第2話 悪魔姫の憂鬱

文字数 2,576文字

 悪魔界の夜は人間界の夜よりも濃い黒色だ。
 夜の闇に包まれたエレオノーラ・フォン・リッツェンシュタインの部屋は、落ち着いた雰囲気に包まれていた。淡いシェードランプに照らされた豪華なソファやベッドなどの調度品からは、リッツェンシュタイン家の財力と洗練された趣味が感じられる。
 領土拡大と製薬で築いた富の結果。祖父は高齢だが、今だエレオノーラの父の手綱を握り、権力の座にいる。そして父は事業拡大と大規模な人員削減で多くの敵を作っている。その豪奢さとは裏腹に、残念ながら家族内にも、見えない醜悪なパワーゲームが存在した。
 窓の外を見つめるノーラの表情は憂いに満ちていた。
 ノーラの金色のウェーブのかかった長い髪に、悪魔の証である山羊の角が生えている。アーモンドアイの瞳は普段は透き通った翡翠色だが、興奮して赤く輝き、口から覗く鋭い牙。その禍々しくも、目の離せない蠱惑的な風貌は、彼女が人間とは異なる存在であることを物語っている。
 窓ガラスに雨粒が跳ね、歪んだ木々の影が不気味に揺れる。まるでノーラの心の内を映し出すかのようだ。彼女はほおずえをついてため息をついた。
「わたしはどうするべき?いいえ、答えはわかっているわ。あとは行動するか、しないか。そのふたつには地上と宇宙ほどの距離があるけれどね」
 ノーラの脳裏には、先ほど交わした家族との口論が鮮明によみがえってくる。
 
 居間では、昼間からワインを開け、顔を赤くしたヴィルヘルム・フォン・リッツェンシュタイン、ノーラの父が怒号をあげていた。
「私の母も、お前の母さんも、そうしてこのリッツェンシュタイン家を守ってきたんだ。お前のわがままだけが通用はせんぞ!伯爵の結婚に、何の不満がある?どちらの家も幸福になれるんだぞ」
 ノーラは冷たく言い放った。「幸せになるのは御じい様では?おばあちゃんをこの家から体よく追い出したのも、御じい様に言われたからではないのですか」ノーラは呆れたとばかりに大きくため息をつき、「お父様にはご自分の口がありませんの?」と言った。
 ヴィルヘルムの手が鋭く振り下ろされ、ノーラの頬に強烈な平手打ちが食い込んだ。その瞬間、乾いた音が部屋に響き、ノーラの視界がわずかに揺れた。
「馬鹿者!」ヴィルヘルムも言葉が続かない。ノーラから目を逸らし、「……あれは昔の悪魔だ。今の世の中がわかっていないんだ」
 ノーラは頬を抑えながら、抵抗した。「自分の母親を愚弄するなんて!御じい様そっくりね。お父様、変わったわ。目の色変えて、お金、お金って。昔はそうじゃなかった」
 ノーラは吐き捨てるように言い放った。
 歳の近い弟のニコラウスは短髪の金髪をポマードで整え、背広にネクタイをして壁によりかかり、気障なポーズをとりながら口を挟んだ。(姉さんが引っ張たれて、すっとするよ)
「まあ、どうせ僕には世継ぎなんて回ってこないんだろう。御じい様が何を考えているのか、時々わからなくなるよ。僕の方が経営だって学んでいるし、人脈だってあるのに……」ニコラウスは葉巻を咥え、火をつけると深く吸い、煙を吐いた。
「だいたい、姉さんは何に不満なんだい、すべてを与えられているというのに」
「あなたまで。いいえ、なにも知らないのだから仕方ないわね。可哀そうなニコラウス……」ノーラは聞こえないように独り言ちた。「兎に角、嘘にまみれた家を守るために結婚なんて絶対イヤよ!」
 強がっているノーラだが、その瞳には涙がたまっている。
「そうか、それならもうリッツェンシュタイン家にはいられないぞ!」
 ヴィルヘルムの言葉は冷酷だった。
 妹のエミリーがノーラに駆け寄り、抱きついた。
「ノーラお姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」
ノーラはエミリーの目線に身をかがめ、優しく抱きしめた。
「ごめんなさいね。みんなでどなって。もうやめるわ」
 ノーラが無言で自室に向かった。後ろから「話しは終わってない」というヴィルヘルムの声が聞こえてきたが、無視をした。自室のドアを開けようとした時、名前が呼ばれた。
 アマリエが立っていた。彼女は彼女の目には深い影が宿り、まるで決意を固めたかのように娘を見つめていた。
「ノーラ……」アマリエは一気に彼女を捕まえ、強く抱きしめた。二人の間に、しばし沈黙が落ちる。母の温もりと微かな震えが、ノーラの体に伝わった。
「お母様……?」ノーラが戸惑いながら口を開こうとした瞬間、アマリエの声が静かに耳元で囁かれた。
「ノーラ、ごめんなさいね……。私にもっと力があれば、あなたをこんな結婚に追いやることなどなかったのに……」その声は無力感に苛まれていた。   
「私は……母親として、あなたを守りたいのに、どうすることもできないのが悔しいの……」ひどく掠れて声だが、深い愛情がそこにはあった。
 ノーラは何も言えず、心の中で母の言葉を受け止めた。そして、そっと彼女の腕を引き離すと、自室に閉じこもった。ノーラは扉を閉め、背中を付けると、廊下で母が静かに泣く声がする。ノーラは震える手をそっと頬に当てた。母のぬくもりがまだそこに残っているような気がした。

 部屋に戻ったノーラは、激しい感情に任せて牙を指に食い込ませていた。真紅の血が指先から滴り落ちる。
 そこへ、黒髪の長身メイド、ヘレーネが紅茶を用意して部屋に入ってきた。彼女は切れ長の目をしたクールな長身の女性で、古風なロングメイド服を身につけている。
「お茶の用意が……あら、血が出ています。」
「大丈夫よ。つい指をかむ癖が」
「いけません。黴菌が入っては大変です。」
 ヘレーネは吸血鬼だ。血には目がない。もちろんノーラの血なら、なおさらだ。彼女は優しくノーラの指を口元に運び、傷口を舐めた。ノーラも好きにさせておく。
「もうなにもかもこわしてしまいたい気分……」
 ノーラが独り言をもらすと、ヘレーネは真摯な表情で答えた。
「ノーラお嬢様が、あの汚らしい伯爵に抱かれるなんて、わたくし耐えられません。」
「やめてよ、想像してしまったじゃない」
「お嬢様の心の赴くままに。わたくしはついていきます。どうぞご命令を」
 へレーネは彼女の足元で首を垂れる。
「……わかった。その時はお願いするわ」
 ノーラは極上の香りの紅茶を飲みながら、今しがた空を横切ったハレー彗星を見つめた。その瞳には、強い決意の色が宿っていた。
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