第1話

文字数 3,439文字

 山に囲まれた特別養護老人ホームやまびこに何台もの車が入ってくる。しかも午前6時30分に、である。日の出の時間が4時台になるくらいの時期だが、梅雨明け前の空は厚くて黒い雲のせいか、まだ日が出ていないようにも思えた。この時間帯に入ってくる車の主は、そんな天気の影響を受けているからか、一様に眠そうな顔をしている。彼らは早番と言われる職員だ。

「おはようございます」
 一人の男が挨拶をしながら、喫煙スペースに入ってきた。喫煙スペースには、既に女性スタッフが一人タバコをふかしている。
「丹野君、おはよう。今日も早起きしたから眠いわ」
「そうっすね。これで俺、3日連続で早番っすよ。ヤバくないっすか?」
 丹野と呼ばれた男は頭を掻きながら、渋い顔で言った。話し相手の女性スタッフの年恰好は、大体40歳前後といったところか。いわゆるアラフォーというやつだ。
「それヤバいよ。次のシフト決める時に主任に言ってみたらいいじゃん。考慮してくれるかもよ」
「それ今村さんとこのフロアだから言えるんすよ。主任は聞く耳を持たないっていうか、人が少ないって理由で何でも押し通しちゃうからなぁ。困るんですよ」
 丹野は電子タバコを取り出して、器具に専用のタバコを付けて蒸し始めた。今村は吸っていたタバコを携帯灰皿に押し付けると、
「電子タバコってどうなの?」
 と聞いてきた。
「彼女にタバコ吸うのはダサいから、タバコ止めろって言われたんですよ。でも、急には無理だから、せめて電子タバコにしてくれって頼んで、プレゼントしてもらったんです。初めは違和感あったんだけど、吸い始めたら、慣れますよ」
 事もなげに話す丹野に、今村は野次馬根性を見せて、
「このやろう、惚気か?全く若い子はいいねぇ。あんたも早く結婚しなきゃ、彼女は待ってくれないよ。だけど、結婚も十年経ったら、いいことないよ〜。」
 と言い、彼の脇腹辺りを肘でつついた。惚気への懐かしみと嫉妬とが入り混じった複雑な表現だと丹野は感じた。
「ヤバい、もう行かなきゃ。それじゃあね」
 スマートフォンを見ると、職場に行かなければならない時間が迫っていた。今村は急ぎ足で、建物の中へ入っていった。続けて、丹野も電子タバコを消して、建物の中へと消えた。

 更衣室で制服に着替えた丹野は急いで2階フロアのひまわりユニットに入っていった。この特養はユニット方式を採っていて、1ユニット当たり最大10人が入居できるようになっている。ひまわりユニットにも定員である10人の入居者がいる。ユニットの食堂にはそのうち3人の老人が既に車椅子に乗った状態で着席していた。
「おはよう」
 と挨拶すると、2人は
「おはよう、よう来たな」
「おはようさん」
 などと返事をしてくれたが、もう1人は耳が遠いせいか、何事もなかったかのようにテレビを鑑賞している。丹野は耳元で
「おはよう」
 と先程よりも大きな声で言ってみた。すると、
「おはよう」
 と呻くような声で言ってきた。

 丹野は挨拶もそこそこにして、鞄をロッカー代わりとなっている食器棚にしまい、申し送りノートと書かれた大学ノートに目を通し始めた。そこには伝えておかなければならない、重要な情報が多く並べられている。すると、
「おはようございます」
 と背後から眠く疲れきった声がした。夜勤の児玉若菜がフラフラしながら、丹野の元にやってくる。
「もう、聞いてくださいよ。あの人また夜中に下痢したんですよー。何とか下剤を調整できないんですか?」
「うーん、でも下剤抜いちゃうとすぐに便秘になるからなぁ。また、看護師が来たら相談してみるよ」
 丹野はそう言って、若菜から寄せられた不満を受け流すように処理していく。そうでもしないといちいち受け止めていたら身が持たないからだ。真剣に不満を聞き入れて、潰れていった先輩を何人も見てきた。そうして、申し送りを済ませると、若菜は最後に
「起こせる人は皆、起こしちゃいましたから、今日は帰っていいですよね? お昼から約束があるんで」
 と言うと、そそくさと帰宅の準備をしている。鼻歌を歌いながら支度をしているということは、きっと遊びに行くのだろう。夜勤明けなのに遊びに行くなんて、若い子は元気だなあと、30代になった丹野は思わず感心してしまう。

