第6話

文字数 1,409文字




「今日は私に作らせてください。夕食」

 テーブルに置いたレジ袋を覗いて言った。

「あ、では、お願いします。楽しみだな」

「あまり自信ないですけど、作ってみます」

 女は秋茄子を手にしていた。

「あ、これ」

 俺は、手にしたクリーム色のビニール袋をテーブルに載せた。

「着替えです」

「えっ」

 女が袋の中を覗いた。

「まあ……こんなことまでして頂いて。ありがとうございます」

 白い下着を見た女が礼を言った。

「着替えが無いと、何かと不便かと思って」

「恥ずかしかったでしょ?」

「ええ。ちょっと」

「男のかたにこんなことをして頂いて、申し訳ありません」

 女が頭を下げた。

「いえいえ、気にしないでください。それより名前ですけど」

 二口の湯呑みにお茶を淹れながら、女を見た。

「なんて呼びましょうか。名前が無いと不便だ」

「そうですね。……クレナイさんに因んで紅を使って、ベニコとでも」

「うむ……紅子より、コウの虹を使って、ニジコでは?」

 テーブルを挟んだ女の前に湯呑みを置いた。

 女はお辞儀をすると、

「どっちでも。紅さんにお任せします」

 と湯呑みを持った。

「じゃ、ニジちゃんにしよう」

「はい」

 女の名前は虹子になった。



 時間を見計らって、虹子が料理を始めた。

 俺は虹子の記憶喪失が気になって、医学事典を開いてみた。

 小説や映画のことは覚えているのに、自分の名前や住所が分からないというのが腑に落ちなかった。

 あっ!これだ。……“心因性記憶障害”


《心因性記憶障害は、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害です。通常、過去のことを思い出せない逆行性健忘で、不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなることが多いとされています。すべて忘れるわけではなく、一般的な知識は保たれているため、日常生活にはあまり支障がありません。しかし、自分が誰だかわからなくなる人もいます。また、わずかながら新しいことを覚えられない前向性健忘になる人もいます。
一般的には心因性健忘、場合によってはヒステリー健忘、機能性健忘、解離性健忘とも呼ばれます》
 

 ……不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなる。……自分が誰だか分からなくなる人もいる。

 俺は考え込みながら、書斎の窓から見える裏庭の、美しく彩った広葉樹に目をやった。 



 駈けて来る大輝の足音がした。

 ガラガラっ!

「ただいまっ!」

 急いで書斎にやって来た。

「おばちゃんは?」

「虹ちゃん?虹ちゃんは台所」

 俺は原稿用紙に顔を向けたままで言った。

「……ニジちゃんて言うの?」

 大輝が聞き直した。

「おかえり、たいき君」

 虹子が顔を出した。

「あ、……ただいま」

 前掛け姿の虹子に、大輝は戸惑っていた。

「少し居候させて頂きますので、よろしくね」

「……あ、はい」

 虹子が引っ込むと、

「きおくがもどったの?」

 小声で聞いた。

「……いや。名前だけ思い出したみたいだ」

 俺も小声で言った。

「ニジコって言うの?」

「ああ、偶然だよな。父さんのペンネームと同じ、虹が付く名前だなんて」

「ニジコさんか……」

 大輝はつくづくと言った。

 クッ。……そんなわけないだろ?
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