Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=2,120文字

 ──今日、早朝。
 朝もやにかすむ、ロンドンの街並み。
 肌を刺す冷気は眠気を一息に霧散させるほど、非常に厳しいものだった。
 いや、それもそのはず。なんせ空が白み始めていたとはいえ、日は依然昇りきっておらず、本来であれば街もまだ寝ているような時刻だったのだから。
 しかるに、イースト・エンドと呼ばれる下町の一角では、すでに人々の行きかう喧騒が響いていた。
 ちなみに下町といえば聞こえはいいが、イースト・エンドはこのロンドンの負の側面を持った集落。日雇い仕事を探す者、それを相手に商売をする安酒場、木賃宿、そして娼館。いわゆるドヤ街である。
 ケンカや強盗が日常茶飯事なら、切った張ったもまた日常。そんな血の気が多い連中がたむろするこの一帯だからこそ、警官の姿も普段から他の地区より多い。
 しかし、今朝に限っていえば、それは異常な多さだった。なぜならそこらを行きかう人々の姿、そのほとんどが警官と思しき者たちだったからだ。
 その中には当然、朝早くから叩き起こされ、少々不機嫌そうなデイヴィッド警部の姿もあった。
「……ひでえことをしやがる」
 ただ、たしかに不機嫌そうではあったが、ボソッと呟きながら現場を睨みつけるその視線は、あくまでも真摯そのものだった。
 と、そこへ急ぎ駆け寄ってきた、一人の若い制服警官。
「デイヴィッド警部。やはり凶器は鋭利な刃物のようです!」
 息急くままに、一先ず調べ終えたことを口早に述べ上げてみせた。
 だが、その報告が気に食わなかったのか、起き抜けからの不機嫌さが持続していたからなのか、はたまた新たな犠牲者を生んだ殺人犯に対して苛立っていたからなのかはわからないが、デイヴィッド警部はかぶっていたハットを右手でついっと上げるや、いつにも増しての鋭い視線をその警官に向け、次の瞬間には、
「バカ野郎! んなことは、はなっからわかってんだよ!」
 割れんばかりの怒声で一喝していた。
 これには若手警官もビクッと身体を震わせ、萎縮するしかなかった。
 むろん周りで作業を進めていた他の警官たちも思わず手を止め、何事かと注視した。
 しかし、なおも怒りの収まらないデイヴィッド警部はその警官を睨みつけながら、ますます怒気の篭もった声でがなり散らした。
「例の切り裂きジャックを模した犯人のことだ。凶器が刃物だってことは、そこいらのガキどもだって知ってるぜ!」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでした」
 蛇に睨まれた蛙の如く、額に大汗をかきながら、直立不動で答える若い警官。
 結果、それ以上は誰も口を開けないピリピリとした空気が、瞬く間にあたり一帯を包み込んだ。
 だが、そんな空気をものともしない者が一人だけ居た。
「デイヴィッド君。捜査は進んでおるかね」
 背後から聞こえてきたこの悠然とした物言いに、デイヴィッド警部は慌てて後ろを振り返った。
 と、そこに立っていたのは、白髪混じりのヒゲを蓄え、背広とハットで身を固めた初老の男性。まさしく英国紳士と呼ぶにふさわしい風貌の人物だった。
「これはスティーヴ・マルサス警視殿。お早いお着きで」
「うむ」
 そう短く返事をしながら、スティーヴ警視と呼ばれたその男性がまずしたこと。それは右手を軽く振り、若い警官をその戒めから解き放つことだった。
 そして、蛇の呪縛から解放された警官が一礼をし、そそくさとその場を退散するや、
「デイヴィッド君、あれはいかんよ、あれは」
 穏やかに、だが、少々嫌味を込めた声音でちくりと言い放ってきた。
 むろんこの小言に対しても、『なにおう!』などと噛みつき返したいデイヴィッド警部だったが、そこはそこ、仮にも今度の相手は上司である。だから空気を読んで、
「は、はぁ……」
 一応殊勝な態度で応じておいた。
 しかし、そんなことなどお構いなしとばかりに、スティーヴ警視の小言はなおも続いた。
「うむ。ああも怒鳴ってしまっては、若い警官たちが萎縮するだけだからな。以後、気をつけたまえ」
「わ、わかりました」
「だいたい、切り裂きジャックを模した、ではない。これは切り裂きジャックそのものの犯行なのだからな。そこのところも間違えたらいかんよ」
 言うやいなや、ハットの奥からはジロリと念押しの如く、気迫の篭もった視線まで送りつけてくる始末だった。
 小言に加え、かくも厳しい上官からの威圧である。ふつうの者であれば、ここでおとなしく引き下がっていたことだろう。だが、デイヴィッド警部は到底ふつうの者などではなかった。なにしろその証拠というべきかなんなのかはわからないが、一度は小言に応じかけていたはずなのに、切り裂きジャックの名が出た途端、眼の色を変えて上官に噛みついていたのだから。
「ちょっと待って下さいよ、警視殿! お言葉を返すようで申し訳ないんですがね。やはり俺にはこの一連の犯行が切り裂きジャックのものだとはどうしても思えんのですよ!」
 すると、この部下の真っ向からの反論に、
「は?」
 さしものスティーヴ警視も一瞬面食らってしまって、眼を丸くしながらの間抜けな聞き返しをする羽目となってしまった。

TOP