エルデシュ博士は世界的な方なんだぞ」

「なーに言ってんですか。新人は新人でしょ?いくらエライ博士さんだって、ここではあたしの可愛い手下。ね?ポール」

エルデシュが主任とナオミを見比べる。

「イエス、マム」

ナオミが誇らしげに主任を見ていると、ガタガタと玄関が空いてアズサが入ってくる。アズサが男の袖を引いて玄関の中に引っ張り込む。

「この人、この人が信濃毎日新聞の松本さん。そこで会ったから。松本さん、あれがエルデシュ博士でこっちが主任ですから。あたし、お見送りあるから、、、」

アズサが、急いで、ドタバタと出て行く。



上高地バスセンターからバスが出て行くと、ノボリを持ったアズサが一礼している。

アズサが村営ホテルの玄関を入ると、主任とナオミとエルデシュとアニューカと信濃毎日新聞の松本が楽しそうに話している。ナオミがアズサに言う。

「松本記者にすっかり話しといたよ。村営ホテル主任の厚意を」

主任が照れる。

「やめろよー、ナオミくん」

松本記者が礼を言う。

「面白い話だったよ。ネタありがとう。で、写真撮りたいんだ。きみが帰ってくるの待ってたんだよ」

みんなで村営ホテルの玄関の前にたって写真を撮った。



3日後の朝。

小梨平キャンプ場に朝が来た。

タカシが出勤しようと小梨平食堂の前を通ると、「タカシくーん」と呼ぶ声が聞こえる。どこから呼ばれてるのかと回りを見ると、食堂のミドリがニコニコして立っている。

「オハヨー。よく眠れた?」

タカシがいぶかしげにミドリを見る。

「え、えぇ、おかげさまで」

ミドリがやっぱりニコニコしている。

「コーヒー飲んでく?」

タカシがうたぐる。

「なに?なに?どしたの?ミドリさん、便秘が治ったの?」

ミドリはそれでもニコニコしている。

「治ってないわよ。。。あんたさ、数学の天才なんでしょ?」

タカシがビックリする。

「え!なんで知ってるの?」

ミドリが信濃毎日新聞をタカシの目の前に出す。一面にアズサやエルデシュや主任が写っている。

「!!」

タカシは走り出した。



タカシが小梨平から河童橋を渡って、その途中にすれ違った何人かの他の宿の従業員が、いつもは見せない生あたたかい笑顔をタカシに向けた。

タカシが小走りに村営ホテル従業員食堂に入っていくと、ナオミと主任とエルデシュとアニューカがバラバラな場所に座って、みんな信濃毎日新聞を見ている。タカシがみんなに話しかける。

「いやー、ビックリしましたねー。一面ですねー」

主任がニヤニヤして記事を指す。

「この「村営ホテルの厚意で」っていうとこがいーなー」

ナオミがニヤニヤして記事を指す。

「「上司のナオミさんは妙齢の佳人で」だってさー」

エルデシュがニヤニヤしながら言う。

「タカシ、訳してくれよ」

タカシがエルデシュの新聞を受けとって訳し始める。

「数論の世界的権威ポール・エルデシュ博士、安曇野村村営ホテルの厚意にモップ掛けで答える」

エルデシュとアニューカがニヤニヤし始める。エルデシュがナオミと主任を指さしてニヤニヤする。ナオミと主任もエルデシュを差し替えしてニヤニヤする。

「パンパンパンパン」

と手を叩く音がして、アズサの声が聞こえてくる。

「はいはいはいはい、そこまで、そこまでー。みんな働いて、働いてー」
アズサがパンパン手を叩きながら従業員食堂に入ってくる。ナオミと主任とエルデシュとアニューカがそそくさと出て行く。タカシだけが残った。アズサがあきれている。

「朝食前からあの調子なのよー。一回出ていっても、いつのまにか戻ってきて同じことしてるから、困っちゃう」

タカシが苦笑する。

「じゃ、もう博士には訳して聞かせたんだね」

アズサが苦笑する。

「3回訳したわよ。全文」



村営ホテルのフロントにタカシが立っていると、玄関の外が騒がしくなった。外に出てみると、4人が玄関の外に立っていて、あちらから5人が歩いてくる。一緒にマイコが歩いている。

