第13話 バス停
文字数 3,149文字
その田舎の町に引っ越したきっかけは両親の離婚だった。新しい家は母の実家、ただ祖父はもう他界していて、祖母と母だけが新たな家族になった。
高校二年の秋のことだった。
転校はしなかった。
学校まではバスで駅まで行き、そこからローカル線で三駅、更に歩いて十分ほど、併せて一時間半の長い通学になったが、クラスメイトと別れずに済むし、家で母の沈んだ顔を見る時間が短くて済むという口に出来ない理由から僕はそれを受け入れた。
駅までのバスは、何もない田舎道を進むだけのいつもガラガラの赤字路線だった。
慣れるまで時間がかかりそうだ、最初にバスに乗った時の印象はそれだった。
畑の中を進み、小さな丘を越え、遠くに僅かな家の建つ集落を見ながら、最寄り駅までは四十五分ほどの道程。
最初このバスを使うのは正直不安だった。
田舎のバスだから、学校に遅刻しないためには一時間一本しかないバスに乗り遅れるわけにいかないのだ。緊張し定刻より十分以上前にはバス停に立っていた。
早朝のバスに乗客はまばらだった。
入り口近くの左側の横向きシートに座った僕は、窓の外のよく言えば牧歌的、本心で言えば寂れた郊外の休耕田と耕作地の入り混じった拓けた景色をぼんやり見ていた。
バス停は結構な数があるが、殆どのそれは乗客もなく通過していく。
そんな中、あるバス停でバスは停車し、乗降扉が開いた。
だが、そこからは誰も乗ってはこなかった。
何か奇異に思えたが、バスはそのまま何事もなかったように扉を閉めて出発した。
街のバスでもたまに時間調整をするのに無人バス停に停車するのは知っていたが、特に長時間停まるでもなくバスは動き出した。
なんだったんだろう?
その時はただ、そう感じた。
しかし、この一時停車と扉の開閉は、翌日もその翌日も繰り返された。
僕は次第に好奇心が勝つようになり、ある日駅で降りるときに勇気を出して運転手に聞いてみた。
この早朝便の運転手が、いつも同じ人なのを僕は気付いていた。
「あの、一つ聞いてみたいことがあるんですが…」
降車客は僕が最後だった。
初老の運転手が僕を見て微笑んだ。
「南方十字路から乗るようになった学生さんだね、なにかな?」
「あの、なんでいつもI集落のバス停に停車するんですか? お客さんいないのに」
少しの間運転手さんは僕の顔を見ていたが、少し微笑みこう言った。
「お客はね、いるんだよ。ただ、君には見えていないのだね。当然だろうけど」
どういうことだろう、もう少し話が聞きたかった。だが運転手さんは言った。
「ほら電車の時間に間に合わないよ、早く行きなさい」
僕は時計を見て「あっ」と呟き頭を下げて駅に走った。
その後も運転手さんは、同じバス停で停まる日を繰り返したが、何故か僕はもう一度質問をする機会を作れなかった。
転機が来たのは、冬休みが終わって最初の登校の日だった。
いつも停まっていたあのバス停をバスが通過したのだ。
あれ、と思い初めて気が付いた。
運転手さんはあの初老の人から、中年の新しい人に変わっていた。
駅で降りるとき、僕は聞いた。
「運転手さん変わったんですね」
中年の運転手は頷いた。
「ああ、前のNさんはこの路線十年続けてたんだけど、年明けに体壊してね引退したんだよ」
僕は黙って頭を下げ駅に向かった。
それ以降、バスは途中で停まることがなくなった。
だけど、ある日すべての謎が解ける日が来た。
春休みが終わり、三年生のなった直後、僕は学校でちょっとした事故に遭い意識を失い病院に運ばれた。頭を強く打ち、脳震盪を起こしたのだ。
念のため数日入院してくれと言われたその病院の病棟で、僕はあの初老の運転手に再会したのだ。
「運転手さん」
休憩室で点滴を吊るした台を自分で押している見覚えのある顔に僕は声をかけた。
「ああ、学生さん、こんな所で会うとは思ってなかったよ」
運転手さんは、微笑み僕をソファーの隣の席に誘った。
「バスはちゃんと定時に来ているかい?」
僕は頷いた。そして、言った。
「でも、あのバス停には停まらなくなりました」
それを聞いて運転手は、少し悲しそうな顔をした。
「そうか、じゃああの子は毎日あそこで待っているのだろうな…」
その後、運転手さんの語った話に僕は胸を締め付けられる思いを感じた。
「そんなことが…」
「ほかの運転手に話しても、きっと笑って相手にしてくれん。悲しいことだ」
初老の運転手さんはそう言って何度も首を振った。
