#12. 涙の笑顔
文字数 3,073文字
しばらく無言でソファに座り項垂れたままだった私に、マーリンは努めて明るく話しかけてきた。長い沈黙だった。マーリンは元々こういうのが苦手だ。
「……ええ。そこで一つ、質問が」
「なあに〜?」
「アトゥムは、なぜ人間に転生を? 理由がまるで思い当たりません」
アトゥムにとって、地上はただの道具だったはず。この世界の全て、植物や動物、山々や海ですら、アトゥムが人間の魂を鍛え上げる為に設置した装置だ。そこに自らも組み込むとは、酔狂としか思えない。
「あ。あ〜。おほほほほ。これ、言っても信じてもらえるかしら〜」
「? どういう事ですか? 言ってもらわなければ、信じる信じないの判断は出来ませんが」
「まあ、ねえ。それは、あたしも分かってるんだけれど〜……」
マーリンはしばし顎に指を当て、うろうろと歩き回っていたが、はたと動きを止め、頷いた。
「一年ほど前になるかしら〜。アトゥムちゃんがね、あたしのとこにやって来て、こう言ったの〜」
「何ですって? アトゥムが、ここに!」
「ええ。彼にとってはツインタワーの警戒システムなんて、児戯に等しいから〜。まあ、それは置いといて〜」
いや、軽々しく置いておける話ではない。つまり、アトゥムはマーリンをいつでも始末出来たと言うことになるからだ。それより、もっと重大な事実がある!
「いや、置いておくのも困りますが、それより……アトゥムは、すでに目覚めていた、と?」
アトゥムは2000年周期で覚醒する。正確には2012年毎だが。そして、世界を滅ぼし実った魂を収穫する。それが、故郷の星へ帰還する為のエネルギーとして蓄えられて来たのだ。それが、すでに目覚めていた? しかも、目覚めていながら世界を滅ぼそうともせず、マーリンに会う為、地上へ降りて来ていただと?
「ええ。まあ、それも置いといて〜」
「大問題ですが……全部置いとくのですね……」
呆れてしまい、もうどうでも良くなった。話の核心はそこではない、とマーリンが伝えたいのは分かるので、私は目で話の先を促した。
「じゃあ、続きね〜。アトゥムちゃん、こう言ったの〜。『凄いよ、マーリン。この地上は、随分美しいものになったよね。今の地上は、僕の故郷に似ているんだ。なら、帰る必要はもう無いんじゃないかな? なんて思ってね。そうなると、僕が主神をする理由も無い。だから、もう神様なんかやめて、人間になりたいなー、ってのは、勝手かな?』って」
「……………………」
脳が痺れて何も考えられない。耳が腐り落ちそうだ。腸はマグマのようにぐつぐつと音を立てている。
「も、もちろん、あたしは厳しく非難したわよ〜。勝手に決まってるじゃない! って〜。それに、この第七世界以外の六つの世界はどうなるのか、とか〜。それはもう、懇々と説教してあげたわよ〜」
私の三白眼に耐えかねたマーリンは、あたふたと言い訳じみた話を始めたが、もうそんなものは右耳から左耳へと微風のごとく通過するのみだ。
「で、でね。アトゥムちゃんたら、あたしの説教を聞いて、なんて答えたと思う〜?」
「さあ……? 地上は人間も含め、全て自分の創り出した所有物なので、何をしても自由だとか宣う気狂いですからね……予想もつきませんが……」
これはヴァルキュリアがアイリーンに対してアトゥムの意志を伝えた時に言っていた事なので、本人の発言では無いが……まあ、概ね間違ってはいないだろう。アトゥムはそういうやつだ。
「うふ。彼ったら一言、『ごめん』ですって〜。ごめんで済まされちゃ、たまんないわよね〜。そう思ったらあたし、笑いが止まらなくなっちゃって〜」
