勇者、逃げる

文字数 8,960文字

 ダンジョンの地下一階。
 上下左右を土で囲まれていて光は届かないにも関わらず、うすぼんやりと明るい摩訶不思議な空間。多種多様な小型の魔物が現れると言われるそこで、少女は憂鬱な表情を浮かべていた。
「……はぁ」
 つい先ほど、少女がこの世界に連れてきた男が気絶してしまったのだ。原因は、少女にも分からない。
 いくつかのため息の後、少女は念のため男の情報を再確認しておこうと手を伸ばした。対象者の身体に触れることでステータスを把握出来るのだ。
(名前は、朝霧啓太(あさぎりけいた)。やっぱり、勇者……のはずなんだけど……)
 男は勇者らしからぬ形相で壁に寄りかかり、手をだらんと垂れている。
(だらしのない顔。せっかく連れてきたのに、ほんとにこんなのが勇者なのかしら。にやにやしてて気持ち悪いし)
 少女は心中で一通り毒づくと、ふと、こちらへ不規則な足音が近づいてきていることに気が付いた。
 魔物がこちらへ向かって来ている……?
「もうっ、そろそろ目を覚ましなさい! このポンコツ勇者っ!」
 少女が声を張り上げると、男はようやく目を開いた。

          ◇◆◇

 ……なんだか、眩しい。
 重い瞼が、徐々に開けてきた。
「……ん?」
 視界が定まると、目の前で見覚えのない女子が仁王立ちしているのが分かった。俺の通う徳明高校の制服を着て(サイズが合っていないのか、ややはだけている)、片手に用途不明の白い棒を手にしている。
(ん、何処だここ。洞窟? 鍾乳洞? もしや、チャンピオンロード?)
 地面についた手のひらから、かすかな温もりも感じられない土の感触が伝わってくる。
 眼前の少女は制服のリボンが緑色であることからして、俺と同じ二年生らしい。がしかし、顔に見覚えはない。彼女は艶やかなオレンジ色の長髪を、左右二ヶ所で縛っていた。俗に言うツインテールというやつだ。碧眼であることも相まってエキゾチックな雰囲気を醸し出している。
 どうやら俺は、『目が覚めたらそこは洞窟で、目の前に同学年の見知らぬ美少女が突っ立っている』という、非日常的なシチュエーションに見舞われてしまったらしい。
 ため息をつく間もなく。
 少女は俺と目が合うやいなや、焦った様子で話しかけてきた。
「やっと目を覚ましたわね、勇者。ここはダンジョンよ。さっそくで悪いけど、魔物を駆除してもらえる?」
「――は?」
 ちょっと待て。タイムタイム。
 ツッコミどころが多すぎる。まず、どうして俺が勇者?
 小学生の頃、土足で教室に踏み入れた前科があるから、ある意味そうかもしれないが……なんだかそういう意味じゃなさそうな言い方だ。
 目をこすりながら、とりあえず立ち上がる。
(んん、なんか動きにくいな……)
 そう思って自分の服装をチェックすると、俺も少女と同じく徳明高校の制服を着ていることが分かった。不幸中の幸いとも言うべきか、夏仕様の制服だったので冬仕様のものよりはマシだが、これじゃあ突っ張ってしまって動きにくいのも当然だろう。
「ほら、武器は特別に貸してあげるから。ちゃっちゃとやっつけちゃいなさい」
 そう言って差し出されたのは、長さ五十センチメートル程度の短剣だ。
 いやいや、受け取るわけないじゃん。
「あの……まず俺勇者じゃないし、さっきまで確か……」
 あれ? 何してたっけ?
 記憶が曖昧でいまいち思い出せない。
 思い出そうとすると、その記憶を取り巻く周辺に靄がかかる。もどかしいな。
 今朝は遅刻ギリギリの時刻に家を出た、ってことぐらいは覚えているんだが……。
「もう、いまさら何言ってるの?」
 少女は「やれやれ」という感じに目を細めた。
 おい、ちょっと待て。
いまさら(・・・・)ってどういう意味だよ」
 湧き上がってきた疑問をぶつけると、少女は見るからにムッとした表情になった。
 ――が、それも束の間。
「あっ! こっち来るわっ」
「へっ?」
 獣(魔物?)が狂ったようにこちらへ駆けているのを、少女がいち早く察知した。
 大きさは大型犬とほぼ同程度で、見た目はハイエナと狼を足して二で割った感じだ。
「ほらっ、この剣で戦うのよ」
 少女が再び短剣を差し出してきた。
 状況が状況なので仕方なく手に取って見てみると、家にある果物ナイフとよく似ているな、という感想が浮かんだ。サイズはこちらの方が一回り大きいようだが、要するに安っぽい造形だった。
「よく分からんけど、倒せばいいんだろ」
 聞きたいことは山ほどあったが、どうやら悠長に質問をしている暇はなさそうだ。
 気持ちを切り替え、こちらへ駆けてくる魔物に意識を集中する。
(とりあえず、アイツを斬る……!)
