第3話 ファルケンブルク本邸での暮らし
文字数 2,764文字
そんなこんなで17歳の初秋、私のファルケンブルク本邸での暮らしが始まったのでございます。結論から言うと、私はそこで16歳上の従兄たちから大層可愛がられ、溺愛されて過ごしました。
「フランツィスカが女の子を見たがっていてね。うちはずっと男の子ばかりだったから」
「私たちも妹を欲しかったしね」
そんな、猫の子を欲しがるかのような理由で、私はここに連れてこられたらしいのです。
フランツィスカというのは従兄たちの乳母で、私と同じように生後まもなく母を亡くした双子の従兄たちは、このフランツィスカという乳母の手によって育てられたのだそうです。
フランツィスカは60代も半ばを過ぎた上品な婦人で、私を見ると感極まった様子で言いました。
「まぁまぁこれがジギスムント様の忘れ形見のお嬢様ですか。兄上のラグナル様に――あまり似ておられませんわね。とてもお可愛らしいこと!」
邸内はどこも自由に使っていいことになりました。ファルツフェルド邸内もそうでしたが、そこに輪をかけてファルケンブルクの本邸は広く、
「迷子にだけはならないように」
「うちの中で遭難できるほど広いからね」
従兄たちは口を酸っぱくして私にそう言って聞かせました。
当時の私は従兄たちの優しさにやや心が解け始めていたとはいえ、急な運命の変転についていけず、控えめに言っても人間不信の絶頂期でした。
誰にも心底からの笑顔を見せられず、上辺だけ綺麗に取り繕おうとして、心がついて行かず、時には無茶もしでかして従兄たちを困らせたこともあります。
こんなことがありました。
ファルケンブルク邸内には、従兄たちが軍人だった関係で、「邸内支局」と呼ばれる軍関係の小さな仕事場があって、そこに数十人ほど若い軍人たちが勤務していました。
邸内をそぞろ歩いている内、彼らとも顔見知りになりました。
中でも好きだったのは、アンデルス・フォン・グランツシュタットという支局の中でも上のほうの軍人さんで、何故なら、彼は無理に私を構おうとしなかったから。人間不信の私には距離感のちょうど良い人だったのです。
若い女の子が珍しかったのもあるでしょうが、支局の人は皆、私の身の上を聞き知っていたらしく、気の毒に思って優しくしようと待ち構えている。その感じが当時の私にはとても――今考えると大変失礼なことですが――うっとおしかったのです。
支局の中で一番の女たらしを自負する、絵にかいたような金髪碧眼のセシル・ドゥ・メルローズという軍人さんは、懐こく構おうと寄ってくる彼を警戒して素っ気なく逃げて行ってしまう私を評して、
「――野良猫みたいな子だなぁ」
そして皆に怒られていました。
そんな支局の面々に心を許す日がとうとうやってきました。
あれは確か――ファルケンブルク本邸にもらわれてきて一か月ほど経ったある日のこと。
その夜、私は夜中に目が覚めてしまいました。もう一度寝てもよかったのですが、なんとなく寝付けない。そこで私は起きだし、寝室を抜け出して隣のブドワールに行き、化粧をして、香水を振りかけました。
――きっとそれがいけなかった。
深夜にこんなことをしている自分が可笑しくなって私は押し殺した笑い声を上げながら、なんとなし窓の外を見ました。
美しい月夜でした。
月に魅入られてそっと窓辺に近づくと、部屋のすぐ下に植えられた大木が、太い枝を窓辺に投げかけているのがよく見えました。私はそっと窓を開け、触れられるほど傍にある枝を見ながら考えました。
――きっと魔が差したのです。
次の瞬間、私の体は出窓を乗り越えて、大木の大きな枝の上に飛び移っていました。
枝を伝って下へ下へ降りれば、夜の庭に降りられるはず――漠然としたその目論見は見事に外れました。
地面から一番近い枝ですら、地上10mほど。とてもとても飛び降りられる高さではありません。
(どうしよう…)
枝を伝って部屋に戻れればよかったのですが、上から下へは飛び移れても、下から上へ飛び移る勇気は私にはありませんでした。
枝の上で何時間過ごしたか――空が白み始めて明るくなってきたころ、金色の頭が向かってくるのが遠くに見えました。
ルーシャス・オブ・フェデルトランドという軍人さんでした。物静かで、人当たりの柔らかい人です。
金髪の頭が通り過ぎようかという頃合で、私は勇気を出して「あの――…」と10m下に声を掛けました。金髪の彼は足を止め、訝し気に辺りを見渡し、次いで何気なく上を見ました。
――そのときの表情ときたら!