「なに?マイコさん、この人たちはなんで玄関前にいるの?」

「エルデシュ博士に会いに来たんだって。信濃毎日見て」


タカシが9人を引き連れて従業員食堂の前に来る。9人にここで待つようにお願いしてタカシだけ食堂に入っていくと、ナオミと主任とエルデシュとアニューカがバラバラな場所に座って、みんな信濃毎日新聞を見ていた。タカシが主任に話しかける。

「その信濃毎日新聞見て博士に会いに来た方々がいらっしゃるんですが、ここのお通ししていいですか?」

主任がビックリした顔で9人を見ると、9人はササッとエルデシュに近寄って挨拶を始めた。



従業員食堂の外で、アズサとタカシが立って中を覗いている。

「えー!10万円も集まったのー!大金じゃなーい。上高地帝国ホテルに1ヶ月は泊まれるじゃなーい!」

タカシがうなづく。

「そうなんだよ。皆さん数学関係の人でさ、数学界の宝である博士のためになんかしなくちゃと思って、別々に来たんだって。金一封持って」

アズサがビックリする。

「へー。数学界ってものがあるんだー」

タカシがアズサを見る。

「でさ、主任がカッコよかったよ。
「博士とアニューカのご滞在については、安曇野村村営ホテルの厚意で取りはからいました。皆様のご厚意は、どうぞまた、別の機会にお使いください」
なんつってさ」

アズサ、食堂をのぞき込んでいる。エルデシュが話すのを囲んで9人が座っている。

「それが、なんでああなってんの?」

タカシが食堂の中をのぞく。

「みんながそれでも金一封渡そうとして、でも博士も主任もいらないって言うからさ、僕が解答を出してあげたんだ」

アズサがタカシを見る。

「タカシさんが!」


タカシが少しほほえむ。
「うん。博士は講義して、みんなは受講料払えばいいじゃない。うまい案でしょ?」

アズサがうなづく。

「うまい」

タカシが大きくほほえむ。

「だいぶ世渡り上手になった?師匠として鼻が高いでしょ?」

アズサが首を振る。

「まだ、そこまでは」

タカシが「ははは」と笑った。従業員食堂ではエルデシュが9人に講義をしている。




夜になった。

村営ホテルの全部の窓に明かりがついている。従業員食堂で多くの若者が食事をしている。はじっこのテーブルに、アズサ、マイコ、エルデシュ、アニューカが座って、お寿司を食べている。マイコがエルデシュに尋ねる。

「Are You Enjoying The Food?」

エルデシュが笑う。

「マイコは、ずいぶんフォーマルな英語使うんだな」

マイコがアズサに日本語で尋ねる。

「フォーマルってなに?」

アズサがお寿司を食べながら答える。

「形式的っていうか、儀礼的っていか、、、」

アズサが英語に切り替えてエルデシュに尋ねる。

「もっと友だちみたいに話してくれっていうことよね?くだけてね?」

エルデシュがうなづく。

「だって、ぼくたちはもう友だちじゃないか」

アズサがマイコに日本語で言う。

「だから、この場合は「Do You Like It?」でいーんじゃない?」
エルデシュがアズサを指さして賛意を示す。それにしても、エルデシュとアニューカはお寿司をバクバクと食べている。エルデシュがマイコに言う。

