巻き込まれる者

文字数 6,557文字

 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。

(旧約聖書『エレミヤ書』2章9節)

 愛花が1年全クラスの黒板に例の言葉を書いて回ってから、1週間後の3限目。聖書科の授業が始まる。クラスの生徒達は愛花の方を見てニヤニヤしている。1週間前の出来事は知らないらしく、聖書科教師の竹田芳也はリラックスした様子で授業を進める。
えー、前回まではキリスト教という宗教についてざっくり勉強しましたが、予告していた通り、今回から聖書について本格的に勉強していきます。
 キリスト教――パレスチナの地で生まれ、地中海周辺から世界の各地に広がった一神教。ユダヤ教を前身とし、ユダヤ教の聖典、『タナハ(ヘブライ語聖書)』を『旧約聖書』と呼び聖典の1つとして用いる。
皆さん、聖書はちゃんと持ってきてますね?この聖書を見てどう感じるでしょうか?
 ある者は聖書を手に取り、ある者は机の上に置かれた聖書を見つめる。教師の方ばかり見ていたり、授業そのものに興味を示さない者もいる。中には、愛華の方を見てにやにやと笑みを浮かべる者もいた。
早坂さん、どう思いますか?
分厚いなあって思います。
そうですね、聖書は分厚いですね。では、高橋君は?
えーっと、神聖な……書物?
2人ともありがとう。早坂さんは分厚い感じがすると答えてくれましたね。確かに聖書は分厚くて、いろんな物語が出てきます。天地創造から世界の終わりまでの物語がこの一冊に入っているので、これだけの分厚さになるわけですね。高橋君は、神聖な書物と答えてくれましたね。確かに聖書は、キリスト教の重要なテキストです。神が人間に書かせた間違いのない言葉だと信じられていた時代もありましたし、今でもそう信じている人もいます。現在は、聖書にはいろいろと矛盾点や、人の手による編集の痕跡があることが分かっているわけですが、それでも聖書は世界中の教会で大事な書物として扱われています。
愛華の方を見てクスクス笑う生徒が数名。
…………。
(サイッコラさんだっけ。めちゃくちゃ機嫌悪そうにしてるなあ……。何か貧乏ゆすりまで始めたし。)
今日から皆さんは聖書について勉強するわけですが、皆さんの中には、キリスト教の聖典を勉強するということで、プレッシャーや緊張を感じている人もいるかも知れません。でもその必要はありませんよ。私は、聖書程人間臭い書物はないと考えていますし、聖書は一字一句誤りのない言葉というものでもありません。例を挙げるなら、聖書の一番初めに出てくる旧約聖書の創世記。ちょっと開いてみてください。
(1章は、神様が世界を6日間で創造した物語が書かれているな……。で、2章は、神様が7日目に世界を造り終えて休憩している。安息日のお話だね。えっと4節からは……あれれ?神様がもう1回世界を造っている?)
(1章だと、神様は草木や獣を創造してから、最後に人間を創造している。でも、2章になると、神様が初めに人間を創造して、その後人間のために植物を創造している……。)
皆さん気づいたと思います。創世記では、世界が2回創造されているんです。このことから、この箇所では、2つの異なる文章を無理矢理くっつけたことが分かります。今はざっくりとだけ言いますが、前半部分のもとになった文書はP資料、後半部分のもとになった文書はJ資料と呼ばれており、それぞれ別の資料が存在していたとされています。さらに観察力のある人は、途中で神の呼び名が変わっていることにも気付いたと思います。
(これには気づかなかったなあ。前半は「神」とだけ呼んでるけど、後半だと「主なる神」になってるぞ。)
これもまた、この部分で異なる資料が使われた証拠です。
ここだけ見ても、聖書の人間臭さが十分表れています。箇所を編集した人は、2つの伝承を無理矢理1つの文章につなげ合わせたのです。矛盾する文章が共存しているのは、どちらも捨てがたかったから、苦渋の決断の上、両方残すことにしたのでしょう。
 何人かの生徒は、ニヤニヤして愛華を眺める。

 1週間前に愛花は『聖書は神の言』と豪語していたが、今日は聖書科の教師が『聖書は人間臭い』と言っているのである。その対比が、クラスの生徒にとってはおかしくてたまらなかったのだ。

