第6話 たちきり

文字数 5,325文字

 新宿末広亭の十一月中席は夜の部は柳生が主任だった。寄席は十日間興行となっており一日から十日までを上席。十一日から二十日までを中席。二十一日から三十日までを下席と呼んで区別している。噺家協会と噺家芸術協会が交代で興行している。これを芝居と呼んでいる。それぞれ昼と夜の興行があるのは変わらない。ちなみに三十一日は余一会と呼び貸席となる。だから二つの協会に所属していない噺家もこの日だけは出演出来るのだ。
 主任とはトリの事で正式には主任と呼ばれている。その昔は、主任が芝居の興行を受け持ち、助演の芸人にワリと呼ばれる出演料を渡していたからだ。要するに興行の全責任を受け持っていたのだ。そこから主任と呼ばれるようになったそうだ。実際は寄席の五厘と呼ばれる事務方が計算していたが主任が責任を持ったそうだ。
 噺家の給金は決まっていて、お客が一人入ると幾らとそれぞれ決まっている。例えばお客が三百人入ったとする。寄席側と協会で半々に取り、そこから事務費等を引いて計算される。
 真打で一枚看板と呼ばれる大師匠は高く設定されており、二つ目などは安い。幹部の噺家が一人あたり十円だとすると三百人入れば三千円となる。しかし安い二つ目は三円ほどだとすると九百円ほどしか貰えない。だから寄席だけでは食べて行けない訳なのだ。寄席に通うのにタクシー等使えば赤字になるのだ。だから寄席に出演すると言うのは損得ではない。では何故噺家は寄席に出るのかと問えば、それは修行の為なのだ。
 通常個人の落語会等ではその噺家のファンが集まる。その噺家を聴きに来るので、お客はその噺家の味方でもあるのだ。言わばホームの状態である。しかし、寄席は多くの噺家が出演する。その中には僅かに自分のファンも居るかも知れないが殆どは自分を目当てに来ている訳ではない。だからアウェイの状態なのだ。実際噺を演じていても目の前でアクビをされる事がかなり起きる。当然噺家はそれを乗り越えようと稽古をするのだ。だから寄席は修行の場だと言われるのだ。だから噺家は寄席を大切にする。
 柳生は初日に「明烏」という郭噺を掛けた。これは八代目桂文楽という名人が得意にしていた噺で、なかんずく噺の中で登場する甘納豆を食べる描写が素晴らしく、その高座が終わった後は売店の甘納豆が売り切れたと言う、また売店の売上が悪い時は寄席側からこの演目のリクエストがあったという。
 柳生はこの噺は得意にしており、ほぼ満員のお客も満足して帰ったようだった。二日目からの演目を書いてみると、「笠碁」「盃の殿様」「王子の狐」となっている。今日の中日は神山との約束通り「たちきり」を掛けるつもりだ。昼間に都内にある美津子の墓に参拝していた。花を供えて
「今日は君の好きだった『たちきり』を掛けるよ。向こうから聴いて欲しい」
 そう言って手を合わせた。柳生は今言った言葉が美津子に届いている気がした。

 神山は約束通りこの日末広亭にやって来た。今日は前から見るつもりだった。今日もお客は良く入っていて、二階席もほぼ満員だった。殆どの客が柳生を聴きに来ているものと思われる。これからは神山が柳生の高座を見た時の感想がしばしば入っている。
 番組が進み膝の大神楽が終わって出囃子「小鍛冶」が鳴り出した。いつもの様に自分のリズムで出て行くと「待ってました!」「たっぷり!」と声が掛かった。座布団に座り頭を下げる。顔を挙げるとどの顔も期待をした表情だった。そうお客の中には今日が何の日か覚えている者も居るのだ。ファンだから口には出さねど、今日が柳生にとって特別な日だと理解しているのだ。
「え~めっきりと寒くなって参りました。もうすぐ年末ですねえ。一年は早いものです。うっかりするとそのうち桜が咲いていたりして」
 どっと笑いが起きる。
「今日は、『たちきり』というお噂を致してみようと思っております」
 その言葉が終わらないうちに「まってました!」と声が掛かった。
「落語に出て来る若旦那といえば大抵道楽者と相場が決まっております。このお噺はその昔、芸者の花代を、線香の燃え尽きる時間で計ったそうです。その頃のお噺でございます」
 早速、噺に入った。この演目は。道楽者の若旦那と柳橋の芸者小糸の悲恋の物語で、神山はこの噺が好きでは無かったらしく、よくこの噺に対して
