第21話 臭い男

文字数 3,579文字

 わしの姪なんじゃが、めっぽう気が強うてなあ。子供の頃はそんなことなかったんじゃけども。

 その姪が大学を出て、会社に就職してまもなくの頃の話じゃ。そこそこ知られていて、名前を出せばたいていの人が聞いたことのある会社で……仮にX食品としようか。

 いやいや、姪はさして優秀な方でもなかったと思う。

 バブルの頃じゃったから、かんたんに就職できたようだしのう……ああ、もうとっくに辞めて結婚してる。子供もおる。

 X食品は全国に何か所か支社があってな、姪は実家の近くの支社に採用されたんじゃが、少なくとも一年は本社に勤めるって決まりがあった。

 姪もむろん初めは東京暮らし、独身者用の寮があってそこに入った。場所は確か……経堂だったか。確か、最寄駅が経堂じゃったな。

 部屋は、独身者用だからよくあるようなワンルーム、バスとトイレが別になっているのがまだましという程度。

 備え付けのベッドがドーンと部屋の中央に鎮座ましまして、それ以外のスペースといったら、ほとんどない。

 姪は、そんな部屋でも親元からは離れる、しかも東京でって、浮かれとったようじゃな。まあ、全然気にならなかった。

 だんだん仕事に慣れてきて、連休すぎても五月病にもならず元気に勤めていたんじゃがな、六月の初めのある日……その日は仕事が休みじゃってんで、ベッドで寝転がって雑誌かなんかを読んでたら、頭のてっぺんの方、枕元の方に気配がしたんじゃ。