他にも、聖書の中にはいろんな矛盾点や、創世記みたいな編集の痕跡があります。当分授業で出てきませんが、ヨブ記という書物も、2つの物語がくっつけられて1つの物語にされています。さらに、私たちは聖書を1冊の本として読んでいますが、いろんな時代のいろんな人が書いた書物をかき集めて、1つの正典としてまとめたものなんです。聖書の元となる資料がたくさんありますが、それらは全て写本として残されていたものです。昔は印刷技術なんてありませんから、当然人間の手で書き写すすることになります。そうすると、書き間違いや意図的な改ざんがたくさん行われることになります。こうして、同じ文書を元にした写本でありながら、それぞれ内容が違うということになるのです。現在使われている聖書は、ざっくり言うと、ビブリア・ヘブライカと呼ばれる旧約聖書の底本と、ネストレ・アーラントと呼ばれる新約聖書の底本を元にして翻訳していますが、これらの底本ですら何度も改訂されているんです。つまり、聖書の完全なる原典というのは、今でも復元されていないんです。これはちょっと難しい話ですね。あ、旧約聖書と新約聖書については、後から解説しますね。
(とりあえず、聖書は長い時間かかって受け継がれてきたものだから、少しずつ内容が変わってて、純粋な原典を辿ることができないってことだね。)
だから、聖書は誤りなき神の言葉というものでもなく、多くの人の手で受け継がれてきた、人の手による書物なんです。だから、神聖な書物だというイメージはあっても、畏まる必要はなくって、気軽に触れてみればいいんじゃないかって思います。
 それから、芳也は聖書の成立過程について語り始めた。旧約聖書と新約聖書の違い、旧約聖書と新約聖書の成立年代、そして成立背景など。教師は所々で、聖書には必ず編集者や記者の意図が含まれていることを強調した。その度に愛花はぴくりと肩を震わせ、周囲の生徒はそれを笑った。
(キリスト教って厳格な一神教っていうイメージあったけど、先生は聖書を「人間臭い書物」って何回も言ってるし、実際には違うのかもしれないなあ。入学したときは、牧師さんが聖書科の授業やるって聞いたから、「神」とか「真理」とかって真面目な話するのかと思ってたけど、キリスト教ってもっとゆるいものなのかも?)
(それに、この時代に神だと聖典だのって真剣に信じてる人なんてそうそういないし、牧師でも、宗教が人間の作り物だって認めるしかないのかも。この教室にはそうじゃない人が一人いるみたいだけど。)
 授業中、時折愛花が貧乏ゆすりをしたり肩を震わせたりしていたため、陽太は愛花が暴れ出すのではないかと不安な気持ちになったが、それも杞憂に終わり、授業は無事終了へと向かった。

 授業終了の挨拶が終わり、陽太は次の授業の準備を済ませ、静かにトイレへ向かった。

(トイレ!今の僕にとっては一番リラックスできる場所だ。1人でトイレにいても、「友達がいない」とか「クラスに溶け込めない」とか変な目で見られる心配はないし、最悪個室に隠れてやり過ごすこともできる。スクールカースト底辺でも頂点でも、一人でトイレにいるなら、誰もが「用を足しに来ている」っていう点で平等なんだ。トイレは大好きだ。心の中でこんなこと言ってて悲しくなってきた。つらい。)
(あ、そうだ。次は英語の小テストがあるから、早めに戻ろう。)
 陽太はトイレから出て廊下を渡り、教室へと向かう。

 教室の前にたどり着いた陽太の目に飛び込んだのは、竹田に議論を仕掛ける愛花の姿であった。陽太は英語の小テストに向けて勉強するつもりであったが、愛花があまりに情熱的に語るため、ついつい見入ってしまう。