「マイコ、おいしいよ。すごくおいしい。ありがとう。昔、カクタニに聞いたことがあるんだ。日本には寿司ってものがあるって。一度食べてみたかったんだ」

アニューカも笑顔でうなづく。マイコが尋ねる。

「カクタニって誰?」

エルデシュがビックリする。

「あれ?知らないの?」

マイコとアズサがうなづく。エルデシュが驚いた顔で話す。

「イェール大学のシズオ・カクタニだよ。教授の。不動点定理を発表した。日本で最高峰の数学者じゃないか」

マイコとアズサがポカンとしている。エルデシュが思い出し笑いをする。

「昔さ、戦争中さ、カクタニとアーサーとロングアイランドで捕まったことがあるよ。スパイ容疑だってさ。ははは」

マイコとアズサは「アーサーって誰?」と聞きたかったが、きっとわからないからやめた。マイコが別の質問をする。

「ハンガリーで魚食べないの?」

エルデシュが少し考える。

「うーん、ハンガリーじゃ、こんな風には食べないなー。そもそも、ハンガリーに海ないからね」

アズサが思いついたように言う。

「そいえば、長野にも海ないよね?5人前も松本から持ってくるの大変だったでしょ?」

アズサが答える。

「思ったよりタイヘンだったわー。最終便空いてるからさ、席一つ確保してさ、たーくさん氷で囲んでさ、大切に大切に持って来たの」

エルデシュとアニューカが感動している。それを見たマイコも喜ぶ。

「良かったら、またそのうち持ってくるよ。また最終便の泊まりがあるから」

アズサが目を細めて悪い笑顔になってアズサを見る。

「マイコちゃんは、タカシさんを狙ってるから、泊まりを志願してるんだって」

マイコが日本語でどやす。

「やめてよー。そんなことまで伝えなくていいでしょー」

エルデシュがおもむろに言う。

「タカシュはレモネードが大好物だよ」

マイコの目が鋭くなって、エルデシュを見据えた。

「ハンガリーの家に1ヶ月くらいいたことがあるんだけど、毎日5杯くらいレモネード飲んでたな。ねぇ?アニューカ?」

アニューカがニッコリしてうなづく。マイコが鋭い目でバッグからメモ帳を取り出して、真剣に何かを書き込む。



朝になった。

河童橋をマイコが制服で風呂敷を持って歩いている。何となくスカートの丈が短い。河童橋を渡ったところで、バスセンターの方へはいかず、小梨平の方に向かう。


マイコがタカシのテントの前に立つ。

「タカシくん、タカシくん」

少し沈黙があって、テントがもぞもぞと動いて、寝間着姿のタカシが出てきてノビをする。

「あれ。マイコさん。おはよ。どしたの?」

マイコ、風呂敷から寿司桶を出して渡す。

「はい。松本のおいしいお寿司。昨日、エルデシュとアニューカに持ってきたんだけど、会えなかったから」



従業員用食堂にタカシが座って、幸せそうにお寿司を食べている。アズサが食堂に入ってくる。

「あ!昨日マイコちゃんが探してたけど、会えたんだ」

「うん。朝ね。昨日はシゲルさんとこで飲み会があって、そのまま小梨平帰ったんだ」

アズサがコーヒーを持ってタカシの前に座る。タカシが朝食を食べている。タカシがつぶやくように言う。

「あのさ、、、」

「、、、なに?」

「このお寿司、すごく美味しいね」

「昨日食べればもっと美味しかったのに。博士もアニューカも喜んでたよ」

タカシが驚く。

「博士やアニューカにも持って来てくれたの?親切な人なんだねぇ」

アズサがあきれる。

「今さら気づいたの?マイコちゃんは親切な美人なのよ」

二人で少し黙々と朝食を食べる。タカシがつぶやくように言う。

「あのさ、、、」

「、、、なに?」

「ボクさ、胸の大きい人か数学やってる人じゃないと、女性としてあんまり見られないんだよねぇ」

アズサが唖然としてタカシを見る。タカシは美味しそうにお寿司を食べている。



タカシが村営ホテルのフロントに立っていると、なんだか玄関に人影が見えて騒がしいので外に出てみる。村営ホテルの前に5人が立っていて、河童橋の方を見ると20人くらいの人が続々と歩いてくる。先頭にシゲルが歩いている。

「あ、シゲルさん、博士への来訪者ですか?」

シゲルが笑顔でうなづく。



従業員食堂で、25人を前に、エルデシュが講義をしている。食堂の外の廊下でアズサが驚く。

「ご、五十みゃんえん!!」

主任が苦笑して口に手を当てる。

「しっ!声が大きいよ」

アズサが笑う。

「初任給の20倍じゃない!」

主任がうなづく。

「そうなんだよ。大金なんだよ。でもさ、それを全部村に寄付するっていうんだよ」

「いいことじゃない。ダメなの?」

「ダメじゃないけどさ、だいじょぶなのかな?少しは残しといた方がいいんじゃないの?」

アズサが合点する。

「あぁ、そーゆー心配ですか。主任はいい人ですね」

主任が照れる。

「や、やめろよ。アズサくん」

アズサが微笑しながら主任を見つめる。主任が黒メガネに手をかけて視線をそらす。アズサが笑う。

「ふふふ。博士はお金が入ると、寄付するか、誰かにあげちゃうんですって。使いこともないし、面倒なことはなくして、なるべく数学に集中したいんですって」

主任が「へー」と感心する。

「やっぱ、世界的な人は違うねー」

二人は、食堂で講義をしているエルデシュを見る。
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