第4話 それはてがらなのか手柄なのか

文字数 3,045文字

 ミステリー作家でもあり、児童向け小説や漫画のシナリオなども手掛ける多彩な作家葉真中顕(はまなか・あき)氏。
 葉真中氏と言えば日本ミステリー文学大賞の新人賞を受賞した作品「ロスト・ケア」で有名だが、今回は映像化もされているミステリーで、「絶叫」と言う作品についてのもうひとつの物語である。
 自宅で複数の飼い猫に食われた女性の死体が発見され、それはよくある孤独死と処理されそうになるが、主人公の奥貫綾乃(おくぬきあやの)と言う女刑事が或る違和感を抱く。
 果たしてそれは殺人事件だったのであるが、本編の内容については光文社から単行本が刊行されているのでそちらを参照されたい。
 映像化もされているが原作で読まれることをお勧めする。
 と、言うのも、ドラマでは小説での主人公である奥貫綾乃を小西真奈美が、遺体であり殺人事件にも絡んでくる鈴木陽子を尾野真千子が演じており、彼女がその演技力を遺憾なく発揮しどちらかと言うと鈴木陽子を主人公としているフシがあるからである。
 若干テイスト、と、言うか、切り口が微妙にズレている、と、言うか、ドラマは本編から派生した妹或いは弟、と、でも言うべきか。
 そのことはさておき他の作品同様、本作も原作が素晴らしい仕上がりであったことは小説お宅の私が保証する。
 殊にこの作品で打たれているフリガナは秀逸である。
 Q県に(こっち)、核家族に(ニューファミリー)、本庁には何と漢字で(警視庁)とフリガナが打たれている程の、正にフリガナ文学とでも言うべき様相を呈している。
 私自身この葉真中氏の打つフリガナが大好物で、この作品に限らずとにかく葉真中氏の打つフリガナと言うのは芸術的で、それこそそれ自体が文学そのもの、と、言えよう。
 殊に核家族を(ニューファミリー)とするあたり、私も本を持ったまま暫く動けずに痺れていたし、このフリガナこそが葉真中文学の真骨頂でその他の作品を読む際も、私ならずとも楽しみにしている人は少なくない筈である。
 ところが、ところが、で、ある・・・・・こともあろうか私の楽しみであるそのフリガナに今回問題が発生しているのである。
 しかも本作の冒頭で、だ。
 
「孤独氏は最終的には事件にならないから、犯人逮捕といった実績(てがら)にもならない」

 もうお分かりだと思うが、敢て実績に「てがら」、と、打つあたり一見警察機構内部での符牒ではないか、或いは警察を感じる実に文学的表現である、と、思った方は多数いらっしゃるかと思う。
         ‐11‐

 現に私もそうだ。
 つまり通常日本語で言う手柄(てがら)、と、言うのは、「人に褒められるような功績を上げること」、であり、「実際に高い成績を取ること」、と、言う意味である実績(じっせき)とは若干意味が異なる。
 しかし警察官の実績には二種類のものがあり、葉真中氏はそのフリガナに深い深い意味を籠めているのだ。
 たとえば泥棒や詐欺師或いは殺人犯に指名手配犯などを逮捕したり、軽犯罪であっても痴漢や盗撮と言った犯罪を未然に防いだりその犯人を逮捕したら、これは必ず万人がその警察官を褒め称えるであろう。
 現に警察の広報でも殊にそれが女性警察官の場合は、顔写真付きで大々的に世間に訴えている。
 またその際は「お手柄」と、自讃し、葉真中氏のようにそのことを「実績」などとは決して主張しない。
 ところがそれとは逆に交通違反である。
 車を運転する人で経験をしたごとがない人はないと思うが、たとえば交通違反で切符を切られた人は、自分を取り締まった警察官に罵声をこそ浴びせても褒めることなどは百パーセントない。
 もっと言えばその現場に居合わせた第三者であっても、その「実績」を上げた警察官を褒める人は皆無に等しい。
 つまりその場合は警察官に取っての「実績」にはなっても、手放しで「手柄」とは言えないことになる。
 と、すると、本作でも孤独死には加害者がいないので、交通違反の場合同様居合わせた警察官の「手柄」にはならない。
 その上もしもそれが孤独死であったなら、それは「実績」にもならない。
 しかしそれとは逆に鈴木陽子の死が殺人に拘わるものであれば、話はまったく違ってくる。
 何故ならその場に居合わせた警察官が犯人逮捕に到った場合、それは「実績」であると同時に万人が賞賛する「手柄」にもなる。
 畢竟このフリガナによって鈴木陽子の死が殺人事件に繋がるものだ、と、言うプロローグにもなっているのだ。
 何と素晴らしいフリガナなのか。
 否、これはもうフリガナではない。
 強いて言えば、「葉真なカナ(ハマナカナ)」、と、でも言うべきか。
 と、葉真中氏を気取ってはみたが、どうも私の場合は下世話だ。
 無論葉真中氏の作品にも普通のフリガナもある。
 たとえば鼾(いびき)とか、貶(おとし)めとか、だ。
         ‐12‐

 これ等の若干難解な漢字に打たれたフリガナは、これは私の想像に過ぎないのかもしれないが、編集者か校閲者が打ったもので葉真中氏自身が打ったものとは違うような気がするのだ。
 兎に角それ等普通のフリガナと区別する為賛否両論は有ろうが、葉真中氏自身が打ったと思われるフリガナについては、「葉真なカナ」と称すことにする。
 話を戻そう。
 その明らかに「葉真なカナ」である実績を(てがら)とした件であるが、私自身大絶賛しているのにも拘らず何が問題なのか。
 たとえば「実績」に漢字で「手柄」、と、して「葉真なカナ」を打って戴いていたのならまったく問題はなかったのである。
 何故なら「葉真なカナ」はフリガナにあってフリガナには非ず、即ちどう読んでもQ県は(こっち)とは読めないし、核家族は(ニューファミリー)とは読めないからである。
 つまり「葉真なカナ」は飽く迄も文学的表現であり、フリガナではない。
 否、「葉真なカナ」はフリガナであってはならないのである。
 たとえばそれはその作品を読み解くヒントであり、スパイスであり、作品になくてはならないものなのだ。
 従ってもう一度言うが「葉真なカナ」はフリガナではない。
 どう言うことかと言うと、「実績」には本来(じっせき)と言う正当な読みがあるのだから、平仮名で(てがら)とするとそれは漢字で言うところの「手柄」と言う文字のフリガナであって、誤字、誤植、の、対象になってしまうからである。
 つまりそこに「葉真なカナ」ではなく、編集者や校閲者が間違って打ったフリガナではないか、と、言う可能性が生じるのだ。
 それが「実績」の横に「手柄」と漢字で打てば、これは明らかにフリガナではない。
 つまり「葉真なカナ」、と、言うことになる。
 実に惜しい。
 仮にAIが最終校閲したら恐らく「てがら」から「じっせき」へ、と、味気ないフリガナに訂正していたのは明白だ。
 しかし漢字で「手柄」、と、打てば明らかに「葉真なカナ」である、と、AIも認識するのではないだろうか。
 今後は葉真中氏に於かれてもそれ等業務をAIが担うことも念頭に置いて、「葉真なカナ」を打って戴きたいものだ。
 と、偉そうなことを言いながらも、「葉真なカナ」を愛して止まない私であった。
 この「葉真なカナ」に対しての愛情表現でもある今回の私の「絶叫」が、葉真中氏に届くことを祈るばかりである。
         ‐13‐
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