おそらく幽霊を見たとしてもこんな表情はしなかっただろうという驚愕と狼狽の表情で、琥珀色の瞳を見開いて、
「なにしてるんです――?っていうのはこの際どうでもよくて…とにかくそこを動かないで!梯子、梯子を持ってきます!」
ものの5分もしない内に支局の面々が梯子とともにわらわらと集まってきて、私は救出されました。
前述のセシル・ドゥ・メルローズがここぞとばかりに梯子を伝ってやってきて、
「ほらやっぱり――野良猫ですね」
と、呆れながら私を抱き下ろしてくれました。
このときばかりは返す言葉もありませんでした。
第一発見者のルーシャスは意外と繊細な質だったのか、
「心臓が――…よかった、無事で」
と、胸に手を当て、
「で、どうしてあんなとこにいたんです?」
赤毛で大柄なループレヒト・フォン・メルキドルフが枝を指さしながら呆れ顔で聞くので、
「…――薔薇を、見に行こうと思って」
「まさか飛び降りたんですか?!」
私は頷くしかありませんでした。
「全く――いつからあそこにいたんです?」
「それはともかくとして」
尋問に割って入ったのは私を地上へ抱き下ろしたセシルで、
「こちらのお嬢さん、体冷えっ冷えですよ。早く風呂にでも浸けてやったほうがいい」
「ほんとだ。唇真っ青だ」
「いや、本当にいつからあそこにいたらこんな風になるんですか…」
そこで私はマントに包まれて丁重に抱き抱えられ、支局内に運ばれたのでした。
支局では無言のアンデルスと、額に青筋立てた支局のナンバー2ライムント・フォン・グラーフガルドが出迎えてくれて、
「全く――湯は沸いてますよ!グランツシュタット大尉が沸かしていてくださいました!」
ぷんぷん怒っているライムントとは対照的に、アンデルスは静かにこう言ったのみでした。
「怪我がなくて何よりです。早く湯に浸かってください。後で侍女を呼びにやります」
「…ごめんなさい」
「謝罪は兄上方へ――早くお風呂に入りなさい。熱が出ますよ」
私は大人しく湯に浸かりましたが――アンデルスの予言通りというか、酷い風邪をひき、一週間ほど寝込んだのでした。
アンデルスは私が、私を心配するあまりの従兄たちにあまり激しく叱られないよう、取り成してくれたと聞きます。
そしてこの事件の後、支局の面々との心理的距離はぐっと縮まったように思うのでした。
「フランツィスカが女の子を見たがっていてね。うちはずっと男の子ばかりだったから」
「私たちも妹を欲しかったしね」
そんな、猫の子を欲しがるかのような理由で、私はここに連れてこられたらしいのです。
フランツィスカというのは従兄たちの乳母で、私と同じように生後まもなく母を亡くした双子の従兄たちは、このフランツィスカという乳母の手によって育てられたのだそうです。
フランツィスカは60代も半ばを過ぎた上品な婦人で、私を見ると感極まった様子で言いました。
「まぁまぁこれがジギスムント様の忘れ形見のお嬢様ですか。兄上のラグナル様に――あまり似ておられませんわね。とてもお可愛らしいこと!」
邸内はどこも自由に使っていいことになりました。ファルツフェルド邸内もそうでしたが、そこに輪をかけてファルケンブルクの本邸は広く、
「迷子にだけはならないように」
「うちの中で遭難できるほど広いからね」
従兄たちは口を酸っぱくして私にそう言って聞かせました。
当時の私は従兄たちの優しさにやや心が解け始めていたとはいえ、急な運命の変転についていけず、控えめに言っても人間不信の絶頂期でした。
誰にも心底からの笑顔を見せられず、上辺だけ綺麗に取り繕おうとして、心がついて行かず、時には無茶もしでかして従兄たちを困らせたこともあります。
こんなことがありました。
ファルケンブルク邸内には、従兄たちが軍人だった関係で、「邸内支局」と呼ばれる軍関係の小さな仕事場があって、そこに数十人ほど若い軍人たちが勤務していました。
邸内をそぞろ歩いている内、彼らとも顔見知りになりました。
中でも好きだったのは、アンデルス・フォン・グランツシュタットという支局の中でも上のほうの軍人さんで、何故なら、彼は無理に私を構おうとしなかったから。人間不信の私には距離感のちょうど良い人だったのです。
若い女の子が珍しかったのもあるでしょうが、支局の人は皆、私の身の上を聞き知っていたらしく、気の毒に思って優しくしようと待ち構えている。その感じが当時の私にはとても――今考えると大変失礼なことですが――うっとおしかったのです。
