終章 「北へ」

文字数 5,133文字

 平成20(2008)年4月7日、月曜朝──。
 集合場所に勝手に指定された七大病院の旧正門前で久斯を乗せて、出発した。せんだい市内を横断し、岩切から利府に入って三陸自動車道に乗り、石巻市に至る経路を予定した。
「仙台生まれですが、石巻に行くのって僕、はじめてかもしれません。地元の人間ほど、地元を知らないってことありますよね。灯台もと暗しっていうか。あ、東大と灯台をかけたわけではないですよ」
 助手席の久斯が窓の外を見ながら、聞かれてもいないことをウキウキと話していた。
「なんで俺がお前を送らないとならないんだっつうの」
 昨日は日曜日で、準単身赴任中の葦原はせんだい市に戻っていたが、今日はまた朝早くから出勤する──のを待ち構えていた久斯を一緒に連れていくことになったのだった。3月の末も末に葦原の赴任先に久斯を後期研修医としてねじ込むことになったこと自体は、七刄会医局パワーで造作もなかったが、後期研修という名の非常勤採用の手続きが完了したのが先週末ということで、4月第2週の今日から久斯は初出勤だった。
 宮城県第2の都市・石巻市の中核病院、みやぎ県北医療センター石巻病院(石巻センター)は七刄会関連市外大規模(Bランク)病院で、病床数は約500床、外科は中部班人事で回している。縦長の形をした宮城県の北東部一円の患者が押し寄せる第一級の野戦病院である。これまで中部班スタッフとして七州大学病院とせんだい市民病院の往来で仕事をしてきた葦原には、まさに新天地だ。葦原はすでに約1週間前、4月1日付けで外科副部長として着任していた。3年1期の赴任後にはまた仙台に戻るので、子どもたちの教育事情も考慮して単身赴任のような勤め方としたが、七大城下町せんだい市に出入りを繰り返す医局員には普通のことだ。石巻センターには大学医学部スタッフが手術指導アルバイトとして週1、2回派遣されてくるし、また夜間休日当直のアルバイトにも医局から大学院生がやってくるから、日中は忙しいにせよ、葦原のような単身赴任者が自宅に戻れる日もある。
 今期からの石巻センター外科部長は大和先生だ。七刄会の香盤表人事によれば、大和先生はここで部長・副院長を3年ずつ務めて、最後にまた藤堂先生のように市民病院に戻る。大和先生の上には同院外科部長から繰り上がった志村副院長がいる。葦原の部下には大学病院診療医員から転出してきた外科主任医長の高峰、そして外科(副主任)医長に大学院修了後の亀田・逢坂の2名が配属となった。そして急遽追加された後期研修医の久斯。この6+1名の七刄会外科医が中心となり、病院採用外科医長とともに仕事をしていく。県北エリアの膵頭十二指腸切除術(PD)はここに集約しているし、更に地域の中核病院としていわゆる一般外科の症例も多い。野戦病院ならではの「症例が豊富」という触れ込みで、どうやら初期研修医は潤沢に入職してくるようだが、外科の後期研修医はその募集をまだ大々的にアピールしていないため、今のところ久斯のみだ。
 (せわ)しない医者の世界だから、すでにそれぞれの春が始まっている。