 だれかが雑誌をのぞいているような感じがする。

 すうすうと、息遣いまで聞こえる。

 姪は全く気にせんというより以前に、そういうのを信じとらん。平気で雑誌を読みつづけた。

 おかしいよのう。頭の方からのぞいてるんじゃから、雑誌はそいつにとって逆向きになっとる。

 でも、なにが気になるのか、のぞくのを止めようとしない。

 そのうちだんだん気配が濃くなっていき、それにつれてひどいにおいが漂いだした。

 ページをめくると、はあーと溜息さえもらす。

 あたかも、まだそのページを見てるのにと抗議するような雰囲気じゃった。

 少なくとも姪はそうとったから、もう我慢できなくなって、

「なによ、もう!」と叫んで起き上がって見回してみたが、だれもいない。

 においは残っていた。

 残り香なんて雅なもんじゃなく、夏場に放置した生ごみに似ている。

「ちょっと、臭いんだけど!」

 と、だれにともなく腹を立てていると、しゃがれた声がしたんじゃ。

「……俺の部屋」

「臭い」

「ここは……俺の、部屋」

「臭い」

「俺の……部屋、なんだ……」

 こんなふうに、そこはじぶんの部屋だとそいつが主張して、姪は臭いくさいとくりかえして、噛み合わない会話が数分。

 フッとにおいが消えて、声もしなくなった。

 それから姪は、また雑誌を読みつづけたというんじゃな。

 また数日後のある日のことじゃ。

 仕事から帰ってきた姪が、さっさと着替えてシャワーでも浴びようとしたところ、祭り囃子が聞こえてきた。

 ああお祭りの日か、おみこしが通るのかもと窓辺に寄ってみて……ハッ、と気づいた。

 終電近い電車で帰ってきたのに、とな。

 夜のお祭りというのは、あるにはあるじゃろうが、それにしても深夜じゃ。いくらなんでも遅すぎる。

 カーテンをめくってみても案の定、往来に人の気配はない。ポツリと街灯がともっているだけじゃった。

 じゃがのう、祭り囃子は依然として聞こえよる。

 篠笛がぴーひゃら、ぴーひゃら、ヨイサホイサと景気よい声まで聞こえてくる。

 テレビかなにかじゃろうか……隣の部屋かと思って壁に耳をあててみたが、なにも物音はしない。反対の部屋かとそっちに耳をあててみても、やっぱりなにも聞こえない。

 疲れておったからって、姪はそこでもう放っておくことにした。騒がしいのを除けば支障はないってな。

 それでシャワーを浴びて、寝巻に着替えてベッドに転がり込んだ。

 するとな、そこでまた臭気がただよい始めて、だんだん頭が痛くなるくらいになってったんじゃ。

 そして、声がした。

「ここは……俺の部屋」とな。

「あんたねえ」と、姪は立腹して叫んだ。「ここはわたしの部屋よ。部屋代だってタダじゃないんだから。給料から天引きされてるの!」

 いやいや、実際どうだったか……まあ名目上、給与から天引きされてたのかもしらんが、別にアパートだのマンションだの借りたら、そんなもんじゃすまんじゃろうて。

 とにかく、こんなふうにあれやこれやまくし立てていると、そのうちにおいは消えて声もしなくなった。祭囃子も聞こえなくなった。

 翌日、姪は先輩に聞いてみたんじゃ。

 これまで二度こうこうこういうことがあったんですけど、わたしの住んでるところって、なにか変な噂がありませんかって。

 そうしたら先輩はなにも知らないという。じゃが、それとなく他の人に聞いてみるといってくれた。

 その先輩はずっと本社勤めで、姪のお目付け役……あれ、ああ……教育係? ああ、そういうのか。

 姪のように会社の寮に入って一年くらい修業するのを、何人も見てきている。でも、寮に関してそんな話は聞いたことがないってな。

 数日後、休みの日に姪は家でゴロゴロしてたんじゃが、昼頃になあ、呼鈴がなったんじゃ。

 ドアスコープをのぞくと、ごくふつうの背広姿、サラリーマン風の男じゃった。

 怪しい印象は受けなかったんでドアを開けた。

 すると男は、首にかけた社員証を見せて、

「X食品、人事課の者ですが」っていう。

 それは確かにX食品の社員証で、見慣れたものじゃった。

 男の顔に見覚えはなかったが、社員はたくさんおるからのう。その点、怪しみはしなかった。

 じゃが、それにしてもなぜ休日に会社から、と姪は思った。

 火急の用件か。きのう、なにか失敗してしまったのか……と、あれこれ考えた。

 男はつづけた。

「突然ですが、あなたには辞職してもらわなければなりません」

「はあ、辞職? どうして」

「採用試験の選考の際に手違いがありまして……。あなたのような人物は採用してはいけないという内規があったんです」

「どういうことでしょうか」

「詳細は申しわけございませんが、お話しできません」

「なぜきのう会社にいるときに、そういったお話がなかったんでしょう」

「急いでおりまして……それもお答えできません」

「納得できません」

「納得できなくても、きょうは少なくともこの場で辞表を提出していただかなければ、法律に触れることになります」

「どんな法律ですか?」

「労働基準法と労働関係衛生法です」

 こんなふうに、だんだん不毛なやりとりになっていってのう、全くその男のいうことが理解できんので、姪は男を待たせてな、部屋の中にもどって電話をかけたんじゃ……うん、会社にな。

 ああ、もちろんその頃、まだ携帯電話なんてもんはなかった。その部屋に代々つたわってきた固定電話じゃ。

 会社の自分の部署には、たまたま上司がおった。

 社員証の名前を憶えとったから、人事課の○○という人がきてるんだけれども、と聞いて見たところ、ちょっと待たされて……しばらくして、そんなもんはいないとの返事があった。

「いま、玄関にその男がいるのか? あげてないよな」

 どちらの質問にもはい、はいと答えると、上司は、

「いいか、落ち着いて……落ち着いてな、できるだけ穏便に帰ってもらえ。それから受話器は置くな。かかった状態にしておけ」

 はい、と答えて、姪は玄関に戻ったんじゃが……もう、男の姿はなかった。

 じゃがのう、例の生ごみのようなにおいが残っとった。

 男がいたときにはそんなにおいなんか、しなかったのに……。

 それからすぐに姪は、その寮を出て引っ越したんじゃな。都内じゃないが、じゅうぶん通える距離にある、やっぱりX食品の寮に。

 本人は至って平気だったんじゃが、上司がな、なにかあったら大変だと強く勧めたらしい。

 もっとも、上司はその男が変質者かなにかだと思っとったようじゃが。

 それから先輩の方は……まわりに聞いてみても、やっぱりその寮で変なことがあったという噂はないとの回答じゃった。

 オバケも幽霊も、金縛りもない。

 たまたま姪だけが、つづけてそんな目にあったということらしいな。

 うん……引っ越した先でも、変なことはなかったそうじゃ。

 姪を追いだすのに、まんまと成功して……そいつ、いまでもその部屋のあるじでいる気なんじゃろうて。
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