だからー、福音主義信仰において聖書が誤りなき神の言葉だというのは、イエス様が完全に神であり人であるように、完全なる神の言葉でありながら、人間の言葉という2重の側面を持っているんです!自由主義神学<リベラル>の人が福音主義に対して偏見を持っているように、ファックスみたいに神様の言葉を聖書記者が受信してるっていう考えを採用してるんじゃないんです!聖霊様が聖書記者に働きかけて、聖書記者の個性を通して人間に語りかけたんです。また、言語霊感という考えについても、聖書の中で使用される聖書ヘブライ語やコイネーギリシア語で使われている、各単語や文節の文法上の意味や、細かい言葉のニュアンスについても聖霊様の導きがあるという考えであって、一語一句神様の言葉を機械的に書き写しているという考え方ではないんです。それに、自由主義神学<リベラル>を信じる人は、上っ面だけをとらえて、聖書には矛盾があるとか間違いもあるとか言うけど、聖霊様の導きを求めながら全体をよく読み込むなら、その一貫性は否定できないはずです。聖書の文書は、それぞれの聖書記者の個性を通して書かれながらも、聖霊様の導きによって守られているからこそ、誤りなき神の言葉なんです!!
(うわ……サイッコラさん先生に喧嘩売ってるよ……。ていうか話の内容難しすぎて全然わかんない!何かの学術用語?それとも宇宙語?)

つまり、聖書はそれぞれの記者が神様に導かれながら、自分の知性を使って書いたっていうことだよね?それじゃあサイッコラさんの言ってることって、僕の言ってることとあまり変わらないんじゃないかなあ?僕だって聖霊の働きは認めているよ?

いや自分の知性じゃなくって!自分の知恵に頼ることを止めて、完全に神様の知恵に依り頼んで神様との人格的な交わりの中に入っていくからこそ、聖霊様によって創りかえられ、神様の考えに従うことができるんです!聖霊様の働きっていうのは、単なる閃きだとかそういうレベルじゃなくって、人間の在り方そのものを創りかえる恵みなんです!っていうか先生はどのレベルで聖霊様の働きを信じているんですか?それは平均的な無宗教者が何となく『お天道様は見てる』って感じるレベルでですか?それとも、今まさに、現在進行形で、聖霊様が一緒にいてくださっているって、私たちの身体が聖霊様の住まわれる神殿なんだって信じてるっていうレベルですか?

(話の流れはよく分かんないけど、サイッコラさんは、『先生は信仰が足りない!』って思って怒ってるっていうこと?)
う~ん、僕は人の信仰の度合いを問うってどうかと思うんだけどね。福音派の人はよく「あなたは本当に信じてるんですか」って言ってくるけど。
私は福音派じゃありません!ペンテコステ派です!それに、信じて語ってるかどうかって大事じゃないですか?この世に媚びて安易に非キリスト教徒<ノンクリ>の価値観に合わせるのが伝道ってわけじゃないでしょう?ソロモンだって偶像崇拝に安易に迎合したから、神様の裁きを受けることになったわけで……。
(話してる内容は全然理解できないけど、よく大人相手に自信満々で反抗できるなあ。あの自信は羨ましいや……。僕なんて周りの目に怯えて生きてるっていうのに……。これが格差社会というやつか。)
論点ずれちゃいましたけど、とにかく、聖書がつくり話だなんて教えるなんて、キリスト教主義を掲げる学校として、どうなのかって話なんです!聖書は神様から人間へのラブレターなんですよ!?聖書に改ざんがあるとか意図的な編集の痕跡があるとか、Q資料<クヴェッレ>だのM資料<エム>だのP資料<プリースト>だのJ資料<ヤハウィスト>だの擬似パウロ書簡だの真正パウロ書簡だの、イザヤ書の記者は複数存在するとか、愛情のこもった手紙を手術台の上でメス使って切り刻むのが信仰者のやることですか!?クリスチャンの中には、史料批判や高等批評に基づいた仮説をさも事実であるかのように振り回して、『ちゃんと勉強すれば聖書が人の言葉であって、完璧な言葉でないと分かるはずだ』とか『これが事実なんだからちゃんと現実を見なさい』とか言う人もいるけど、"この世の知恵"で言うところの"客観的な事実"っていうのは、『この地域で発見された写本にはこう書いてある』っていう調査結果のレベルまでであって、『この写本とこの写本にはこう書いてあるから、これは後代に付け加えられた文章のはずだ』とか『この文書はパウロ本人が書いたものではない』とかっていうのは、調査結果をもとに考察してるわけでしょ?たとえ得られたデータは客観的なものであっても、人の知恵による考察はどこかに人の主観が入るわけであって、仮説を事実扱いして人に伝えることこそ、どうかと思いますけどね!というかそもそも、神様からの愛の言葉を批判的研究の対象にして、バラバラに解剖するのが一番解せないんですよ!
つまり、聖書は神からの愛の言葉であって、人の手で批判的に研究するものではないと……。擬似パウロとか第3イザヤまでは授業で話してないけど……詳しいんだねえ。なんでそこまで知って原理主義<ファンダメンタル>でいられるのか分からないけど。
とにかくウソは教えないでください!聖書は神様の言葉です!
サイッコラさんはいっぱい勉強してるんだろうなってのは分かったけど、生徒一人の立場に合わせて授業内容を変えるなんてできないよ?
生徒1人……じゃあ、生徒全員の意見を変えたら、聖書科の授業変えてもらえるんですね!
え。
聖書が真実だって皆に理解してもらったらいいんですね!