 決意を固めると、短剣を握る手に力が篭った。同時に、じんわりと汗が滲み出す。近づいて来たら一発かましてやろうと、体勢を整えた。
 足音が徐々に大きくなっていく。洞窟の小さなフロアに、魔物の健脚が地面を蹴る音が響き渡る。その巨体を思わせぬしなやかな疾駆――
 ……マズい。
 ヤツは、想像以上に速かった。
 俺がその動きに見入っているうちに、ヤツはいつの間にか俺から数メートルの圏内に入っているではないか。
 そして、タンッと。
 軽やかに、強かに、飛びつかれた。
「ぐはっ」
 真正面からの頭突きだ。
 そう理解した時には、身体は宙を舞っていた。衝撃で吹っ飛んでしまったらしい。そのまま地面に叩きつけられ、背中に痛みが走る。
「ちょっと、何やられてるのよ」
 一連の残念な様子を見て、碧眼の少女はその目に哀れみの色を灯した。「ざっこ(嘲笑)」って感じの目だ。そんな目で見るなよ。傷つくから。
 だってしょうがないだろ、俺は運動が苦手なんだよ。ドッジボールで女子からのパスを受けきれず骨折した人なんて、俺ぐらいしかいないんじゃないか? 
 ……言っておくが、ワンバウンドでも小指とかポッキリいくんだぞ。
 とにかく俺は昔から運動が苦手で、その上身体も他人より脆い。だから、今のように豪快なタックルを喰らえばどこかしら負傷、というか全身複雑骨折ぐらいしていそうなものだが、それほど痛みは感じなかった。
 というのも、何かの膜に護られたような、奇妙な感覚があったのだ。
「アタシのおかげよ」
「は?」
「身体、痛くなかったでしょ?」
「あぁ……まあ、思ったよりは」
「それ、アタシの加護魔法のおかげなのよ」
「……魔法?」
「ええ、そう。魔法よ。このスティックはれっきとした魔道具なの」
 少女は手に持っていた白い棒を片手でくるくると回して見せた。ドヤ顔で。
 魔法? 魔道具? ここはゲームの世界かよ。
 少女の言葉が全く理解できず、思わず眉根にしわが寄る。
「なーんにも分かってないみたいね……」
 少女はわざとらしくため息をつくと、ポーチから何やらリングのようなものを取り出し、
「はいっ、これ。ちょっと着けてみなさい」
 とてとてと近づいてきて、俺の腕にそれをはめた。
 腕が細いわりに握力が強くてビビったが、それは黙っておこう。保身のために。
「これは?」
 前腕にガッチリとはまったリングは、薄闇の中でも鮮明に銀色の輝きを放っていた。明らかにタダモノではない雰囲気が漂っている。
「それは『ブレイブリング』っていう魔道具よ。あ、また攻めてくるわっ」
 少女の視線を辿ると、姿勢を立て直したハイエナオオカミ(仮)が先ほどよりも勢いを増してこちらに突進して来ていた。まさに猪突猛進と言ったところか。
「畜生っ! またかよっ……」
「大丈夫、避けられるわ!」
 何を言ってる、さっき無理だっただろ、と返してやりたかったがすでにそんな余裕はない。
 俺の反射神経なんかじゃ避けられるわけが……

 ザサッ

 ――避けられた。実にあっさり。
「グルルッ……」
 急停止して砂塵を撒き散らしたハイエナオオカミが、心なしか悔しそうに唸っている。
「ほらね、言ったでしょ」
 少女が得意げに呟いた。
 避けられたのは嬉しいけど、彼女の言う通りになったのはなんだか悔しい。
「なんで俺が反射神経抜群の脳筋に成り下がってるんだ?」
「一時的に身体能力が上昇しただけで、脳筋にはなってないから安心しなさい。アンタの身体は、ブレイブリングによって強化されてるのよ」
 少女はあくまで冷静だ。しかし言っていることの意味は分からない。
「安心出来るわけないだろ。このリング、ヤバい物質でも染み込ませてるのか? ドーピング的な感じなのか?」
「……さあ、早く片付けちゃって。今のアンタなら、あんな雑魚イチコロよ」
 華麗にスルーされた。悲しい。
 でもまあ、確かに今の俺ならやれる気がする。いや、必ずやってやる。これが何かの試練なら、乗り越えなければならないだろう。俺にだって、帰るべき場所くらいはあるんだ。
 何が何でも愛しのマイホームに帰宅してやる!
