同情するなら泣いてくれ
文字数 1,711文字
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことは無い。このことを信じるか」
マルタは「信じる」と答えたのだ。
と言う事を「信じる」と言ったマルタだが、マルタもマリアも兄弟ラザロの事で泣いてばかりいた。
わたしの言葉を信じていなかったのだ。
「わたしを信じる者は死んでも生きる」
という言葉を信じていたのなら、マルタもマリアもラザロの事で泣かなくても良かった筈だと思わないのか。
のちの世代の教会では、わたしが同情したから涙を流したとか、人のこころを察しているとか、実に人間的な教えばかり広めている。
この世的な人の事ではなく、父なる神の事を思いなさい。
わたしが涙を流したのは、マルタもマリアも一緒にいたユダヤ人たちも、わたしの言葉を信じていなかったからだ。
繰り返し、はっきり言っておく「私を信じる者は死んでも生きる」という言葉を信じていたのなら、ラザロの事で泣かなくても良かった筈だ。
「ユダヤ人たちは、ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか、と言った」
と記されている。
ユダヤ人たちはわたしが流した涙の意味を理解せず、のちのキリスト教会でも同様に理解していない。
いくらわたしが云っても、信仰を持たないで泣いてばかりいる、彼らの不信仰に憤り、不信仰に興奮し、不信仰に涙を流したのだ。
わたしは人間的なことでは泣かない。
マルタもマリアもユダヤ人たちも、また、私の十二使徒も、あまりにも不信仰だった。
わたしがいくら云っても信仰を持たないのだ。
彼らは聴くには聴くが、決して悟らず、心で理解していなかった。
それが、どうだ。のちの世代の教会では「不信仰を嘆いての涙を流した」とは教えず
「泣くものとともに泣いた」などと教えている始末だ。
わたしは2000年続く教会を見ていて、ますます憤り、興奮し、涙を流すことになってしまった。
そして、この世の終わりまで、あなたがたと共に居る。
父のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようだという、み言葉を読んだことが無いのか。