第4話 ジャック・H・ハリソン(Jack.Helio.Harrison)
文字数 3,652文字
ニューヨーク総合私立大学
Private University in the City of New York
物理学小講堂
Small Auditorium of Physics
総ての学生が退席した後の小さな講堂から、ピアノの音が聞こえてくる。軽やかなテンポの協奏曲、耳をすませば聴こえる程の音量でそれは、廊下にまで流れ出ていた。
男が黒板の前に立ち、曲のテンポに合わせ、円や放物線を描きながら軽快に数式を羅列して行く。彼の名はジャック ヒィーリィオゥ ハリソン 。ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教室の若き教授だ。
講堂の入り口から、黙って男の様子を眺めていた女が、楽章の変化につられ口を開く。
「ヴォルフガング アマデウス モーツァルト 。ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414」
「その通り。正解だ!」
男は黒板に向かったまま、女の声に振り向きもせずに応える。
「今、曲がゆったりとしたテンポに変わった。第2楽章 アンダンテの始まりね!」
女が再び口を開く。
「よく知っているじゃないか!? 君は音楽科の学生なのかな?」
男は話しながらも、黒板に向かい数式の羅列を止めようとはしない。
「モーツァルトは好きよ。だけど音楽の演奏はできない。音楽科の学生でもないわ。貴方に会いに来たのだから、航空宇宙物理学に興味があるのよ!」
女はよく透る声でそう話した。
「そう、君も航空宇宙物理学が好きなんだ。それじゃあ少し待っていて。今、閃いた事をすべて黒板に写し終えるまでの間、椅子に腰掛け、良ければそこのポットを使ってコーヒを飲んでいてくれてもかまわない」
会話はするが、女には振り向きさえしないジャックである。
数式に夢中なのだ。
「遠慮なく、そうさせていただく」
マギーはポットのお湯を注いでインスタントのコーヒーを作り、カップを片手に講堂の長椅子に腰を下ろした。
(あら。ブーツタイプのスニーカー、これいま手に入らないのよね。最新の流行じゃない。39歳と聞いていたけど意外と若いのね!)
マギーはジャックの後ろ姿を見詰め、更に品定めをするように観察を続ける。
数式の思考にエネルギーを使い熱を帯びるのか、ジャックは着ていた黒のコーデュロイジャケットを無造作に床に脱ぎ捨てる。
(ホリデーラインのシャツ、このブランドは知っている。しかもサイドシームの捻転が強調されたブーツカットのデニムなんか履いて。何なの貴方? ジャック ヒィーリィオゥ ハリソン でしょう!? 私、ダサい中年の大学教授だとばかり思い込んでいた。これじゃあ予定が狂うわね… もっとお洒落してくればよかった)
マギーは心の中でつぶやいた。
それでもマギーはこの予想外の出来事を、案外楽しんでもいた。
(ピアノ協奏曲の楽章が変わった。第3楽章 ロンドー:アレグレット)
厳粛な雰囲気のアンダンテとはがらりと変わって、明るく軽快なアレグレットの爽快な雰囲気に小講堂が包まれて行く。それに合わせるかのように、ジャックの手指の動きも更に軽快に動き始める。ジャックは大きな黒板の上に、所狭しと数式を書き並べて行く。
(そろそろ、完成ね)
魔女マギーはジェックの描く数式の完成を予感していた。
ヴォルフガング アマデウス モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414。3つの楽章が総て終わった時、ジャックの描く黒板の数式の羅列も又、総てが完了していた。
パンパンと音を打ち鳴らし手に付いたチョークの粉を振り払うジャック、そして少し後ろに下がると、満足げに自分の書いた黒板の数式を眺め続ける。
「ねえ、君。僕にも熱いコーヒーを入れてくれないか? 砂糖は一つ、この数式を生み出すのに、脳がスプーン一杯分の糖質を使用したからね」
