第三章

文字数 5,995文字

 黄色いクチバシに黒い背広はクロウタドリ、青い帽子に黄色いシャツはアオガラ、膨らんだ白い胸に黒い燕尾服のエナガ。それだけでなく、コウノトリまでが志門少年の頭上で円を描いて舞っている。お行儀よく1羽ずつ、降下して志門少年の目の前でピチュピチュとさえずり、報告を行う。ウィリアムはそのさまを感心して眺めていた。
「どう、志門君?」
 志門少年は首を横に振った。
「見た鳥はいないようです」
「そうか……困ったな……」
 でも、と志門少年は振り向いた。
「犬たちに聞いてみるって言ってました」
「犬たち?」
「そうです、この町の犬たちに。小鳥たちは結構犬と仲がいいんですよ。ほら、天敵のネコを脅してくれるし、犬の餌を分けてもらったりしてるし」
「なるほど、そうなのか!」
 やがて赤い胸のコマドリの話が終わると、志門少年は「公園へ行ってみましょう」と言った。
「野犬が根城にしているので、あいつらに聞いてみたらって言ってます」
 志門少年の力を借りたのは正しかった、とウィリアムは思った。
「よし、行こう」
 二人は鐘突のサイモンさんに扉を開けてもらい、学校の外へと出た。公園まではかなり遠い。ウィリアムは急いで歩き出した。すると志門少年が「待ってください」と呼び止める。
「馬車を用意しました」
 確かに門の傍には二頭立ての二輪馬車が止まっている。一頭は黒、もう一頭は白馬だ。堂々とした首、艶やかな馬体、流れるようなたてがみ、美しい馬具をつけている。なぜか御者台は空だ。
「辻馬車? いつの間に?」
「まあ、いいじゃないですか」
「ひょっとして君にはまだ不思議な力があるのかい?」
 志門少年は笑いながら自ら御者台に乗り込んだ。ウィリアムも続いて馬車によじ登る。
「行きますよ、ウィリアムさん」
 鞭の一つも無しに、馬はとっとと歩き出す。
「そうか、この馬とも……」
「そうです、これは僕の自家用車。いつでも好きなときに迎えに来てくれるんです。日本から連れてきました。黒いのがスルスミ、白いのがイケヅキ、歴史上の名馬からとった名なんですよ。まあ、僕の祖先を裏切った一族が飼っていた馬の名なのですが、僕たちは寛大な心を持っているので、名前を付けてやっているのです。それに馬に罪はありませんしね」
 堂々とした話しぶりに、エンペラーの血を引いていることを思い出させられるウィリアムであった。
 やがて馬車は公園へと到着し、二人は馬車から降りると、頭上にコマドリやアオガラを従えて中へと入った。
 パラソルを差したご婦人たちや、帽子を被った子供たちがそこここで集い、また芝生の上で毛布を広げてお弁当を食べている人たちもいる。
 幸い公園には野鳥が豊富なので、二人の周りをやたらと騒がしい鳥たちが飛び回っているのもさほど目立たない。しばらく歩くと志門少年が歩みを止めた。
「どうしたんだい、志門君」
「アオガラが犬を呼んでくるって言ってます。ここらのボス犬だそうです」
「ええっ」
 アオガラが連れてきたのは、大きな黒い犬だった。
「ふんふん」
 志門少年は犬の前にしゃがみ込み、唸る犬に耳を傾ける。
「当たりです、ウィリアムさん、ティマイオス、あ、この犬の名前ですが、ウィリアムさんが言ってた子犬を見たって」
「ええっ、本当かい!」
 ウィリアムも一緒になってしゃがみ込み、犬をじっと見た。
「子犬の名前はアーサー・ロビンだそうです」
「それだ!」
 見つけた、とウィリアムは涙が出そうになった。
「どこにいる?」
 だが期待に反して犬はぶるぶると首を振る。
「なに? なんて言ってるの?」
「どこかへ行ってしまったと。誰かが連れて行ったそうです」
「誰かって誰だよ!」
 ウィリアムは思わず犬の首にかじりついた。
「教えてくれ、頼む! あの犬を捜さないと大変なことになるんだ!」
 すると志門少年が垂れた犬の耳を持ち上げ、そっと何かを囁いた。と、黒犬は空を見上げ、遠吠えを始める。低く長く、そしてやがて猛々しく。
 途端に公園中の犬がそれに答えて鳴き始めた。どころではない、町中の犬たちもだ。その遠吠えは大きなうねりになり、やがて犬以外の声も混じる。そう、見世物小屋の獣たちも遠吠えを始めたのだ。当たりの人々は何事が起こったのかと騒然となった。
 急に黒犬は遠吠えを止め、志門少年に向かって激しく吠える。頭上のアオガラとコマドリが囀りながら矢のように飛んでいく。志門少年はさっと顔色を変えた。
「大変だ!」
「え?」
 志門少年は答えずに走り出す。ウィリアムはなんだか解らないままあとを追った。