「……マーリン?」
マーリンは大粒の涙をぽろぽろと零し、唇を震わせて笑っていた。瞬間、私は理解した。
ああ、マーリンは、アトゥムのその一言で、永年の、本当に、永年に渡る重圧から解放されたのだ、と。怒りも憎しみも悲しみも苦しみも、そして、ほんの僅かな幸せも。それら全てを思い出し、呆れ果て、嬉しさ溢れ、綯交ぜになった感情が笑いとなって発露したに違いない。エルンストとの約束も、これで果たされたのだ。アトゥムの謝罪一言で、マーリンは全て報われたのだ。
そんなマーリンを責める権利は、私には無い。アトゥムは到底許せない。だが、堪える事は出来る。万感の想いを呑み込んでアトゥムの申し出を受け入れたマーリンの為に、私も堪えよう。そう思った。
「……なるほど。良かったですね、マーリン」
私はそれだけ言って、マーリンの頭を撫でた。
「ゼルタちゃん〜。ごめんね、ゼルタちゃん、ごめんねえ〜」
マーリンはさらに泣きじゃくる。嬉しそうに、悲しそうに。今のマーリンは、ただの少女にしか見えない。古の大魔女、慈愛の女神。そんな冠は、本当のマーリンを表していない事を、私だけが知っている。
「だから、ね? ゼルタちゃん、もう、あなたも、戦う必要なんて無いの。準備も、もう必要無い。これからは、自分の幸せを、全力で探すの。あなたは、その為に生きていく。あなには、そうする権利があるのよ〜」
私に頭を撫でられたのが少し悔しかったのか、マーリンは私の手をそっとどけると、逆に私の頭を撫で返した。素の自分を晒しても、お姉さん的立ち位置は譲れないのだろう。ごく稀に見せるそうしたマーリンの挙動は、ひどく可愛らしく思える。
「幸せ、ですか……しかし、私にとっての幸せとは、一体何なのでしょうね……」
つい言ってしまい、後悔した。自分の幸せの在処を他者に尋ねるとは愚かに過ぎる。そんな自分の馬鹿さ加減が嫌になったのだ。
だが、マーリンは答えた。
「あるじゃない、幸せ。ほら、ゼルタちゃんのすぐ、そばに」
「えっ? すぐ、そばに?」
「そうよ。分からない?」
マーリンはいたずらっぽくくすくすと笑う。涙の跡も乾いていないというのに、マーリンの表情は忙しい。そんなマーリンは、わたしの思ってもいなかった事を言い出した。
「愛ちゃんよ」
「……は? 愛、ですか?」
何を言っているのだろう? 本気で分からないのだが。
「うふふ。15年、ずうっと一緒にいてくれた愛ちゃんなら、きっとあなたを幸せにしてくれるわ〜」
「はああああああ?」
「そんなに驚く事かしら〜? あなたたち、いい線いつてると思うわよ〜? 愛ちゃんだって、まんざらでも無いんじゃないかしら〜? くすくすくすくす」
茫然自失とは、こんな時に使うのだろう。頭の中が真っ白だ。しかし、マーリンの頭の中はお花畑に違いない。智謀知略に優れた大魔女も、こんな的外れな事を言い出すのか。
「馬鹿な事を。私はネクロマンサー、幽体です。仮に愛が私に何かしらの特別な感情を抱いていたとしても、肉体が無いのではどうしようも無いでしょう? 論外ですね、それは」
いや、これは別に性的な意味では無く。私がそういう事が無ければ無意味だと言っているわけでも無いのだが。しかし、実際無意味だよね? 違うか?
「ああ。それなら、心配無いわよ〜」
「へ?」
「だってあたし、あなたの肉体、ちゃんと保存してあるもの〜。こんな事もあろうかと思ってね〜、4000年、大事に管理してきたのよ〜」
マーリンはその豊満な胸を反らし、えへんと威張った。
「……は? はあああああああああっ???」
私の頭は、大混乱に陥った。