ジャックはマギーの顔も見ないで、コヒーを作るお願いをする。
「好いわ。待ってて」
マギーはそう言うと、自分の使ったコーヒーカップに新しいインスタントコーヒーを作り直し、スプーン一杯分の砂糖を入れて、数式を見詰めるジャックに温かなカップを手渡した。
振り向きざまにコーヒーカップを受け取ったジャックは、嬉しそうにブラウンの液体を口にする、そしてはじめてマギーの横顔を見詰める。
「ありがとう。アクエリアス 」
ジャックにはそれが自然と言うように、しかしマギーにとっては唐突に、誰かの名前で彼女を呼んだ。
振り向いて黒板に背を向けたジャックは、瞬きをすることも忘れマギーの姿を見詰めている。そして彼女に近寄ると、今度は息をすることも忘れたかのように黙って、マギーの大きな瞳を覗き込んだ。そして遂には混乱して椅子に座り込んでしまう。
「アクエリアス!!」
ジャックは驚愕の表情で立ち上がると、再び誰かの名前を口に出した。
「何時帰ってきたの? いままで何処にいたの? 僕は君をずっと探していたんだよ!」
アクエリアスと呼び掛けたマギーに、ジャックは更に近付く。
ジャックは不思議な国に迷い込んだ少年のような表情をしている。
「貴方、ジャック ヒィーリィオゥ ハリソンでしょう!? 航空宇宙物理学教授の… ごめんなさい。残念だけど私は、貴方の知るアクエリアスじゃないの」
マギーのその言葉にジャックは我に返る。
「そうだとも… 君がアクエリアスである筈はないんだ。あれから、既に17年の年月が流れているのに、君はまるで歳をとらない」
「アクエリアスって22歳くらいの女性? 私より少しだけ若いわ」
「そうかな? だけど君はあの頃のアクエリアスにそっくりだ。僕の記憶が正しければだけど… 洋服のセンスや髪型、髪色はアクエリアスとはまるで異なる。話し方だって違う。けれど世界には驚く程似た人がいるんだね」
「そうなの!? 私、貴方の知る人に、そんなに好く似ていたのね!?」
「ごめん。君、名前は?不躾 な態度をとった僕を許してほしい」
ジャックは紳士的な振る舞いでマギーにお詫びをした。
「いいのよ。そのひとと私がよく似ているのね。でも私、貴方と会うのは今日が初めてよ。私はマギー、マギー デュナミス ロペス。ライズゴールドムーン コーポレーションから、貴方とビジネスの話をしに来た」
「やはり、君はアクエリアスではない!?」
ジャックは急に腕の力が抜けてしまい、だらりと、褐色の液体が注がれたコーヒーカップを床に落としてしまう。
慌てて清掃用のモップを取りにロッカーへと向かうジャックの行動を、マギーが制止する。
「いいわ私に任せて。貴方は数式に集中しすぎて脳が疲れているのよ。椅子に座ってゆっくり休んでいて」
優しいマギーの言葉に従い、ジャックは講堂に設置された長椅子に腰掛けた。
マギーが掃除具用ロッカーからモップを取り出し、床に零れたコーヒーを片付けている。ゴールドメッシュのパンプス。彼女の細く長い下肢にはぴったりとしたスキニー仕様のデニムが穿かれていた。
その姿を眺めながら、ジャックは嘗 ての記憶… 懐かしい恋人の事を思い出していた。
「大丈夫?」
割れずに転げたコーヒーカップをやさしく拾い上げたマギーが、ジャックに労りの声を掛ける。柔らかなエアリーニットの胸元にはゴールドのチェーン ネックレスでアクセントが付けられていた。
「うん、大丈夫だ。済まない。初対面の君に心配を掛けてしまって」
「いいのよ、そんな事は。私が誰に似ているの? 貴方の昔の大切な女性 ?」
「そのようだ…」
ジャックがマギーに、すまなそうな表情を見せる。
「いいのよ。それよりお腹が空かない?」
すっかり元気を無くしたジャック ヒィーリィオゥ ハリソンの隣に座り、ジャックの肩に寄り添うような仕草でマギーが尋ねる。
「良かったら一緒に食事でもどう? 私、今日昼食抜きだったから、お腹がすいてしまって…」