「あっ、そうだ。青嶋さんに今日会いますよね?オムツ適当に巻かないでくださいって言っといてもらえます?」
「青嶋さん、またやらかしたの?」
「またって、前もそんなことがあったんですか?」
 若菜は驚くような、納得しているような微妙な表情を浮かべて言った。
「ああ、あの人仕事適当だからな。あんまり期待してはないんだけど、このところ、ちょっと酷いよ」
 丹野は「朝から人の陰口を叩くのは気分のいいものじゃない」と前置きしつつも、職場の雰囲気に飲まれて、ついつい愚痴が溢れてしまう。
「あの人、オムツも適当だし、介護記録も何書いてるか分かんないし、10年働いてるんだったら、もうちょい何とかなるだろうって感じですよ」
 畳み掛けるように、若菜は喋り倒す。彼女はその間にユニットのドアの前まで来ていた、ミッキーマウスの布製鞄を持って。
「わかった、青嶋さんに会ったら、言っておくよ」
「お願いですよ。じゃあ、お先です、お疲れさまでした」
そう言うと、若菜は後ろで括っていたゴムを外し、長い茶髪を(なび)かせて帰っていった。

 ここからは一人で入居者を起こしたり、朝食の準備をしたりしないといけない。幸いなことに、若菜が入居者のエプロンを置くなど、準備を色々としてくれたおかげで、残った仕事は少なかった。介護士が起こさなければならない入居者を起こし、自分で起きることができる人には声をかける。全員を食堂に集めると、ちょうど配膳車がやってきて朝食を配膳していく。それが終わると、自力で食事ができない人の介助を行う。丹野はリクライニング式車椅子に乗った入居者の後ろに回り、「頭上げますよ」と声をかけてから、リクライニングを上げる。
「葛西さん、おはよう。目は覚めた?お食事ですよ」
 と声をかけるが、葛西と呼ばれた男性は僅かに反応するだけだ。しかし、しっかりと目覚めている。
「お粥から食べようか?」
 そう丹野が言うと、葛西も頷いた。椅子に座ると、食事が始まった。ゆっくりと少量ではあるが、確実に食べ進めていく。少量ずつでないと、むせこんでしまうからだ。その間に食べ終える入居者もいるので、下膳を同時進行で行う。朝食後に薬を飲む必要のある人は薬箱に入っている薬袋を取り出し、水と共に飲んでもらう。
「はい、ごちそうさま」
 丹野は下膳の際に、そのように必ず入居者の前で言っている。それは一つのおまじないみたいなもので、その方が美味しく楽しく食事の時間を迎えることができると考えているからだ。いくら残していても、余程のことでない限りはそのことを(とが)めない。介護主任やその影響を受けている若菜などは完食主義で、食事を残していると何とか食べてもらおうとアプローチを試みている。それが終わると、各人に歯を磨くように声をかける。歯磨きができない人はうがいをしてもらったり、職員が入居者の義歯を外した後に、専用のブラシで口の中をきれいにするようにしたりしている。全てにおいて介助の必要な葛西も食べ終わった後は、口腔ケア用のブラシを使って、丹野が口の中に残っている食べカスを全て取り除いていく。

 朝のバタバタした時間が終わると、朝食の様子をカルテに記録していく。内容は食事量や食事の時の変わった事項などだ。書類は全て手書きが原則だが、以前丹野が勤めていた施設では、電子カルテを採用していた。パソコンに打ち込むことができれば、楽だと思う。だが、各ユニットにパソコンを導入するだけの資金の余裕がないというのが、もっぱらの噂だった。叶わぬことは考えない。諦めて現実を受け入れる。介護という業界に入って痛感し、会得した処世術だ。

「おはよう」
そう言って入ってきたのは、パートの中西君子だ。いつもなら、入居者に一通り挨拶してから、仕事を始めるところなのだが、来て早々に丹野の元にやってきたのだ。
「ねえ、大変!」
「おはよう、どうしたの?」
多少、慌て気味な君子を見て丹野は不安を覚えた。
「うちの施設長と派遣会社の人が言い争いになってて、派遣さんを引き上げるって言ってるんだけど!」
「ついにか…」
丹野には覚えがあった。君子は丹野の妙に腑に落ちたような様子を見て、首をかしげている。

つづく
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