そして、嗣業学園の基督教教育を、曲学阿世の神学に基づいたカリキュラムから、信仰に基づいたカリキュラムに変えてもらいます!"嗣業リバイバル"の始まりです!

(なんて自信なんだ……。ていうかベテランの先生があれだけ聖書は人間臭い書物だって言ってたのに……。サイッコラさん迷いのない目してるし。2人の会話はよくわからないけど、サイッコラさん、名状しがたい狂信者って感じだ。宇宙的恐怖を感じる。あれか、正気度0の領域か。)
………………。
 陽太は愛花と目が合った。急いで視線を逸らそうとするが、手遅れである。
(やばい!見てたのがバレたかな……。)
あれ?君さっきからこっち見てた?
あ、うっ……ええと……。
もしかして今の話に興味あるとか?
え、うん。

(僕のアホおおおおおおおおおおお!!!何苦しい返事してるんだ!っていうかこんな受け答えしたら巻き込まれるじゃないか!圧倒的ファンブルだ!)

そうなんだ!君はどう思う?えっと、水野君だっけ。
ええと、話の内容はほとんど分からなくて……。

(あ、サイッコラさん名前覚えてくれてたんだ……。)

そっか、君はノンクリ?
のん……くり……?

(何かの専門用語かな?)

ノンクリっていうのは、クリスチャンじゃない人のこと。
うん、聖書とかの話、高校入ってから初めて聞いた。
そっか!うんうん!じゃあ私と一緒に聖書の勉強しよう!
え。
これから一緒に聖書について勉強しよう!絶対人生変わるから!
あ……うん。

(やばい。これは面倒なことに巻き込まれたかも知れない。ていうかこれって宗教勧誘だよね?『宗教に興味ありませんかー』とか『あなたは今救われていますかー』とか。あーもう、何でいきなりこうなるかなー。ずっとガン見してた僕が悪いんだろうけどさあ。嗚呼、因果応報か。)

どこから話そっかなー。やっぱり十字架の恵みからかな。
ははは……布教行為はほどほどにね……。
あ、もうすぐ次の授業始まるね。じゃあまた昼休み!
あ……うん。

(あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!布教ルート確定したあああああああああッッ……!!!!

あ、小テスト最後の追い込み忘れてた。)

 この日、陽太の陰鬱な日常は破壊され、それと引き換えに、波乱の学校生活へ引き込まれる羽目になったのであった。ちなみに英語の小テストは、そこそこ良い結果に終わった。
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登場人物紹介

サイッコラ愛花(さいっこら あいか)

嗣業学園高等学校の女子生徒であり、熱心なペンテコステ派キリスト教徒。

世間で言うところのキリスト教原理主義者<ファンダメンタリスト>であり、嗣業学園の聖書科の授業内容に反発する。

水野陽太(みずの ようた)

嗣業学園高等学校の男子生徒。

入学してからというものの、クラスには馴染めず、部活にも入れず、鬱々とした日々を送っている。ある日突然、愛華の「嗣業リバイバル」に巻き込まれてしまう。

友岡聡美(ともおか さとみ)

嗣業学園高等学校の女子生徒であり、会衆派に属するキリスト教徒。

愛華の行動はキリスト教のイメージダウンにつながると、愛花に反発する。

竹田芳也(たけだ よしや)

嗣業学園高等学校の聖書科教員であり、チャプレン。


白附幸音(しらつき ゆきね)

嗣業学園高等学校の女子生徒。教会に通っていたことがあるらしいが……?

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