第1話

文字数 625文字

 壁に掛けられた電子時計は23時を示していた。聖応医科大学医学部寄生虫学講座の教室には、真田雪子以外のスタッフは誰も残っていなかった。雪子のいる実験室以外の部屋は当然ながら消灯されており、対照的に実験室だけが、蛍光灯のぼんやりとした明かりに照らされていた。空調と実験用機械の単調な音、それに外から聞こえる雨音だけが、延々と続いていた。単調な音は四方から雪子に襲い掛かり、彼女を一種の感覚失調の様な状態に陥れていた。実験中に音楽を聴くことは、教授から禁じられていた。もちろんその時間は雪子しかいないのだから、彼女が言いつけを破ったとしてもそれを咎める人間は誰もいないのだが、彼女の潔癖というかクソ真面目な性格は、監視者の不在を理由に自らがルールを犯す事を良しとしなかった。そんなわけで、雪子は周囲に響き渡るノイズに晒され続ける他無かったのであった。
「寒い……」右手でマイクロピペットを操作し、左手を白衣のポケットに突っ込みながら、雪子は独り言ちた。もう12月も中旬、世間はクリスマスを前にして色めき立っていた。彼女にもパートナーがいれば、そういった俗世の習慣に自ずと加わるという事もあり得たかもしれない。しかしながら、大学院生2年目の生活はあまりにも忙しく、教室内・大学関係以外の人間との出会いは全くと言っていいほどなかった。そうでなくても、雪子は元来神経質・引っ込み思案で、友人も少なかった。彼女にとって、12月はただ単に寒くて苦痛な季節だった。
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