 押切先生は市民病院外科部長になり、同院を七州PDの総本山とすべく奮闘が続く。医長トリオは七大に戻り、これから出世競争の後半戦となる。せんだい市民病院から七刄会に入局した若手医師はまずは大学病院の激務に揉まれつつ、大学院研究の準備も始めていく。医局定年を迎えた藤堂先生は現在、渡航の準備を進めているとのことだった。ちなみに、藤堂先生の同期のライバル・伏見先生は、果たして、再度の破綻の危機にある仙台りんあい病院の病院長に就任した。今後、いろいろと立て直しのために劇薬的な改革を断交していくのだろう。そういえば、七州電力病院長には岩手国立大学医学部外科学講座教授を退官された君島先生が就任したのだが、そうと知ったのは残念ながら、同院で発覚した個人情報流出問題について謝罪記者会見をする新病院長としての姿を見てであった。
 大学本部にも色々な動きがあった。
 まずは、総裁が晴れて、七州大学大学院医学系研究科長・医学部長に就任した。七州医学の頂点に君臨したのだ。しかし、それすら通過地点(ステップ)に過ぎない。3年後には現在の工学部出身の本学総長の任期が切れる。そこで、次期本学総長の座をうかがうことは必然であった。
 真田先生は七州大学大学院医学系研究科特任講座みやぎ未来医療整備戦略室教授に着任した。水面下で医学部新設に匹敵するほどの組織体としての七州大学附置研究所附属病院を作ることに着手する。七大病院外科特命教授の肩書は外れたものの、引き続き実質的な七大病院外科診療の総責任者として、また七刄会運営を掌握する医局長としての立場は続く。七刄会から本学総長を出す──悲願達成と、さらなるその先を見据えている。
 吉良先生は京大教授(外科学講座代謝臓器外科学分野)に栄転された。引っ越し直前に電話をいただき、医局長としてスカウトされたのは丁重にお断りしたが、あっちで手術をやるときにはまた前立ちで呼んでくれるとのことだった。吉良先生の後任として大学に戻った鷹羽先生もすでに精力的に活動を開始したと聞く。その他、改選期にあたる人事対象者は、医員が助教になったり、助教は講師になったり、講師は准教授になったり、あるいは学外転出している。
 白神先生は七州大学病院総合診療部を立ち上げ、診療科長・特命教授となった。どうやら市民病院後期研修医も数名、部下としてついていったようである。今後、大学院医学系研究科に母体となる総合診療医学講座を設置して、医学部講座教授になっていくのだ。「七大総診」と銘打った同部署のホームページもすでに開設されていたが、白神先生の提唱する総合診療の理念や未来、若手医師募集のメッセージを見るにつけ、なるほど、彼もまた大学という足場で、未来の教授として物語を紡ぎ始めたのだと思わされる。それが人を呼び、医局となるのだ。彼ら新参者は医局という守旧的組織を否定しているのだろうが、教授がいてその下に医者が集まれば、それはなんと言おうが、医局なのだ。
 平田先生はせんだい市民病院救急部から外科に戻った。肩書は(病院採用)医長のままだった。大ベテランに対しては役不足だが、市の病院なので勝手に役職を増やせない。「外科特別顧問」という非公式の肩書が用意されたようだが、自分からそれを名乗ることはないだろう。外神総裁との暗闘もラストコーナーを曲がったところで、うっかり偉くならないように、それでいて仕事は怠けることはなく、淡々とやっていくはずだ。
 葦原の同期らは香盤表人事どおりにそれぞれの任地に赴いた。香取や新沼はこれが開業前の最後の

