第一章②

エピソード文字数 2,120文字

 ──今日、早朝。
 朝もやにかすむ、ロンドンの街並み。
 肌を刺す冷気は眠気を一息に霧散させるほど、非常に厳しいものだった。
 いや、それもそのはず。なんせ空が白み始めていたとはいえ、日は依然昇りきっておらず、本来であれば街もまだ寝ているような時刻だったのだから。
 しかるに、イースト・エンドと呼ばれる下町の一角では、すでに人々の行きかう喧騒が響いていた。
 ちなみに下町といえば聞こえはいいが、イースト・エンドはこのロンドンの負の側面を持った集落。日雇い仕事を探す者、それを相手に商売をする安酒場、木賃宿、そして娼館。いわゆるドヤ街である。
 ケンカや強盗が日常茶飯事なら、切った張ったもまた日常。そんな血の気が多い連中がたむろするこの一帯だからこそ、警官の姿も普段から他の地区より多い。
 しかし、今朝に限っていえば、それは異常な多さだった。なぜならそこらを行きかう人々の姿、そのほとんどが警官と思しき者たちだったからだ。
 その中には当然、朝早くから叩き起こされ、少々不機嫌そうなデイヴィッド警部の姿もあった。
「……ひでえことをしやがる」
 ただ、たしかに不機嫌そうではあったが、ボソッと呟きながら現場を睨みつけるその視線は、あくまでも真摯そのものだった。
 と、そこへ急ぎ駆け寄ってきた、一人の若い制服警官。
「デイヴィッド警部。やはり凶器は鋭利な刃物のようです!」
 息急くままに、一先ず調べ終えたことを口早に述べ上げてみせた。
 だが、その報告が気に食わなかったのか、起き抜けからの不機嫌さが持続していたからなのか、はたまた新たな犠牲者を生んだ殺人犯に対して苛立っていたからなのかはわからないが、デイヴィッド警部はかぶっていたハットを右手でついっと上げるや、いつにも増しての鋭い視線をその警官に向け、次の瞬間には、
「バカ野郎! んなことは、はなっからわかってんだよ!」
 割れんばかりの怒声で一喝していた。
 これには若手警官もビクッと身体を震わせ、萎縮するしかなかった。
 むろん周りで作業を進めていた他の警官たちも思わず手を止め、何事かと注視した。
 しかし、なおも怒りの収まらないデイヴィッド警部はその警官を睨みつけながら、ますます怒気の篭もった声でがなり散らした。
「例の切り裂きジャックを模した犯人のことだ。凶器が刃物だってことは、そこいらのガキどもだって知ってるぜ!」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでした」
 蛇に睨まれた蛙の如く、額に大汗をかきながら、直立不動で答える若い警官。
 結果、それ以上は誰も口を開けないピリピリとした空気が、瞬く間にあたり一帯を包み込んだ。
 だが、そんな空気をものともしない者が一人だけ居た。
「デイヴィッド君。捜査は進んでおるかね」
 背後から聞こえてきたこの悠然とした物言いに、デイヴィッド警部は慌てて後ろを振り返った。
 と、そこに立っていたのは、白髪混じりのヒゲを蓄え、背広とハットで身を固めた初老の男性。まさしく英国紳士と呼ぶにふさわしい風貌の人物だった。
「これはスティーヴ・マルサス警視殿。お早いお着きで」
「うむ」
 そう短く返事をしながら、スティーヴ警視と呼ばれたその男性がまずしたこと。それは右手を軽く振り、若い警官をその戒めから解き放つことだった。
 そして、蛇の呪縛から解放された警官が一礼をし、そそくさとその場を退散するや、
「デイヴィッド君、あれはいかんよ、あれは」
 穏やかに、だが、少々嫌味を込めた声音でちくりと言い放ってきた。
 むろんこの小言に対しても、『なにおう!』などと噛みつき返したいデイヴィッド警部だったが、そこはそこ、仮にも今度の相手は上司である。だから空気を読んで、
「は、はぁ……」
 一応殊勝な態度で応じておいた。
 しかし、そんなことなどお構いなしとばかりに、スティーヴ警視の小言はなおも続いた。
「うむ。ああも怒鳴ってしまっては、若い警官たちが萎縮するだけだからな。以後、気をつけたまえ」
「わ、わかりました」
「だいたい、切り裂きジャックを模した、ではない。これは切り裂きジャックそのものの犯行なのだからな。そこのところも間違えたらいかんよ」
 言うやいなや、ハットの奥からはジロリと念押しの如く、気迫の篭もった視線まで送りつけてくる始末だった。
 小言に加え、かくも厳しい上官からの威圧である。ふつうの者であれば、ここでおとなしく引き下がっていたことだろう。だが、デイヴィッド警部は到底ふつうの者などではなかった。なにしろその証拠というべきかなんなのかはわからないが、一度は小言に応じかけていたはずなのに、切り裂きジャックの名が出た途端、眼の色を変えて上官に噛みついていたのだから。
「ちょっと待って下さいよ、警視殿! お言葉を返すようで申し訳ないんですがね。やはり俺にはこの一連の犯行が切り裂きジャックのものだとはどうしても思えんのですよ!」
 すると、この部下の真っ向からの反論に、
「は?」
 さしものスティーヴ警視も一瞬面食らってしまって、眼を丸くしながらの間抜けな聞き返しをする羽目となってしまった。
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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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