第1話

文字数 1,993文字

 桐谷薫が世捨て人の終着駅として悪名高い水星軌道上の飯場にやってきたのは、地球に倦んでいたからだった。彼は文明の恩恵によって肥え太る連中にほとほと愛想が尽きたのである。
 奴隷船〈ディスカバリー〉号が蛇腹式の通路によって飯場とランデヴーし、空気が行き来する気の抜けたような音がした。青年がおっかなびっくりエアロックを潜ると、ずんぐりした壮年の男が出迎えてくれた。
「あんたが今回の奴隷かね」端末を操作して目の前の人物と照合しているらしい間。「桐谷薫、二十五歳独身」目が大きく見開かれた。「アイビー・リーグ卒とは恐れ入ったね。どうしてこんな世の果てに?」
 青年は肩をすくめた。「ぼくの勝手だと思いますがね」
「まあ理由なんざどうでもいいさ。知っての通りダイソン球建設現場(宇宙のタコ部屋)は慢性的な人手不足に悩まされてる。着いて早々悪いがすぐ仕事にかかってもらおう」

 飯場はまさにタコ部屋そのものであった。最寄りの文明圏は金星の軌道都市〈サテライト・ビーナス〉までなく、内部には汚染された再循環空気が漂い、風呂は一週間に一度、娯楽は皆無。おまけに筋力低下対策として日に二時間のトレーニングを就業規則として強制されもする。高賃金に目がくらんで訪れる者の九分九厘が、半月もすれば貨物船に密航してずらかるのもうなずける劣悪な労働条件だ。
「今日でまる三か月か」桐谷を出迎えた現場主任のP・K・ライアンはガリウム-ヒ素型太陽光発電ユニットを慎重に扱いながら尋ねた。「そろそろママのおっぱいが恋しくなったかい」
「まさか。毎日こんな景色が見られるんですよ」青年は手振りであたりを指し示した。ヴァイザ越しでなければとても直視できないほどの光輝を放つ太陽。振り向けば遮るもののない茫漠たる宇宙空間。彼らの周りには建設作業に従事する宇宙服姿の人びとが、忙しそうに行き交っている。「どうして地球なんかに帰らにゃならんのです」
「よかろう。じゃあダイソン球のミニチュアを作る気分はどうだね」
「悪くないですよ。実は提唱者が遠い親戚でしてね」
「驚いたな。でもそれだと余計にみじめになるんじゃないかね。フリーマン・ダイソンの構想は太陽をすっぽり覆っちまうような殻を作って輻射エネルギーを全部利用するんだろ。俺たちの目標はたかだか900キロ平方メートルの板切れなんだから」
「最初の一歩はいつだって小さいもんです」
 ライアン現場主任は肩をすくめた。「そうだろうとも」

 10年後、ついに当初の目的である900平方キロメートルの板切れが完成した。全面に高効率発電パネルを張りつけ、光子を電力に変換、マイクロ波を中継ステーション経由で文明圏に届ける24時間コストゼロでフル稼働する夢の発電所だ。
「やったな桐谷」主任と青年は宇宙空間で重厚な握手を交わした。「正直俺が生きてるあいだに完成するとは思ってなかったよ」
「引退するというのは本当ですか」
「俺も歳を取ったってことさ」親しげに肩を叩く。「文明圏の電力需要は依然逼迫してる。プロジェクトの拡張も正式に決まった。今日からはお前がここのボスだ」
「ぼくにできるでしょうか」
「お前は平均勤続年数の240倍勤務してるんだ。自信を持てよ」
 新生主任はしばらく沈黙したのち、おもむろに切り出した。「どこに引っ込む予定なんです」
「月あたりまでいきゃ、きれいな姉ちゃんもたくさんいると思ってるがね」
「月ですね」彼は不敵な笑みを浮かべた。「ライアンさんが死ぬまでに夜空の景色にアクセントを添えてみせますよ」

 40年後、飯場はいまや一大宇宙工業都市と化していた。いくつもの居住モジュールが無秩序に連結され、炭素原料を抽出する小惑星加工工場が周辺を漂い、指向性マイクロ波が文明圏めがけて飛び交っている。環境保護意識の高まりで火力はおろか原子力すらタブー視される地球において、廃棄物ゼロのレクテナ発電は唯一の選択肢になりつつあった。
「ねえ桐谷さん、あたしいまでも信じられません」新米の女の子は興奮を隠しきれないようすだ。「ほんとにこれが現実なの?」
 酷寒の宇宙に浮遊する二人の目前には、視野に収まりきらない超巨大構造物が鎮座ましましている。その面積は900,000,000平方キロメートルに達しており(一片が30,000 kmの正方形)、しかも現在進行形で拡張されているのだ。
「どうやら現実らしいね」老人は気もそぞろだった。宇宙服付属の装置で誰かにメッセージを送っているらしい。「視力1、視角60秒ならぎりぎり見えるはずだ」
「桐谷さん?」
「いや、すまん。どうしても旧友に伝えたいことがあってね」
 8分のラグを挟み、桐谷は返信を受けた。メッセージは次の通りである。
〈お前さんのアクセント、確かに見えたぜ〉
 老人はヘルメットのなかで一人、微笑した。
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