第1話

文字数 4,994文字

 昔むかし、というほど遠い過去の話ではありません。
 とあるところに、お玉ちゃんと呼ばれる小さな女の子がおりました。お玉ちゃんのほんとうの名は玉緒といいます。お玉ちゃんは、この名前が好きではありませんでした。口の悪い子どもたちが「やーい、タマ、おまえ猫みたいな名前だな」などと小馬鹿にして囃すからです。
 お玉ちゃんが周囲の子どもたちから弾かれる原因は、もうひとつありました。むしろ、こちらのほうが主な理由です。
 お玉ちゃんには、ほかのひとたちには見えない、聞こえない、そんなものを目に映し、耳にする、そういう能力があったのです。だれもいないはずの場所をじっと見つめ、だれも聞こえないはずの声を、ささやきを拾いあげる、そんなお玉ちゃんは子どもたちだけでなく、おとなたちからも薄気味悪い子だと思われていました。そしてそれは、お玉ちゃんの両親も例外ではなかったのです。
 お父さんもお母さんも、お玉ちゃんに近寄りたがらず、どうしてあんな子が生まれたのか、どうしてふつうの子が生まれなかったのかと、毎日のようにいさかいは絶えませんでした。お玉ちゃんはだんだん無口になりました。余計なことを口にしないよう、もうこれ以上、両親や周囲のひとたちに嫌われないよう、小さな身体をまるめてうずくまり、すべての言葉を呑み込んだのです。
 しかし、その甲斐も虚しく、お玉ちゃんを持て余した両親は、お玉ちゃんを田舎の祖父母のもとへと預けることに決めてしまいました。お玉ちゃんに抗うすべはありません。
 こうして、まだ幼いお玉ちゃんは両親のもとを離れ、馴染みのない祖父母とともに暮らすことになりました。
 幸いにも、祖父母はお玉ちゃんを歓迎してくれました。田畑を耕し、それを糧に倹しく暮らす老夫婦にとって、これからいろいろなものを吸収して知識を蓄え世のなかの仕組みを知り、おとなへと成長してゆく幼いお玉ちゃんの存在は、まばゆい希望以外のなにものでもなかったのです。お玉ちゃんのあの不思議な能力を知っても、祖父母のお玉ちゃんへの愛情は変わりませんでした。それがどれほど嬉しかったことでしょう。けれども、お玉ちゃんはときどき、祖父母に見付からないよう隠れて、離れた両親を想って泣くのでした。
  そんなある日、お玉ちゃんはいつものように、だれにも会わないようにそそくさと、朽ちかけたお社のある場所へと向かいました。そこを見付けたのはほんの偶然でした。ひとけのない、村のだれも立ち入らないような寂れたお社です。木陰で涼しく、両親のことを想って泣くには格好の隠れ場所でした。
 草木の生い茂る敷地の隅っこでうずくまり、しくしくと泣いていると、ふと、なにかの気配を感じました。泣きながら顔をあげると、そこには、ずいぶんと背の高い男のひとが立っていました。手入れのされていない枝葉が空を遮り、暗く翳って、男のひとの顔はよく見えません。お玉ちゃんは、しゃがんだままどうにか男のひとを見あげていましたが、そのまま後ろに転んでしりもちをついてしまいます。とっさに地面に手をついた拍子に、てのひらを擦りむいてしまいました。しりもちをついたまま、両手をはたいて砂を落としていると、ふいに、男のひとがその場に膝をつき、お玉ちゃんの小さな手を取ります。とても冷たい手でした。
「驚かせるつもりはなかった。すまない」
 すぐ目のまえに、男のひとの顔があります。お玉ちゃんは子どもながらに、なんてきれいなひとだろう、と思いました。しばらくそのまま見惚れていたほどです。男のひとも、じっとお玉ちゃんを見下ろしていましたが、やがて、もう一方の手を伸ばしてお玉ちゃんの頬に触れました。
「玉のような、美しい目をしている」
 玉のよう、といわれて、お玉ちゃんの表情はみるみるうちに翳っていきます。それを見た男のひとは、怪訝そうに尋ねます。
「どうした。なにが気に食わない?」
「みんな、タマっていってわらうから」
「笑う? なぜ?」
「玉緒っていうなまえがおかしいから」
「玉緒というのか」
「うん」
「よい名だ。笑うような理由はない」
 思いがけない言葉に、お玉ちゃんは驚いて顔をあげます。男のひとは、ほかのひとのように嘲笑うことなく、真摯な眼差しでお玉ちゃんを見ています。
「玉というのは、美しいものを表す。玉の緒は、魂の緒、つまり命そのものをいう。これほどに美しい名がほかにあるか?」
 その言葉は、お玉ちゃんにはすこし難しいものでしたが、このうえない言葉を尽くして誉められているのだと、それだけはたしかに理解できたのです。小さく縮こまったお玉ちゃんの心に、その言葉は宝物のようにきらきらと美しく響きました。
 はじめて、自分の名前を好きになれた瞬間でした。
「よくここでひとりで泣いているが、なぜそんなに泣く。おまえのような幼子を、いったいなにがそれほどまでに悲しませるのだ」
 まったく知らない男のひとでしたが、不思議と、こわいとは思いませんでした。お玉ちゃんにとっては、顔見知りの村人たちのほうがよっぽど恐ろしい存在なのです。すくなくともこの男のひとは、きっと、お玉ちゃんのことをひそひそとうわさしたり馬鹿にしたりはしません。
 お玉ちゃんは泣くのをやめて、自分のおかしな力のことや、それが原因で両親から見放されてしまったことを、つたない言葉で懸命に説明しました。男のひとは、いっさい口を挟むことなく、最後まで黙ってお玉ちゃんの話を聞いてくれました。話し終えたお玉ちゃんは、なにやら不穏な空気に気付きます。見ると、目のまえの男のひとの表情は明らかな怒りを抑えているようです。そうすると、きれいな顔立ちをしているだけに迫力があります。
「いたずらに子どもを傷付ける。人間はそこまで愚かに成り下がったか」
 ぞっとするほど冷ややかな口調でした。お玉ちゃんは思わずびくっと身をすくめます。男のひとの怒りが空気を伝ってお玉ちゃんの肌を粟立たせます。そんなお玉ちゃんに気付いたのか、男のひとはふっと表情を和らげてお玉ちゃんの手を撫でます。
「怖がらせるつもりはなかった。すまない」
 お玉ちゃんは声が出ませんでしたが、ふるふると小さくかぶりを振って、大丈夫、と伝えたつもりでした。
「玉緒、またおいで」
 男のひとはそういうと手を離しました。お玉ちゃんが返事をするまもなく、いつのまにか男のひとは去っていました。そうしてお玉ちゃんが手を見ると、擦りむいたはずの傷は跡形もなく消えていたのです。