この時、僕は自分の漠然としていた進路をもう決めていたのかもしれない。
その運転手さんがステージ4の肝臓がんで、結局その数週間後に帰らぬ人になった。
七月十八歳になった僕は、母に無理を言って教習場に通い運転免許を取った。
そして、大学を受験し合格すると、自動車部に入り運転に磨きをかけ、三回生の時に大型免許を取った。さらに、卒業直前には大型二種免許も取得した。
「君ほどの成績なら県内の地元企業じゃなく東京でも十分に就職先があるのに」
就職希望先を学生課に告げた時、そう言われた。でも決心は変わらなかった。
「いいんです、どうしてもやりたい事があるので」
僕は地元の交通会社に運転手として就職した。
大学新卒での運転手採用は十数年ぶりと言われた。
そこで僕は、無理を承知である路線の担当をさせてくれと言った。
「まあ、確かに早朝の線でやりたがる人間は少ないが、本当にいいのかね?」
配車係の担当に念を押されたが、僕は頷いた。
「待っているお客さんがいるのです」
上司は首を傾げたが、僕の無理は通った。
初めて、あの毎朝通ったルートを運転するときは緊張した。
お客で乗るのと乗客の安全を預かり運転するのの違いを痛感しつつ、僕はあのI集落のバス停の差し掛かった。
そして、見た。
ああ、あの運転手さんの言葉は本当だった…
バス停に、小さな女の子が、黄色い新入生の帽子とランドセルを背負った子が立っていた。
バスを停め、扉を開くと女の子は、嬉しそうに笑顔を見せバスの乗り、そしてミラーの中でその姿をかき消した。
僕が引っ越してくる五年ほど前、そのバス停から毎朝乗って来る新入生の女の子がいた。
だが、夏休みを直前に女の子は不慮の事故で亡くなったという。
だが、その後もその子が毎朝バス停に立つのを、あの初老の運転手は見ていたという。
ある日、バスを停めてみると女の子は喜んでバスに乗り、そして姿を見えなくしたという。
だがその翌日も少女はバスを待っていた。
それ以来あの運転手さんは、毎日彼女をバスに乗せていたのだ。
決して歳を取らない少女の為に。
僕は、その子の為にこの仕事を選んだ。あの初老の運転手さんの遺志を受け継いだのだ。
いつかは、僕もこのバス路線から離れなければならないかもしれない。
でも、この子の学校に行きたいという最後の願いがいつか成仏に繋がるかもしれない、そう願い毎日バスを無人のバス停の停め続けた。
どんなに奇異の目で見られても、それをしたいという思いから。
少女はいつか天国に行けるのだろうか。
それは僕にはわからない。
ただ、バスに乗るときの少女の顔は嬉しさに綻んで、消えていく。
それを見るだけど、僕は満足だった。それに、たまにバスにはあの初老の運転手さんも他の人には見えないお客として乗ることがあったから。
お客の少ない田舎のバスは、今日も無人のバス停に停車する。当たり前のように…
見えない乗客は、運転席からだけはきちんと見えていた。
高校二年の秋のことだった。
転校はしなかった。
学校まではバスで駅まで行き、そこからローカル線で三駅、更に歩いて十分ほど、併せて一時間半の長い通学になったが、クラスメイトと別れずに済むし、家で母の沈んだ顔を見る時間が短くて済むという口に出来ない理由から僕はそれを受け入れた。
駅までのバスは、何もない田舎道を進むだけのいつもガラガラの赤字路線だった。
慣れるまで時間がかかりそうだ、最初にバスに乗った時の印象はそれだった。
畑の中を進み、小さな丘を越え、遠くに僅かな家の建つ集落を見ながら、最寄り駅までは四十五分ほどの道程。
最初このバスを使うのは正直不安だった。
田舎のバスだから、学校に遅刻しないためには一時間一本しかないバスに乗り遅れるわけにいかないのだ。緊張し定刻より十分以上前にはバス停に立っていた。
早朝のバスに乗客はまばらだった。
入り口近くの左側の横向きシートに座った僕は、窓の外のよく言えば牧歌的、本心で言えば寂れた郊外の休耕田と耕作地の入り混じった拓けた景色をぼんやり見ていた。
バス停は結構な数があるが、殆どのそれは乗客もなく通過していく。
そんな中、あるバス停でバスは停車し、乗降扉が開いた。
だが、そこからは誰も乗ってはこなかった。
何か奇異に思えたが、バスはそのまま何事もなかったように扉を閉めて出発した。
街のバスでもたまに時間調整をするのに無人バス停に停車するのは知っていたが、特に長時間停まるでもなくバスは動き出した。
なんだったんだろう?