支局の中で一番の女たらしを自負する、絵にかいたような金髪碧眼のセシル・ドゥ・メルローズという軍人さんは、懐こく構おうと寄ってくる彼を警戒して素っ気なく逃げて行ってしまう私を評して、
「――野良猫みたいな子だなぁ」
そして皆に怒られていました。
そんな支局の面々に心を許す日がとうとうやってきました。
あれは確か――ファルケンブルク本邸にもらわれてきて一か月ほど経ったある日のこと。
その夜、私は夜中に目が覚めてしまいました。もう一度寝てもよかったのですが、なんとなく寝付けない。そこで私は起きだし、寝室を抜け出して隣のブドワールに行き、化粧をして、香水を振りかけました。
――きっとそれがいけなかった。
深夜にこんなことをしている自分が可笑しくなって私は押し殺した笑い声を上げながら、なんとなし窓の外を見ました。
美しい月夜でした。
月に魅入られてそっと窓辺に近づくと、部屋のすぐ下に植えられた大木が、太い枝を窓辺に投げかけているのがよく見えました。私はそっと窓を開け、触れられるほど傍にある枝を見ながら考えました。
――きっと魔が差したのです。
次の瞬間、私の体は出窓を乗り越えて、大木の大きな枝の上に飛び移っていました。
枝を伝って下へ下へ降りれば、夜の庭に降りられるはず――漠然としたその目論見は見事に外れました。
地面から一番近い枝ですら、地上10mほど。とてもとても飛び降りられる高さではありません。
(どうしよう…)
枝を伝って部屋に戻れればよかったのですが、上から下へは飛び移れても、下から上へ飛び移る勇気は私にはありませんでした。
枝の上で何時間過ごしたか――空が白み始めて明るくなってきたころ、金色の頭が向かってくるのが遠くに見えました。
ルーシャス・オブ・フェデルトランドという軍人さんでした。物静かで、人当たりの柔らかい人です。
金髪の頭が通り過ぎようかという頃合で、私は勇気を出して「あの――…」と10m下に声を掛けました。金髪の彼は足を止め、訝し気に辺りを見渡し、次いで何気なく上を見ました。
――そのときの表情ときたら!
おそらく幽霊を見たとしてもこんな表情はしなかっただろうという驚愕と狼狽の表情で、琥珀色の瞳を見開いて、
「なにしてるんです――?っていうのはこの際どうでもよくて…とにかくそこを動かないで!梯子、梯子を持ってきます!」
ものの5分もしない内に支局の面々が梯子とともにわらわらと集まってきて、私は救出されました。
前述のセシル・ドゥ・メルローズがここぞとばかりに梯子を伝ってやってきて、
「ほらやっぱり――野良猫ですね」
と、呆れながら私を抱き下ろしてくれました。
このときばかりは返す言葉もありませんでした。
第一発見者のルーシャスは意外と繊細な質だったのか、
「心臓が――…よかった、無事で」
と、胸に手を当て、
「で、どうしてあんなとこにいたんです?」
赤毛で大柄なループレヒト・フォン・メルキドルフが枝を指さしながら呆れ顔で聞くので、
「…――薔薇を、見に行こうと思って」
「まさか飛び降りたんですか?!」
私は頷くしかありませんでした。
「全く――いつからあそこにいたんです?」
「それはともかくとして」
尋問に割って入ったのは私を地上へ抱き下ろしたセシルで、
「こちらのお嬢さん、体冷えっ冷えですよ。早く風呂にでも浸けてやったほうがいい」
「ほんとだ。唇真っ青だ」
「いや、本当にいつからあそこにいたらこんな風になるんですか…」
そこで私はマントに包まれて丁重に抱き抱えられ、支局内に運ばれたのでした。
支局では無言のアンデルスと、額に青筋立てた支局のナンバー2ライムント・フォン・グラーフガルドが出迎えてくれて、
「全く――湯は沸いてますよ!グランツシュタット大尉が沸かしていてくださいました!」
ぷんぷん怒っているライムントとは対照的に、アンデルスは静かにこう言ったのみでした。
「怪我がなくて何よりです。早く湯に浸かってください。後で侍女を呼びにやります」
「…ごめんなさい」
「謝罪は兄上方へ――早くお風呂に入りなさい。熱が出ますよ」
私は大人しく湯に浸かりましたが――アンデルスの予言通りというか、酷い風邪をひき、一週間ほど寝込んだのでした。
アンデルスは私が、私を心配するあまりの従兄たちにあまり激しく叱られないよう、取り成してくれたと聞きます。
そしてこの事件の後、支局の面々との心理的距離はぐっと縮まったように思うのでした。