「理解できない部分がある」
 と語っていた。柳生も美津子が好きだと言うので稽古したのだが、正直今の時代に合ってるのかは判らなかった。だが今なら美津子がこの噺を好きだった理由も理解出来る。彼女は自分を小糸に擬えていたのだと思うのだ。今日はそんな気持ちを込めて演じようと決めていた。
 噺は若旦那が蔵住まいを始めていた。その蔵住まいの若旦那に小糸の家から使いが届く
「これを若旦那に。ウチの小糸からです。それを番頭は若旦那に見せずに仕舞ってしまう。やがてそれは段々と溜まって行くが一切番頭は若旦那に見せません」
 いよいよ噺の核心部分に近づいて行く。やがて
「百日続くかと思った文も八十日で終わりか、これが商売。花街の情というものか」
 番頭の言葉を語る柳生はまるでその人になったか様に見える。そして百日が経ち蔵から若旦那が出される。その若旦那に番頭は
「ついては小糸という女からの最後の手紙がここにあります」
「番頭さん。それを忘れるために蔵住いしてたのだ。いいのかい?」
「どうぞ。ご覧下さい。じつのある女性とお見受けしました。百日間途切れずに来たら、私から大旦那にお願いして所帯を、と思っていました。湯も沸いていますので着替えて大旦那にご挨拶を」
 その手紙を番頭に読んで聞かせてもらった。
 『再三お手紙差し上げそうらえども、お越しこれなく。この手紙にて起こし下されなければ、もはや若旦那様にはこの世にてお目に掛かれなく存じ候。取り急ぎあらあらかしく』
 若旦那はこれを聞くやいなや。「番頭、私は蔵に入る前に願をかけていた。お礼に浅草の観音様に行かせてはもらえないか」
「そういうことなら、ぜひ行ってらっしゃいませ」。
お風呂に入りまして、着物を着替え、お父様に挨拶をして、ぶらりと出掛けました。勿論行く先は柳橋の小糸の家でございます。
 柳生はテンポ良く噺を進めて行く。そして柳橋の小糸の家に到着する
「かあさん。小糸はいるかい」
「あら。若旦那。随分のお見限りじゃありませんか。あの日はお久はずっと待っていたのですよ」
「小糸は……」
「奥にいらっしゃいな」
 この時の女将の表情が抜群だと感じる。それは若旦那に対する小糸の想いを伝えようとする女の情念に思えた。
 白木の位牌を持ち出す女将にいぶかしそうな若旦那。
 「あの娘(こ)はこの様になって……」
 仏壇の位牌を見た若旦那は驚き
「死んだ?。どうして」
「どうしてと言えば、貴方が殺したんじゃないですか。あの日は芝居に行くと約束してたでしょ。早起きして化粧をしているから、『早すぎるんじゃないの』というと、『いつ来るか判らないから、化粧だけでもさせて下さい。もし若旦那が来られて、こんな姿を見られたら恥ずかしいです』」
 この時、神山の目にはハッキリと小糸の姿が見えていた。
 小糸の想いとは裏腹に一時を過ぎて序幕も始まってしまった。女将は
「二人の邪魔をするようにみえるので、手紙を出すのは止めなかったんですよ。使いの者は、若旦那は居ませんでしたが番頭さんに渡したと言います。夕方になってもお見えでは無いので、再び手紙を持たせましたが、同じ返事。毎日何本もの手紙を書いていました。それからは『若旦那に、すてられた、捨てられた』と言っていました。終いにはお湯にも入らず、髪も結わず、床に付くようになってしまいました。『私若旦那に捨てられて生きていたくないの。ワガママ言ってスイマセン』。何と慰めて良いか解らなくなったんです。亡くなる日でした、貴方が誂えてくれた比翼の紋が入った三味線が届いたのです。『弾いてみたい』と言いますが、やつれて起き上がることも出来ないんですよ。支えて起こし、私が調子を合わせて上げましたが、あの子はまるであなたに向けて弾いてる様でした。でも『痛いから横にして』と言うのが最後でした。あの子は最後にあなたに向けて三味線を弾けて満足してしまったのかも知れませんね」
「その時は何を?」
「当然『黒髪』ですわ」
 女将が語る小糸の身の上に、まるで小糸そのものが語っている様に感じる。これは凄い。客は完全に噺に取り込まれていて、誰も身じろぎさえしない。神山はそう感じていた。
「何という事だ! 申し訳ない。全く知らなかった。そうと知っていたら、蔵を抜け出しても……」
「何です。その蔵というのは」