その時はただ、そう感じた。
しかし、この一時停車と扉の開閉は、翌日もその翌日も繰り返された。
僕は次第に好奇心が勝つようになり、ある日駅で降りるときに勇気を出して運転手に聞いてみた。
この早朝便の運転手が、いつも同じ人なのを僕は気付いていた。
「あの、一つ聞いてみたいことがあるんですが…」
降車客は僕が最後だった。
初老の運転手が僕を見て微笑んだ。
「南方十字路から乗るようになった学生さんだね、なにかな?」
「あの、なんでいつもI集落のバス停に停車するんですか? お客さんいないのに」
少しの間運転手さんは僕の顔を見ていたが、少し微笑みこう言った。
「お客はね、いるんだよ。ただ、君には見えていないのだね。当然だろうけど」
どういうことだろう、もう少し話が聞きたかった。だが運転手さんは言った。
「ほら電車の時間に間に合わないよ、早く行きなさい」
僕は時計を見て「あっ」と呟き頭を下げて駅に走った。
その後も運転手さんは、同じバス停で停まる日を繰り返したが、何故か僕はもう一度質問をする機会を作れなかった。
転機が来たのは、冬休みが終わって最初の登校の日だった。
いつも停まっていたあのバス停をバスが通過したのだ。
あれ、と思い初めて気が付いた。
運転手さんはあの初老の人から、中年の新しい人に変わっていた。
駅で降りるとき、僕は聞いた。
「運転手さん変わったんですね」
中年の運転手は頷いた。
「ああ、前のNさんはこの路線十年続けてたんだけど、年明けに体壊してね引退したんだよ」
僕は黙って頭を下げ駅に向かった。
それ以降、バスは途中で停まることがなくなった。
だけど、ある日すべての謎が解ける日が来た。
春休みが終わり、三年生のなった直後、僕は学校でちょっとした事故に遭い意識を失い病院に運ばれた。頭を強く打ち、脳震盪を起こしたのだ。
念のため数日入院してくれと言われたその病院の病棟で、僕はあの初老の運転手に再会したのだ。
「運転手さん」
休憩室で点滴を吊るした台を自分で押している見覚えのある顔に僕は声をかけた。
「ああ、学生さん、こんな所で会うとは思ってなかったよ」
運転手さんは、微笑み僕をソファーの隣の席に誘った。
「バスはちゃんと定時に来ているかい?」
僕は頷いた。そして、言った。
「でも、あのバス停には停まらなくなりました」
それを聞いて運転手は、少し悲しそうな顔をした。
「そうか、じゃああの子は毎日あそこで待っているのだろうな…」
その後、運転手さんの語った話に僕は胸を締め付けられる思いを感じた。
「そんなことが…」
「ほかの運転手に話しても、きっと笑って相手にしてくれん。悲しいことだ」
初老の運転手さんはそう言って何度も首を振った。
この時、僕は自分の漠然としていた進路をもう決めていたのかもしれない。
その運転手さんがステージ4の肝臓がんで、結局その数週間後に帰らぬ人になった。
七月十八歳になった僕は、母に無理を言って教習場に通い運転免許を取った。
そして、大学を受験し合格すると、自動車部に入り運転に磨きをかけ、三回生の時に大型免許を取った。さらに、卒業直前には大型二種免許も取得した。
「君ほどの成績なら県内の地元企業じゃなく東京でも十分に就職先があるのに」
就職希望先を学生課に告げた時、そう言われた。でも決心は変わらなかった。
「いいんです、どうしてもやりたい事があるので」
僕は地元の交通会社に運転手として就職した。
大学新卒での運転手採用は十数年ぶりと言われた。
そこで僕は、無理を承知である路線の担当をさせてくれと言った。
「まあ、確かに早朝の線でやりたがる人間は少ないが、本当にいいのかね?」
配車係の担当に念を押されたが、僕は頷いた。
「待っているお客さんがいるのです」
上司は首を傾げたが、僕の無理は通った。
初めて、あの毎朝通ったルートを運転するときは緊張した。
お客で乗るのと乗客の安全を預かり運転するのの違いを痛感しつつ、僕はあのI集落のバス停の差し掛かった。
そして、見た。
ああ、あの運転手さんの言葉は本当だった…
バス停に、小さな女の子が、黄色い新入生の帽子とランドセルを背負った子が立っていた。
バスを停め、扉を開くと女の子は、嬉しそうに笑顔を見せバスの乗り、そしてミラーの中でその姿をかき消した。
僕が引っ越してくる五年ほど前、そのバス停から毎朝乗って来る新入生の女の子がいた。
だが、夏休みを直前に女の子は不慮の事故で亡くなったという。
だが、その後もその子が毎朝バス停に立つのを、あの初老の運転手は見ていたという。
ある日、バスを停めてみると女の子は喜んでバスに乗り、そして姿を見えなくしたという。
だがその翌日も少女はバスを待っていた。
それ以来あの運転手さんは、毎日彼女をバスに乗せていたのだ。
決して歳を取らない少女の為に。
僕は、その子の為にこの仕事を選んだ。あの初老の運転手さんの遺志を受け継いだのだ。
いつかは、僕もこのバス路線から離れなければならないかもしれない。
でも、この子の学校に行きたいという最後の願いがいつか成仏に繋がるかもしれない、そう願い毎日バスを無人のバス停の停め続けた。
どんなに奇異の目で見られても、それをしたいという思いから。
少女はいつか天国に行けるのだろうか。
それは僕にはわからない。
ただ、バスに乗るときの少女の顔は嬉しさに綻んで、消えていく。
それを見るだけど、僕は満足だった。それに、たまにバスにはあの初老の運転手さんも他の人には見えないお客として乗ることがあったから。
お客の少ない田舎のバスは、今日も無人のバス停に停車する。当たり前のように…
見えない乗客は、運転席からだけはきちんと見えていた。