「うおおおおおおおおおお!」
 標的に向かって全速力で駆ける。さっきまで動かしにくかった身体が、嘘みたいに軽くなっていた。今なら掛け値なしに百メートル走で軽く九秒台を叩き出せそうだ。
「グルゥ……」
 どうやらハイエナオオカミはこっちのスピードに驚いたようで、足元がよろついている。
 これを好機と呼ばずして、何が好機と呼べようか!
「お前の命、この俺が頂戴したあああぁぁ!」
 完全に調子づいている俺は、どこかで聞いたことがあるようなセリフを叫びながら、勢いよく短剣を振るった。
「グァッ」
 決まった。
 力はほとんど必要なかった。短剣の切れ味はそれなりに良いようで、一度刺さると肉の合間をするすると滑った。そのまましっぽまで斬りつけ、振り抜いた。
 たちまち、抉れた背部から大量の血飛沫が飛ぶ。おかげで血のシャワーを全身でもろに浴びてしまった。俺の制服が汚された……。
 小さな代償を負うことにはなったが、どうやら致命傷を負わせることに成功したらしい。
 逞しい体は左右にふらつき、目に宿っていた光はみるみるうちに薄くなっていく。
 ややもすると、呻き声をあげてゆっくりとその場に崩れ落ちた。
 ――ところまでは良かったのだが、
「…………えっ」
 その後、信じられないことに、魔物は傷口から流れる鮮血もろとも『消えた』。
 決して誇張しているわけではない。倒れたヤツの身体から煌々とした粒子が次々と飛び出し、それに伴って本体は透明に近づいていき――遂には綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。気づけば、返り血を浴びたはずの俺の制服もすっかり綺麗になっていた。
(どうなってるんだこれ。ミイラもびっくりってか)
 とっさに少女の様子を窺ったが、特に驚くような素振りは見受けられなかった。それどころか魔物が消えて喜んでいる。
 ちょっと待てよ……。
 ここに至るまでの経緯に思考を巡らせる。
 俺は目覚めると同時に『勇者』と呼ばれて、俺をそう呼んだ当人である少女は、やれ魔法だのやれ魔道具だのとほざきだしたんだったな。うむ。ここまでなら、ただ中二病の少女に付き合わされているだけ、と解釈しても無理はないと言える。
 しかし。しかしだ。
 少女から受け取ったリングを装着した途端に俺の身体能力は飛躍的に上昇し、しかも倒した動物(少女曰く魔物)は死体ごと跡形もなく消え去ってしまった……となると?
 もう、安易に浮かんでくる可能性は一つしかない。
 ここが、俺の知る世界とは全く別の世界、つまり『異世界』であるという可能性だ。
 もしかしたら夢オチって可能性も……と思ったが、それはないな。それにしては五感がはっきりしすぎている。頬を引っ張ってみるまでもない。
 まさか、ドッキリ?……いや、それもないな。俺はこんな豪勢なドッキリを仕掛けられるような存在じゃないし、いまだに『ドッキリ大成功』の看板も見当たらない。
 見当たらない……よな?
 気になって辺りを見回してみたが、やはり怪しい動きは感じられなかった。
 クソッ、面倒なことになってきたぞ。
 俺は異世界になんて行きたくない。確かに本や漫画のテーマにはもってこいかもしれないが、実際に行くとなると面倒なだけだ。家族にも迷惑をかけることになるし、いいことなどただの一つもない。
 異世界で奮闘するなら、俺よりも適役がいくらでもいるだろ。なんで俺なんだよ。
「やったじゃない!」
 よくねーよ。
 俺の心の内など知りもしない少女が、ありったけの笑顔で近寄ってくる。呑気なやつめ。
 でも、初めて見せた笑顔は、いい感じにえくぼができてて……意外とかわいいな。
「っておい、制服」
「あっ……」
 はだけ具合がだいぶ強まってるぞ。
 少女はほんの少しだけ顔を赤くしながら、慌てて制服の乱れを整えた。
 その後俺を一瞥して、一言。
「アンタ、変態ね」
「なんでそうなる!?