「実は、番頭に騙され、蔵に百日間入れられていたんです」
「まあ、それでは何本手紙を出しても届く訳がありませんよね。今日は三七日(みなのか)になりますので、お友達が線香上げに来てくれたんですよ。仏の供養ですから、せめてここで一杯飲んでいって下さいな」
「はい、頂きます」
 三味線は仏壇の前に立てかけて、お酒の用意と、新しく線香を立てた。大きな器に酒を注いで、むせながら飲み始める。まるでその模様が手に取る様に判る。人が口で語る描写でここまで出来るのかと神山は思った。
 下座の三味線が鳴り出した。約束どおり「黒髪」だった。
「貴方の好きな黒髪を引いていますわ」
「小糸、そんなに想ってくれていたんだね。これからは女房と名の付く者は持たないから、許しておくれ」
 この時恐らく若旦那には小糸が三味線を弾く姿が見えていたのだろう。それがこちらまで伝わって来る。涙ながらに訴える若旦那の想いを感じる事が出来た。
 この時、柳生は演じながら小糸と美津子を重ねていたと感じた。この噺の中ででは柳生にとっては小糸は美津子そのものなのだ。お互い救う事が出来なかった想いを重ねて演じているのだと神山は感じていた。
「小糸、若旦那の言葉を聞いたでしょ。それを土産に成仏しておくれ」
 その時、突然三味線の音が切れる。三味線がピタリと止んだ。
「三味線が切れたね。どうしたんだろう。小糸、もっと弾いておくれ」
「若旦那、もう駄目です。小糸は弾く事が出来ません」
「どうして?」
「見てください。仏様のお線香がちょうど立ち切れました」
 サゲを言って頭を下げる
「ありがとうございました。ありがとうございました」
 と頭を下げる柳生にまるで拍手が天から降って来るような感じがした。中には立ち上がっている者も居る。神山は何故、美津子がこの噺が好きだったのか、何故、柳生が供養に今日この噺をやったのか少しだけ理解出来た気がした。今日の高座は静かにだが燃えるような想いを心に秘めた高座だと記録した。
 終演後に神山は「まさや」に柳生を誘った。店で肴を摘みながら静かに酒を酌み交わす。
「結局、芸能界のシステムから抜け出せない自分と小糸。それに若旦那を自分に擬えていたんですね。自分はそれが判ったから、私は彼女の前でこの噺を良くしたんですよ。それしか私には出来ませんでしたから」
「あの日も彼女の前で演じたそうだが」
 神山の言葉に柳生は
「ええ、やりました。美律子が聴きたいってネダったんです。しんみりと聴いていました」
「それで覚悟が決まったのかな?」
「え、というと……」
 柳生は神山の言葉の意味が理解出来なかった。柳生としてみれば、既に、そのつもりで居たはずだと思っていた。
「俺の個人的な考えだが、彼女は最後まで迷っていたんだと思うんだ。だけどお前さんの『たちきり』を聴いて覚悟を決めたと思うんだ」
 神山の考えを聞いて柳生は
「そう言えば。私の噺を聞いて『私、小糸さんになる』って言っていました。
「『小糸になる』かぁ……意味深だな」
「だから私は既に覚悟を決めていて、私の噺を聞いて再決意したんだと思っていたんです」
「お前さんは彼女のことをどう思っていたのさ。それが重要だろう。一緒に死んでも良いと思ったのは事実なんだから」
 神山は今までその時の柳生の真理を尋ねた事は無かった。何時かは尋ねられるとは思っていた事も事実だった。
「そうですね。私が一緒で救えるなら。それしか彼女を救えないならと考えていました」
「情に流されたのかい」
「それだけでは無いです。もっと奥深いものです。今でも上手く言えませんけど」
「そうか。でも供養になったな」
 神山がそう言うと柳生は少し笑いながら
「ここだけの噺ですがね。実は最後のシーンで美律子が高座に現れたんですよ」
「はあ?」
 その昔、高座に亡くなった師匠が降りて来たという話は聞いた事があるが、実際に死んだ者が現れたという事を聞いたの初めてだった。
「ハッキリと見えたのかい?」
「ええ、でも自分だけでしょうけどね。好きだった噺ですから聴きに来たのでしょう」
「彼女は満足していたかい」
「それはもう……」
 柳生がその夜に小料理「まさや」で神山に語った言葉である。
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