アラフォー刑事と犯罪学者 全仕事

エピソードの総文字数=2,678文字

 長期休暇明けは学生の自殺が増えると聞いたことがあるけれど、まさか自分が38歳にもなってその気分を味わうことになるとは思ってもみなかった。午前7時きっかりになった目覚ましのアラームを聞きながら、今朝の私はそんなことを考えていた。
 起きたくない。あと5分。そう思ったけれど、復職1日目から遅刻は流石にまずい。ただでさえ出勤しにくいというのに。せめて出勤時間は堂々と守りたい。
 やむを得ずベッドから這い出すと、11月上旬の空気の冷たさが身に染みた。まるで世界に責められているような気分だ。とにかく体を動かし、眠気に追い付かれないように洗面所に向かう。水道の蛇口をひねり、水がお湯に変わるまでしばらく待った。

 私が停職になったのは、今年の6月のことだった。きっかけは、ある殺人事件の容疑者を取り逃がしたことだった。
大雨警報の出ていたあの日、私はその容疑者の手掛かりを何とか得ようと、上司の制止も無視して聞き込みを行っていた。その殺人事件はいわゆる通り魔的な犯行というもので、被害者の交友関係からも、現場の遺留品からも手掛かりらしい手掛かりは一切出ていなかった。唯一のヒントは、事件当時スーツ姿の怪しい男が現場周辺をうろついていたという、甚だ頼りない目撃証言だけ。だから私は、あんな雨の中足を棒にして歩き回り、さらに証言を得ようとしていたのだった。
 無論、その聞き込みは何ら成果を上げなかった。捜査に進展がないのはいつものことだから気にはしなかったが、私はその直後に恐ろしいヘマをやらかすことになる。警察署に帰る途中、その怪しいスーツ姿の男が、女性を今にも襲おうとしているところに行き合ってしまったのだ。車道と歩道の区別もない、閑静な住宅街としか表現がしようのない場所で、男が座り込み丸くなっている女性に向かって刃物を突き立てようとしていた。その異様な光景はまだ目に焼き付いている。
普通、こういうのはチャンスというべきだろう。私もその時はそう思った。しかし私は、ピンチはチャンスという言葉は、その逆もありうることを示しているのだということを身をもって体験することになる。
 私はその時、男に向かって猛然と走り出していた。探していた容疑者らしき男が目の前にいたという驚きと、手柄を自分のものにできるという高揚感、早く襲われている女性を助けないとという焦りが合わさって、私の視界を狭めた。大雨の騒音も手伝った。
 3歩進んだところで、私の体は中に浮いていた。ぐるぐるとまわる視界の中で私が、周囲の確認を怠ったために十字路から飛び出してきた自動車に跳ね飛ばされたことを理解するには、濡れたアスファルトに叩きつけられるまで待たなければいけなかった。

 お湯の湯気が顔にかかり、現実に引き戻される。左ひじがじくじくと痛む気がして、右手でさすった。あの事故で負った怪我が左ひじの骨折程度だったのが、唯一不幸中の幸いだった。
 あのあと地面に墜落した私は意識を失い、その間に犯人は逃げ去っていた。被害女性の通報で現場に急行した大勢の警官たちに見下ろされる格好で、私は目を覚ますことになった。地面で伸びている私を見る、雨と同じくらい冷たい警官たちの呆れた視線も忘れることができない。
 それにも関わらず、車とぶつかった衝撃のせいか肝心の容疑者の顔は全く思い出せない有様だった。もう刑事を10年以上やってきて人の顔を覚えることは随分得意になったと思っていたけど、そのプライドは肘の骨と一緒に砕け散ってしまった。
 その日中に病院に運ばれた私は、精密検査のレントゲンを撮っている最中に停職を告げられた。目の前で犯人に逃げられた失態と、上司の制止を無視した責めと、その他諸々の普段の行いのつけを一緒に払うことになった。腰の重い公務員の仕事にしては、実に迅速な決定と言えるだろう。
 お湯は洗顔には熱すぎた。このマンションのお湯は細かい温度が調整できない。顔を洗うと、多少目が覚めてきた。ただ、長い髪の毛をまとめずにお湯を思い切りかけたせいで、髪がべたべたになってしまった。普段はきちんとまとめてから洗うのだけど、洗顔の仕方も一緒に忘れてしまったのだろうか。まるで貞子だ。傍にあったタオルで適当に拭いて、手櫛で整えると生きている人間並みには綺麗になった。こういうとき、適当でもそれなりにまとまってくれる自分の髪質は本当にありがたい。
 次に洗面台に備え付けられた戸棚から化粧品を取り出そうとして、やっぱりやめた。元々細かいことは苦手な性分だが、それを差し引いても化粧なんてできる気分ではなかった。停職前からノーメイクの日の方が多かった気がするし、大丈夫だろう。
 やっぱり、普段どうやって出勤していたか忘れてしまっているようだ。5か月の停職は重い。
 鉛が流し込まれたように鈍い関節を方々へ回しつつ、着慣れないスーツを体に装着する。普段は仕事でもスーツなんて着ないのだけど、こちらも復職1日目を意識した選択だ。警官らしくない服装も停職の理由の1つだったはずで、そうであれば1日目からやんちゃするのはやっぱりまずい。今日くらいはしおらしくしていた方がいいだろう。
 スーツを着終わって、それだけで既に疲れてしまいベッドに一旦座り込む。カーテンを閉め切った真っ暗な部屋に、うっすらと新聞が浮き出て見えた気がした。傍のテーブルに置いてあったそれを手に取り一面を凝視する。
 『通り魔殺人 二件目起こる』。見出しにはそう書いてあった。一昨日の新聞だ。私の取り逃がした容疑者は、別の事件を起こしてしまっていたのだった。それも、出勤が憂鬱な理由のもう1つだった。昔後輩の刑事に、長いこと刑事をしていれば自分のヘマで被害が広がったように見えるときも必ず出てくるのだから気にするな、などと偉そうに言ったことがある気がする。軽率な発言だったと思う。気にしないなんて無理だ。
 起きてから一瞬しかたっていない気でいたが、時計に目をやると既に八時をまわっていた。今日は電車で出勤しないといけないから、そろそろ出ないと間に合わない。最後に、玄関に向かいながら忘れ物がないか思案を巡らせる。靴を履いてドアノブの手をかけたところで、警察手帳を忘れていることに気がついた。普段使っている上着に入っているのだが、今着ているのはそれではないから忘れるところだったのだ。慌ててクローゼットまで戻り、一通り上着を探して、警察手帳は上司に回収されたことを思い出した。
 体が重くなって、少しその場にうずくまった。

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