 お玉ちゃんは、その男のひとのことを祖父母にも話しませんでした。だれにも話してはいけないような気がしたのです。
 それからずっと、お玉ちゃんはあの男のひとのことばかり考えていました。とても不思議なひとでした。もしかしたら人間ではないのかもしれない、と思いました。お玉ちゃんにとっては、人間とそうでないものの境目はひどくあいまいです。どちらかといえば、人間のほうがお玉ちゃんには害があります。あの男のひとはとても親切でした。お玉ちゃんの話をちゃんと聞いてくれましたし、手の怪我まで治してくれました。
 数日後、お玉ちゃんはあのお社へ向かいました。今度は珍しく泣いていません。泣くために行くのではなく、あの男のひとに会いに行くからです。お社に着くと、お玉ちゃんはあたりを見渡します。だれもいません。約束をしたわけではないので、会えるとは限りません。
 けれども、しばらくすると、あの男のひとが現れました。
 お玉ちゃんはほっとして、さっそく、手に抱えてきた荷をほどきます。大事に包んだそれを取り出すと、そばにやってきた男のひとに両手で差し出します。
「これは?」
「おにぎり。こっちがお塩で、こっちが高菜」
「これを、私に?」
「うん」
 うなずいてから、お玉ちゃんは小首を傾げます。
「おにぎり、きらい?」
 男のひとは、相変わらずきれいな顔でじっとお玉ちゃんを見下ろしていましたが、ようやくおにぎりを受け取ってくれました。
「ありがたく頂戴する」
「うん」
 お玉ちゃんが握ったので、おにぎりは小さめで、形もすこし歪です。
「これは玉緒が自分で握ったのか」
「うん。はじめてだから、あんまりじょうずじゃないけど」
「いや。よくできている」
 男のひとは、しばらくおにぎりを眺めていましたが、おもむろに口許へと運びます。それを見て、お玉ちゃんも自分用に持ってきたおにぎりを頬張ります。すこし塩が多かったようです。
 「しょっぱいね」
 お玉ちゃんがしょんぼりすると、男のひとは「そんなことはない。おいしい」といってくれました。ふたりでおにぎりを食べ終えると、男のひとが尋ねます。
「なぜ、私におにぎりを持ってきたんだ」
「このまえ、なまえをほめてくれたから」
「それで、おにぎりを?」
「うん。あと、てのきず、なおしてくれた」
 お玉ちゃんの言葉に、男のひとはふっと沈黙します。
「玉緒は、私が怖くないのか」
 今度はお玉ちゃんが尋ねる番です。
「どうして?」
 男のひとは、すこしためらったあと、こういいました。
「私は、人間ではないかもしれないのに」
 それを聞いて、あ、やっぱりそうなのか、とお玉ちゃんは思いました。でも、それだけです。
「どっちでもいい。おにいちゃん、やさしくしてくれたから」