「さあさ、皆さま、とくとごらんあれ! 百獣の王ライオンだ、そのライオンが綱渡りをしますぞ!」
 檻の外に立つシルクハットに燕尾服の猛獣使いが鞭を一振りすると、ライオンはたてがみを振るわせて大きく吠える。見ているちびっ子たちは目を丸くした。もちろん最前列に陣取ったジョージ・ディップディン・ビットも。
 踏み台から踏み台に渡された狭い板をライオンはけだるげにわたり終え、また一吠えする。
 猛獣使いはシルクハットを脱ぎ、深くお辞儀をした。そしてもぎりの男から手渡された子犬を吊し上げてみせる。
「さてごろうじろ、この猛獣がどうやって餌を食べるか」
 見物人は息を呑んだ。読者の皆さま、ヴィクトリアンは結構えぐいものを見るのが好きなのだ、罪人が絞首刑になる瞬間、とかね。百獣の王ライオンが子犬を噛み殺すのを期待して、皆、目をまん丸にして檻を見つめる。
 吊し上げられたアーサー・ロビンはこれから何が起こるのか全く想像も付かず、ただこちらも目を丸くするだけだ。
「ちょっとお待ちなさい!」
 するどい女性の声が飛び、猛獣使いはそちらに顔を向ける。
 黒いボンネットを被り、黒いショールに黒い服を着た老婦人が立っていた。
「そこのあなた、動物虐待ですよ。それに小さなお子さんたちがいる前で、子犬を食べさせようなんてもってのほか。私は抗議します」
 膨らんだスカートの陰から十歳ぐらいの金髪の少女が顔を出す。
「お祖母さま、あの子犬を助けて!」
「リジー、任せておきなさい」
 そう、この老婦人こそモルダヴィア侯爵夫人その人。次回の重要な登場人物になる予定なのだが、とりあえず今回の紹介はここまでとしよう。
 毅然とした態度に猛獣使いは鼻白んだ。
「なんだ、この婆、てめぇ」
 ヴィクトリアンの欠点は男尊女卑。ま、今の時代にもこういう殿方はいらっしゃるのですがね。とにかく、せっかくの見せ場に水を差されたと、猛獣使いは意地になった。やいのやいの言われる前にとばかり、ぶうんと腕を振ってアーサー・ロビンを檻の中に放り込んでしまった。おーっとどよめきが上がる。
「ああっ」
 志門少年とウィリアムとが駆け込んできたが、時すでに遅し。子犬(アーサー・ロビンだが)の小さな身体は丸くなってまりのようにライオンの足元に転がった。
 百獣の王ライオンはゆっくりと立ち上がり、大きな鼻面をアーサー・ロビンへと寄せた。
 アーサー・ロビンは何が起こったのかまだよく解らず、ぶるんと首を振り、目の前に近づいたライオンの鼻を逆に嗅ぐ。
 するとライオンが低く唸った。
 それは「お前は犬ではないな」と言ったのだが、見物人には単なる威嚇の唸りに聞こえ、さらにこれから起こる血湧き肉躍る(文字通りだ)シーンを期待して皆どよめいた。
 ウィリアムは真っ青になってよろよろと檻へ近寄る。掠れ声で「アーサー・ロビン」と呼びかけた。
 アーサー・ロビンははっとその声でウィリアムを振り返る。
(ウィリアムさん!)
 思い出した、僕の名前はアーサー・ロビン、ノックビル伯の長男、そしてウィリアムさんが大好き。丸めた手足を伸ばして立ち上がろうとすると、大きなライオンの前脚が首筋に置かれた。
<おい、お前は何者だ。犬の匂いではないな>
<僕は……僕は狼なんです>
<狼だと?>
 ライオンは再び鼻をアーサー・ロビンに押しつけた。その瞬間。
「ライオン君、彼を離してくれ」
 いきなり頭の中で人間の声が聞こえ、ライオンとアーサー・ロビンは同時に声のほうを振り向いた。そこには黒髪の少年が立っている。
 ライオンは首筋の毛を逆立て、もうひと唸りした。
<お前は誰だ! なぜ儂の言葉が解るのだ!>
「僕は九條志門、僕の一族は動物と話が出来るんだ」
 志門少年は檻に手をかけ、中に半分頭を入れる。
 ライオンはアーサー・ロビンをくわえると、ゆっくり立ち上がった。そして檻に近づく。志門少年の目と鼻の先に迫った。しかし志門少年は微動だにしない。見物客から悲鳴が上がった。
「おいっ、坊主、そこを離れるんだ!」
 猛獣使いは慌てて声をかけるが、志門少年はそのままライオンに話しかける。
「僕は遠い国からやってきた。お前と同じだ。その犬は僕の友達だ。返してくれ」
 ライオンはアーサー・ロビンを足元に落とすと、再び前脚で押さえ込んだ。
<こいつは俺がもらったのだ。何をしようと俺の勝手だ>
