第55話 ムッシュを禁ず
文字数 3,127文字
サン=シル将軍が、ローマへ異動になった。
「いやあ、すまんすまん」
オージュロー司令官が頭を掻いている。
「イタリアに残してきた俺の部隊が、世話をかけて」
ここで、むっとした顔になった。
「だが、事の起こりは、ベルナドットのやつだからな」
話は、去年の春に遡る。
ライン方面から、カール大公が、イタリア方面へ転出した。これを受け、サンブル=エ=ムーズ軍所属のベルナドット師団が、増援部隊として、イタリアへ差し向けられた。
イタリアへ行っても、ベルナドット師団は、誇り高く、規律を守っていた。しかし、イタリア軍(ボナパルトのイタリア遠征軍)は、そうではなかった。なにしろ、
イタリア軍の兵士達にとって、規律を遵守する元ライン軍の兵士達は、堅苦しい、目障りな連中だった。特にベルナドット師団は、互いを、「ムッシュ」と呼び合う、礼儀正しさだった。
そんなある日。
街中で、
すかさず、イタリア兵は言った。
「こんにちは、ムッシュ・高貴な方々」
間髪入れず、元ライン方面軍兵士は答えた。
「こんにちは、
高貴な方と崇めてやったのに、「半ズボンしか穿けない市民」とは、何事か!
いやいや、そもそもその、「高貴」っていうのが、イヤミだろ!
というわけで、大乱闘が始まった。
「それが、10ヶ月経った今でも、まだ、治まらなくてな」
オージュローはため息を吐いた。
「俺は、ライン河畔へ転出になるし、ベルナドットも、オーストリア大使か? あれ、まだ、ウィーンにいるのかな。(*1)とにかく、ローマから出ていった。いや、当時、俺も頑張ったんだよ? 公平な処遇をするよう、知恵を絞ったんだ」
……「そもそも、『ムッシュ』という言葉が、諸悪の根源だ。よって、以降、軍で『ムッシュ』と言った者は、追放処分に処する」
「それでは、何の解決にもならなかった、ってことですよ」
苛立たし気に、サン=シルは言った。
「それで、俺に、兵士どもの喧嘩を鎮圧するよう、お鉢が回って来たってわけです」
「行ってくれるよな、サン=シル?」
「命令ですから」
ぶすくれて、サン=シルは答えた。
*
「サン=シル将軍!」
司令官室を出てきた彼に、俺は声を掛けた。
「なんだ、ダヴー。また、待ち伏せか?」
「ええ、まあ」
「俺は役には立てないぞ。もう、ドイツ軍右翼の司令官ではないからな。お前をローマへ連れて行くこともできない」
「わかってます」
「ん?」
先を歩き始めていた、サン=シルが振り返った。
「えらい、物わかりがいいな。ドゼもアンベールもいなくなって、落ち込んでいるんだろ?」
「ドゼ将軍を信じてますから。彼はきっと、俺を呼んでくれます」
「……」
サン=シルは答えなかった。
「あなたは、ご機嫌ですね、サン=シル将軍。
「俺は、ローマへなんか、行きたくない」
「でも、ライン軍の流れを引く軍の、司令官には、なりたくなかった」
そもそも、ドゼ将軍が指名された役職だ。
「ライン軍司令官は、呪われているんだ」
ぼそり。サン=シル将軍がつぶやいた。
「リュクネル将軍。ビロン将軍。俺を育ててくれたキュスティーヌ将軍。ボアルネ将軍。みんな、処刑された。高潔で勇敢であったにもかかわらず、愛国心を疑われて」(*2)
それが、恐怖政治下のライン軍総司令官の運命だった。
ドイツ諸邦、オーストリアと接する国境線で、軍が、敵国と密通することを、中央政府は、極度に恐れていた。
サン=シルがため息を吐いた。
「そして、ピシュグリュ。モロー。彼らは実際に、国を裏切った」
「ドゼ将軍も、呪われたライン軍の指揮権を、受け継ぎたくなかったんでしょうか。だから、ボナパルト将軍の軍へ行った」
「さあな」
「ドイツ軍右翼と名を変えても、元々は、伝統あるライン軍の司令官です。片や、ボナパルトが提示したのは、イタリア軍の第二指揮官、しかも、暫定に過ぎない、不安定な地位だ。普通なら、
「ドゼが言うには、ボナパルトは、配下の者にまで栄光を齎すんだとよ」
「韜晦だ」
「は?」
「あなただって、気がついているはずだ、サン=シル将軍」
「気がつく?」
サン=シルは凄んだ。
「何に」
ゆっくりと俺は、今まで考えてきたことを、言葉に紡ぎ始めた。
「王党派は、未だに暗躍している。彼は、
「それ以上言うな!」
鋭く、サン=シルが警告を発した。前と同じだ。
だが今回、俺は、彼の警告を無視した。
「追い詰められた王党派は、何だってやるだろう。彼らがもし、
凍りつくほどのまなざしで、サン=シルは俺を見据えた。
「ドゼも、国を裏切るというのか? 血の繋がりを優先するとでも?」
俺は、答えなかった。答えられない、そんな問いには。
「けれども、イギリス軍なら、エミグレと鉢合わせる機会は、格段に減ります。たとえ行きあってしまっても、ボナパルトの下に隠れて、こっそり逃がすことができる」
今までそうしてきたように。
「あるいは、彼は、政府に、交換条件を出したのかもしれない。
悔しかった。ボナパルトとドゼ将軍。どちらが格上かは、一目瞭然だ。そんなことは、政府だって、わかっているはずだ。
「ボナパルトの下に入る代わりに。ライン河畔での地位を手放し、ナンバー2に甘んじる代償に! 彼は、親族兄弟の帰国を条件に、自分のキャリアを差し出したのだ」
「黙れ!」
喉元を鷲掴みされた。
顔が近づいてくる。薄青い瞳が、至近距離で俺を睨みつけた。
「もしそうだとして、それがお前に、何の関係がある?」
「何も」
俺は、喉に食い込んだ、サン=シルの指を引きはがした。
「俺はただ、彼に付いていくだけです。もしも、彼が俺を呼んでくれたなら」
「……」
無言で、サン=シルは、俺を睨み続けた。
「勝手にしろ」
暫くして、苦々し気に、そう、吐き捨てた。
───・───・───・───・───・
*1
オーストリアとの間で和平が結ばれると、ベルナドットは、フランス大使として、ウィーンへ派遣されます。
チャットノベルで経緯を説明してあります
「三帝激突」19話「第19話 Flaggenstraße(旗通り)」参照
https://novel.daysneo.com/works/episode/9d5521055acd2834eb655f5745a1da5c.html
ベルナドットいうのは、後にスウェーデン王になった、あの人です。
*2
ライン軍総司令官の運命については、こちらに
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-152.html
*サン=シルについて、こちらにまとめてあります
「サン=シル」
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
なお、この後、ローマでサン=シルは、ドゼと再会します。その模様を、短編「勝利か死か Vaincre ou mourir」に描きました。「10 出航準備」です。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/803492079