になる。日辻は宮城県南部の亘理町立病院外科副部長として異動した。県北の石巻からはだいぶ遠く、間にせんだい市を挟んでいる以上、患者のやり取りなどで会うことはないだろう。だからといって、これっきりにはならないはずだ。年次総会も同期会もある。学術集会で会うこともあるだろう。せんだい市内でプライベートで出くわす可能性のほうが高いかもしれない。日辻があと3年で医局を離れるにせよ、同じ釜の飯を食ってきた医局の同期であることは、一生変わらない。
 さて──。
 葦原は今年で43歳となる。紆余曲折あって、七刄会Aキャリアの座は逃した。将来の外科再編を見越した次期医局長指名については断ったものの、不可抗力で「七刄会事務局次長」つまりは、七大外科副医局長にはなってしまった。また、七大グランドサージャリー事務局長にもなってしまった。七大グランドサージャリーは大学医局を事務局としてスタートし、七刄会内部にはこれから1年くらいで周知し、なるだけ早い本格始動を目指す。だが、これらは本命ではない。俺は教授になる──。
 それにしても──。
「混んでるなあ、下道で行くか」
 この時間にしては道路が混んでいるのは、春休みも終わり、世間も新年度フル稼働というところだからだろうか。葦原は三陸自動車道を降りて、一般道で行くことにした。この辺は林の中だから、一般道と高速道はほぼ並走するように走っている。
 久斯と会うのは葦原が退院した日以来だった。どこでなにをしていようが自由だが、こんがりと日焼けをしているのを見ると、春休みとして南国旅行でもしていたのかもしれない。虫垂炎(アッペ)の術後経過は順調だったが、葦原は引越し作業をしながら下っ腹をかばうようにして静かに暮らしていたし、抜糸は自分でやったので、なんだか複雑だった──信号で停まった。そこで、真田先生の話を思い出した。
「そういや、お前が書いていた論文、俺を筆頭著者にしてくれてたんだな。論文を書いたお前がそれでよかったのにな。すまんな。結核性虫垂炎なんて俺はほぼノータッチだぞ」
 久斯も自分をイコール・コントリビューターにしているから、お互いの業績としてカウントできるとはいえ、目下のものの業績を自分のものにしたようで、まだまだ罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「お礼なんかよしてくださいよ。なんかあったときに葦原先生のせいにするためですよ」
「はっ?」
「それは冗談ですが、ギフト・オーサーシップで喜んじゃダメですよ。僕が捏造改竄盗用(ネカト)してたら葦原先生の天下取りの野望もジ・エンドですよ。結核性虫垂炎については、伊野先生がそれに術前に気づかなかったなんて恥を晒すのが嫌だって言って、筆頭著者を譲ってくれました」
「……………」
 反論が見つからず、葦原は黙った。罪悪感は消し飛んだ。
「それにしても葦原先生、本当にお元気そうで、なによりです」
「ん? アッペくらいでなにを大げさに」
「だって、術中にあんなことがあったのに……」
「ん? あんなこと?」
「先生、青信号ですよ」
 信号待ちをしていた前の車がもういなかった。慌てて、車を発進させた。
「ま、なにかあったら遠慮なく言ってください。責任は取ります」
「おい、責任を取るってなんだよ。なにをしたんだ?」
 葦原は虫垂のあった右下腹部を押さえた。痛い気がする。
「そっちじゃないです」
「はっ?」
 葦原はハンドルを持ち替え、左下腹部を触った。なんともないはずだが、押して見ると少し痛いかもしれない。いや、こっちに傷はなかったはずだ。
「葦原先生、虫垂は右下腹部にあるんですよ。いえ、虫垂は右下腹部にあったんですよ」
「そんなの知ってるよ。虫垂はってなんだ。なにがあったんだ。ミスしたのか?」
「ミスはしてませんよ、ミスは。やだなあ、自分の愛弟子を信じてくださいよ。なにを教えてきたんですか、この2年間。手術は完璧でしたよ、手術は」
「ミスはってなんだよ。手術はってなんだよ。2年間も一緒にいなかっただろ」
「葦原先生の躰には外科道の大切なことを教えていただきました。盗むっていうのはそういうことだったんですね」
 久斯は手を合わせて拝んでいる。
「拝むなよ! 質問に答えろよ! 教えていないことを勝手に学ぶなよ!」
「しっ……葦原先生、日本三景、松島の前ですよ」
「別に拝むものじゃないだろ! っていうか、こんなところから松島が見えるかよ! いや、あれ、松島か? なんで?」
 いつの間にか、林道を抜けて、海を望む景色が広がっていた。松島だ。
「松島、やっほー!」
「うるせえよ! お前のせいで、道を間違っただろ!」
 高速道路を降りたあたりで進路を間違っていたのか、林の中を横断して海側に出てしまったようだ。案内標識を見ながら現在地確認を急ぐ。
「こっちを通っても目的地には到達するはずですよ。そんな遠回りにもならないでしょうし。焦りなさんな」
「うるせえうるせえ。慣れてない道は通りたくないんだよ」
 葦原は石巻方面に向けて左にハンドルを切った。わざとらしく、久斯が躰を運転席側に揺らして言う。
「葦原先生、東大医学部卒の医者が乗ってるんですから、もっと安全運転で頼みますよ」
「もー、お前、東大に帰れよ!」
「PDやらせてくれたら帰るかも!」
 3年早い──冷静にそう評価した自分に腹が立って、葦原はアクセルを踏みこんだ。
                                   (了)
─────
©INOMATA FICTION 2019-2020
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登場人物紹介

葦原建命(あしはら・たてる)

 七刄会医伯正

 七州大学病院外科診療助手(中部班)

久斯創(くし・つくる)

 せんだい市民病院「アラサー」初期研修医

 論文モンスター

 

真田善次(さなだ・ぜんじ)

 七刄会医伯総監

 七州大学病院外科特命教授

 七州大学医学部外科学講座医局長

藤堂壮平(とうどう・そうへい)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院副院長

 「雷神藤堂」「七刄会ラパ胆のパイオニア」

大和達郎(やまと・たつろう)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科部長

 「肝臓手術の名手」

押切慶二(おしきり・けいじ)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科副部長

 「七刄会PD最速」

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