 首を一振りし、ライオンは大きく吠えた。芸当を無理強いされ、人間に命令されることが嫌いなのだ。
「うわ、困ったな」
 志門少年が呟き、ウィリアムは「どうしたんだい」と尋ねた。
「自分にくれたのだと言ってます」
 ウィリアムは首を捻り、「返してくれたらお礼に自由にしてあげると言ってみたらどうかな」と提案した。
「ええっ、そんなことが出来るんですか」
 やったことはないが、たぶん、とウィリアムは思った。
「空間移動の魔術を使ってみる」と囁く。
「すごい! では提案してみます」
 しかしライオンはふんと鼻を鳴らす。
<冗談じゃない、儂はもう歳なんだ、今さらシマウマを捕まえるためにサバンナで全力疾走なんか出来るか。ここでのんびり肉をもらったほうが楽なんだ。ちょっと芸をやれば美味いものが食えるし。移動の時は好きなだけ寝られるし>
「だそうです」と志門少年は通訳する。
「ええっ、そんな……」
 ウィリアムは再び頭を捻り、「その犬をどうするんだと聞いてみてくれ」と伝える。
「いい遊び相手になりそうだって。檻の中は退屈だって」
 それなら、とウィリアムは決心した。そして皆に見えないよう、こっそりと胸の前で五芳星をかたどる。
「伝えてくれ、ライオンに。水さえあれば君の望むとき、いつでも故郷が見られると。そして遊び相手に事欠かないと」
 かたどった五芳星を背中で皆から隠し、ウィリアムは心の中で呪文を唱える。
「ナイルよ、ユフラテよ、彼に告げよ、原初より変わらぬ汝の姿を。彼の望む限りにおいて」
 すると餌入れの横にあった水盤の水がどっと溢れ出て、日の光できらきらと輝く。
 もちろん固唾を呑んで見守っている見物客には単に水盤がひっくり返ったとしか見えていない。水盤からはどんどん水が沸き上がり、大気中には細かな水の粒が無数に舞う。霧のスクリーンに虹と密林が映し出された。高く聳える山はキリマンジャロかも知れない。麓に広がるサバンナにはシマウマやオリックスが群れを成している。ライオンはひときわ高く咆吼した。
 そしてアーサー・ロビンの首に乗せていた前脚を上げる。
「おいで、アーサー・ロビン!」
 アーサー・ロビンは転がるように走り出し、檻の隙間を塗ってウィリアムの手に飛び込んだ。
 どっと拍手が上がり、ウィリアムははっとして振り向いた。
 猛獣使いはなぜかシルクハットを手に、ひどく愛想良く皆に挨拶している。よく見るとシルクハットにはどんどん小銭が投げ込まれているのだった。
「素晴らしい!」
「どきどきしちゃったわ!」
「みんなに自慢しようっと!」
「ロンドンでもなかなかこんなの見られないぞ!」
 どうも見物客はショウの一種だと思ったようだった。
(まあ、なんでもいいや、アーサー・ロビンくんが無事なら)
 ウィリアムは上着の内側にアーサー・ロビンをそうっとしまい込む。そして志門少年に「助かった、ありがとう」と礼を言ったその瞬間。
「ウィリアム!」
「ウィリアム!」
 甲高い双子の声が鳴り響く。
「ええっ」
 黒いドレスの老婦人の傍で、マッティ&オルウェンが目を丸くしていた。
「どうしたの、ウィリアム、こんなところで!」
「というか、なぜ君たちがこんなところにいるんだい?」
 すると双子は慌てた様子になった。
「ウィリアム、黙っててよ、見世物小屋で会ったことは」
「そうよ、私たち、リジーとお茶をしてるだけなんだから」
 革新的なモルダヴィア侯爵夫人ならいざ知らず、モードリン奥方がいかがわしい下層階級の者が行くような見世物小屋へ行くことを双子に許すはずもない。いわんや奥方に黙って行くなど。
 左右から四つの目にパチパチとさかんに目配せされ、ウィリアムは事情を飲み込む。もちろんお互いのことに目を瞑るという提案は大変ありがたく、「わかったよ」と頷いた。
「じゃあ、君たちも僕に会ったことは誰にも言わないんだよ」
 これで紳士協定が結ばれる。いや、淑女協定かも知れないが。
 別れ際にオルウェンは志門少年をじっと見つめ、「なかなかいけてるじゃない」と呟いた。さらにマッティが「ねえ、あの犬のこと、ウィリアムはアーサー・ロビンとか呼んでいなかった?」と尋ねたときも、「え? そうだった? あたしあの男の子しか見てなかったわ」と応じるにとどまり、ここにこの物語最大の危機は回避されたのだった。