 *****

 ずいぶんとあとになって白状しましたが、お玉ちゃんのこの言葉と、おにぎりで、この男のひとはお玉ちゃんにすっかり落ちてしまったそうです。
 お玉ちゃんはお玉ちゃんで、幼いながらになにか思うところがあったのか、それ以来、毎日のようにお社にやってきては、荒れ放題だったお社を掃除して清め、汗だくになりながら草刈りに励み、ふたりでおにぎりを食べるのが日課になったそうで。おかげで、お社は見違えるほどきれいになりました。
 そして、幼いお玉ちゃん相手におとなげなく本気になり、さっさとお玉ちゃんを囲うべく求婚し、おそらく婚姻のなんたるかをまだ理解していなかったであろうお玉ちゃんの同意を得た男のひとは、本領を発揮して、それまでお玉ちゃんを傷付け悲しませてきた人間たちをこてんぱんにこらしめたのです。これについては、ここで多くを語りません。あまり気持ちのいい話ではありませんし、肝心のお玉ちゃんは、そのことをまったく知らないからです。この男のひとのことを、いまだに、やさしいおにいちゃん、と思っているくらいなのです。お玉ちゃんはしあわせです。そのお玉ちゃんのしあわせを守るためなら、この男のひとはどんなことでもやってのけるでしょう。
 さて、そろそろこのお話も終わりを迎えます。すでにお気付きかと思いますが、念のため、種明かしをしましょう。
 お玉ちゃんを娶った男の正体は、あのお社の主でした。かつてお社のそばには池があり、彼は水神として祀られていましたが、やがて村人たちから忘れられ、力を失い、朽ち果てる寸前だったのです。そこに現れたのがお玉ちゃん。純真無垢なお玉ちゃんと出逢い、彼女からの信頼と供物を得た彼は力を取り戻します。ただでさえ、自分を崇めることを忘れた人間たちを怨んでいる彼が、ましてや愛しいお玉ちゃんを蔑ろにした人間たちを赦すはずがありません。危うく祟り神と化すところでしたが、それを踏みとどまらせたのはもちろんお玉ちゃんでした。『やさしいおにいちゃん』でなくなった彼を、お玉ちゃんはどう思うでしょう。その一点だけが彼を繋ぎ止め、祟り神にさせなかったのです。それでも水面下ではかなりの復讐を成し遂げたわけですが。
 そういった一連の話を聞くに、どうやら、わたしは彼のほうの血を濃く受け継いだようです。
 申し遅れましたが、わたしはこのふたりの娘で、珠子と申します。いい名前だと思っています。それなのに、タマゴだのなんだの、馬鹿にしてくる人間がいるのです。わたしは両親と違って決してやさしくはありませんし、どうも、父親の力と性質を強く受け継いだようで。
 大事な名前を馬鹿にされると、ついうっかり、相手の息の根を止めてしまいそうになるのです。実は何度かやらかしてしまって。
 なんてね、ふふ、冗談です。
 嘘ですよ。ほんとうに、嘘。
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