「自然の摂理よ」
 ……こいつ、知ったばかりの言葉を使いたいだけだろ。
 そういえば、なんで少女は高校の制服を着ているのだろうか。
 彼女の着る制服だけが、この世界に馴染めないまま、行き場を見失っている気がする。
 もちろん俺が着ている制服もこの世界には全く溶け込めていないのだが、それはある意味当然のことだ。俺はこの世界の人間ではないのだから。
 でも、少女は違う。
 初めのうちはここが異世界だなんて思ってもみなかったので、少女は俺と同じく徳明高校の生徒なのだと思い込んでいた。しかし、ここが異世界であると分かった今、少女がこの世界に詳しいことを考慮に入れると、彼女はきっとこの世界の人間なのだろう。
 それならなぜ俺の知る世界の、それも徳明高校の制服を着ているのだろうか。
 ふとそんな疑問が浮かび、口に出しかけたが。
 無性に恐ろしい答えが返ってくる予感がしたので、結局口をもごもごするだけにとどまった。俺、コミュ障ですから。
「でも、ガルバリを一撃で仕留めるなんて、アンタ意外と筋が良いのね」
 少女は制服を軽く手で押さえつつ、何事もなかったかのようにころっと話題を変えた。
「ん、ガルバリ? あぁ、ハイエナオオカミのことか」
 あんな見た目のくせして、オノマトペ調で妙にかわいらしい名前じゃないか。こう言ってはなんだが、いかにも雑魚敵っぽい。
「ハイエナオオカミ? 何それ?」
 少女の首が地軸ぐらい傾いた。
「あー、俺がガルバリってやつのことを脳内でそう呼んでたってだけ」
「えっ……ププッ……ネーミングセンスひどすぎ」
 あろうことか少女は腹を抱えて笑い出した。
 俺がネーミングセンス無いのは百も承知だっつーの。馬鹿にしてるお前こそひどすぎ。
「アハハハハハハ、ハハハハハッ、ハハ……クッ……ククッ……」
 笑いすぎ。
 にしても、やっぱりこの少女の笑顔は、常人のソレよりあどけない愛嬌を秘めている気がする。眺めているだけで周りに幸せなムードが伝播しそうだ。
 この笑顔がもし百円だったら、毎日買いに行ってやる。
 ――とでも言うと思ったか? ハンバーガー買った方が得に決まってるだろ。
「アタシの顔、なんかついてる?」
 上目遣いで尋ねられた。顔をガン見されて恥ずかしかったのか、頬が少し赤みを帯びている。少しドキッとしてしまうような、女性らしい仕草だ。
 普段こういう経験のない俺の胸が高鳴る。
 一旦、落ち着こう。深呼吸。
 脳内で空気に馴染む言葉を慎重に選び出し、それを喉元まで丁寧に送り込む。
「ンブッ……ホ…ヴ……ゲホッゴホッ…グヘ……」
 ひどくせきこんでしまったんだが。
 緊張のせいなのか、はたまた百円があったらハンバーガーを買うだとか余計なことを考えたせいなのか。どちらにせよ、今度から買うならチキンクリスプにしよう。
「んんっ……すまん、もう大丈夫」
「それ、どっちの意味? 最初の質問の答えか、アンタの喉のことか」
 少女の顔に笑みはない。
「えーと、その……」
「それとも……アンタの頭のこと?」
 キッ、と。少女の目じりがつり上がった。
 怖い怖い怖い。
 なんだよこの女。今までとは打って変わって凄まじい威圧オーラを放っていやがる。ちょっとせきこんだだけなのに。いや、大量につばが飛んだのは謝るけどさ。
 ……手に持ってる白い棒が、金棒に見えてきたぞ?