 公園の外に停めておいた馬車に戻ると、志門少年は「よかったですね」とウィリアムを見た。
「本当に君のおかげだよ」
「いえ、またウィリアムさんの魔法が見られました。すごいですねえ、あの水の魔法。僕の国にも水を操る奇術師がいますが、それは単なるトリックですからねえ」
「あっ、内緒にしてくれよ」
 そこへがらがらと見慣れた紋章の描かれた黒い馬車が近づいてきた。ばたんと扉が開き、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が飛び降りた。ウィリアムは胸の中のアーサー・ロビンをぎゅっと抱きしめ、「見つかりました!」と叫んだ。
「アーサー・ロビンくんが見つかりました、男爵!」
 男爵は大股に歩み寄り、「おおそうか」と破顔一笑する。
 その会話を聞いて、志門少年が不思議そうな顔になった。
「男爵だって? どっかで聞いたなあ」
 と、ぽんと手を打って、にっこり笑う。
「あの大きな犬! そうか、この人にちなんで犬の名を付けたんだね? 男爵くんはこの人からもらったの?」
 本人ですなどとは言えるはずもない。
「うっ、まあ、そんなところです」とウィリアムはごまかした。


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登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

アーサー・ロビン。

ジョン・ウルフの甥で、こちらは心優しい小さな紳士。

九条志門

日本の熊野から来た留学生。
南朝の血を引く巫女の家系で、動物の言葉が解る。

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