 世にも奇妙な幻覚に怯みながらも、声を絞り出す。
「ト、トリプルミーニングっす」
 空気が凍った。
 先ほどまでの少女の屈託のない笑みが、あっという間に引きつった笑みに大変化。俺天才。天才すぎて涙が出そう。
 ……やっぱり異世界でも俺はコミュ障のままか。そうかそうか。
 ステータスとかがあるならコミュニケーション能力に全振りしてやりたいぜ。まったく。
 少女は俺の目じりにたまった涙に気づくこともなく、ガルバリが討伐された辺りをじっと見つめていた。何かに目を凝らしているようだ。
「あっ、ドロップしてるじゃない」
「……ドロップ? ん、なんだこれ」
 平坦な土の赤銅色をバックにして、透き通るような瑠璃色の石が輝いていた。異世界にのみ存在するパターンの鉱石だろうか。
 いや待て、それよりドロップって。
 この世界では、魔物を倒した時に何かしらのアイテムが落ちるということか。さすが異世界。本当にゲームの世界みたいだ。
 ってか、この感じだと、未知の法則であふれかえっていそうだな、ここ。
 少女との間には精神的な距離を感じないでもないが、色々と聞いてみなければ。
「なあ」
「――危ないっ!」
 唐突に飛びつかれた。バランスが崩れ、必然的に押し倒された形になる。
 腰を強打したが、例のリングのおかげか大した痛みはなかった。
「危ないって、お前の行動の方が……」
 言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 俺たちのすぐ横を、刃物らしきものが一直線に通過していったのだ。
 命の危険がすぐ近くまで迫っていたことを知り、身体が硬直する。
 次から次へと……どうなってるんだ。
「がっはっは。お嬢ちゃん、さすがだねェ」
 声のした方へ目を向けると、ガラの悪い盗賊風の男が腹を抱えて高笑いしていた。がたいがよく、かなりの大男だ。頭に真っ青なバンダナを巻いているのが印象的だった。
「……またアンタ? いい加減にしてくれる?」
 立ち上がった少女は、鋭い剣幕で男をにらみつけた。
『また』ってことは、これが初めてじゃないんだな。
「お嬢ちゃんを殺す気はさらさらねェ。おとなしくこっちに来てくれりゃあそれでいいんだ。分かるなァ?」
 え、ナイフみたいなの投げたじゃん。殺す気満々だったじゃん。
 男の優しく説得するような口調からは必死さが伝わってくるが、その言葉には卑しさが滲んでいた。
「嫌よ、絶対に嫌。そうするくらいなら死んだ方がまだマシよ」
 少女は語気を強め、さらに毒を吐く。
「それと、アタシはアンタみたいな腐れ盗賊にお嬢ちゃんなんて呼ばれたくないわ」
 腐れ盗賊って……もうちょっとオブラートに包んだ言い方ができないもんかね。
 俺は少々引いてしまったが、当の本人は全然気にしていないようだった。むしろ、まんざらでもないような顔してないか?
「……へェ、言ってくれるじゃねえか。ますます興味がわいてきたぞぉ。がっはっは!」
「キモッ」
 うん、超共感するわ。
「さぁ、勇者。あの変態をぶちのめしなさい!」
 おう、やってやれ!
 ……は?
 少女は怒涛の勢いで男の方を指さしたが、目は見るからに無気力な俺に向けられている。
 恐らく、今俺に向けられているこれは、キラキラ輝く眼差しってやつなんだろう。コイツ、ドSかよ。
 ……いまさらか。
「どういう理由でこんなことになってるのかは知らんが、俺を修羅場に巻き込まないでくれるか?」
「うるさいっ! 命の恩人に逆らうわけっ?」
 顔を真っ赤にして怒鳴られてしまった。なんて無慈悲なんだろう。
「はぁ、仕方ない」
 俺は重い腰を上げ、勢いよく地面を蹴って走り出した。
「よしよし、それでこそ勇者よ」
「逃げるか」
「へっ!? ちょ、ちょっと、どこ行くのよ!?
 どこへ行くのかって? 決まってるだろ。
 愛しのマイホームだよ!
 俺はこんな面倒なことに関わってやれるほど人間出来てないんだ。俺に頼んだのが運の尽きだったってことさ。大体、お前と出会ってなけりゃ、あんな危ない目になんて合わなかったんだ。命の恩人だと? 全く恩着せがましいやつだ。逃げられて当然と思え。
 ……ん、ちょっと待った。
 ここ、異世界じゃん! 俺の家ないじゃん!
 盗賊男の一悶着で、俺はどうやらパニックに陥っていたらしい。
 たまらず逃げ出してしまったが、ここに来る前の記憶が曖昧で、自宅はおろか元の世界に帰れるのかすら疑わしい。
「ちょっと、止まりなさい! そこの勇者っ! 止まらないと死刑に処すわよ!」
 しかし、だからと言って名も知らぬ少女の厄介事に関わるのはまっぴらごめんだ。そもそも俺は勇者じゃない。きっと人違いだろう。
 ならば、残った道は一つ。
「どうにかして思い出すしかない……」
 ここに至るルートさえ思い出すことが出来れば、元の世界に戻れて、万事解決のはずだ。行く道あれば、帰る道あり。すべての道は元の世界に通ず。まあ、そういうことだ。格言風に言ってみただけだけど。
 俺はな、もう決めたんだよ。何が何でも帰宅してやるってな……!
 というわけで、俺は謎のリングにより強化された身体で少女から逃げつつ、ぽっかりと空いてしまった記憶の穴を埋めようと試みることにした。
 何のことはない。少女の期待を裏切ることにはなるが、それがどうした。
 意気地がないとか男が廃るとかそういう話じゃない。ただ、少女の事情にうっかり侵入してしまわないよう、おとなしく手を引いただけのことだ。
 知ってるか? こういうのを、対岸の火事って言うんだよ。
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