ジャックの隣で、マギーが頬を赤らめる。
「そう言えば、僕も今日は昼食を摂っていない。だからふらつくんだ!」
講堂に設置された長椅子に腰掛け、二人は顔を見合わせて笑った。
「私の行きつけの店で好い!?」
マギーはジャックに食事をする店の提案をする。
「ああ。君となら何処へでも行くよ。随分と待たせてしまったお詫びに、僕に御馳走をさせてくれないか? そこで君のビジネスの話も聞くことにしよう」
ジャックは講堂の隅に設置された水道の蛇口をひねって、手に付着したチョークの粉をきれいに洗い流している。
「いいのよ。御馳走はありがたいけど、ビジネスの話は今度にしましょう。今日は良かったら、私に似ている誰かの… 貴方の大切な想い出の話を私に聞かせてちょうだい」
「美人の隣で想い出に浸るのも悪くはない」
ハンカチを取り出し手を拭くジャックが、マギーにお道化 てみせる。
「それじゃあ行きましょう。ハンサムさん」
マギーは無造作に床に脱ぎ捨てられた黒のコーデュロイジャケットを拾い上げ、ジャックの肩にそれを着せると腕を組んで先に歩き出す。
静かになった大学の構内、二人は連れ立って物理学教室の小講堂を後にした。
Private University in the City of New York
物理学小講堂
Small Auditorium of Physics
総ての学生が退席した後の小さな講堂から、ピアノの音が聞こえてくる。軽やかなテンポの協奏曲、耳をすませば聴こえる程の音量でそれは、廊下にまで流れ出ていた。
男が黒板の前に立ち、曲のテンポに合わせ、円や放物線を描きながら軽快に数式を羅列して行く。彼の名は
講堂の入り口から、黙って男の様子を眺めていた女が、楽章の変化につられ口を開く。
「
「その通り。正解だ!」
男は黒板に向かったまま、女の声に振り向きもせずに応える。
「今、曲がゆったりとしたテンポに変わった。第2楽章 アンダンテの始まりね!」
女が再び口を開く。
「よく知っているじゃないか!? 君は音楽科の学生なのかな?」
男は話しながらも、黒板に向かい数式の羅列を止めようとはしない。
「モーツァルトは好きよ。だけど音楽の演奏はできない。音楽科の学生でもないわ。貴方に会いに来たのだから、航空宇宙物理学に興味があるのよ!」
女はよく透る声でそう話した。
「そう、君も航空宇宙物理学が好きなんだ。それじゃあ少し待っていて。今、閃いた事をすべて黒板に写し終えるまでの間、椅子に腰掛け、良ければそこのポットを使ってコーヒを飲んでいてくれてもかまわない」
会話はするが、女には振り向きさえしないジャックである。
数式に夢中なのだ。
「遠慮なく、そうさせていただく」
マギーはポットのお湯を注いでインスタントのコーヒーを作り、カップを片手に講堂の長椅子に腰を下ろした。
(あら。ブーツタイプのスニーカー、これいま手に入らないのよね。最新の流行じゃない。39歳と聞いていたけど意外と若いのね!)
マギーはジャックの後ろ姿を見詰め、更に品定めをするように観察を続ける。
数式の思考にエネルギーを使い熱を帯びるのか、ジャックは着ていた黒のコーデュロイジャケットを無造作に床に脱ぎ捨てる。
(ホリデーラインのシャツ、このブランドは知っている。しかもサイドシームの捻転が強調されたブーツカットのデニムなんか履いて。何なの貴方? ジャック ヒィーリィオゥ ハリソン でしょう!? 私、ダサい中年の大学教授だとばかり思い込んでいた。これじゃあ予定が狂うわね… もっとお洒落してくればよかった)
マギーは心の中でつぶやいた。
それでもマギーはこの予想外の出来事を、案外楽しんでもいた。
(ピアノ協奏曲の楽章が変わった。第3楽章 ロンドー:アレグレット)
厳粛な雰囲気のアンダンテとはがらりと変わって、明るく軽快なアレグレットの爽快な雰囲気に小講堂が包まれて行く。それに合わせるかのように、ジャックの手指の動きも更に軽快に動き始める。ジャックは大きな黒板の上に、所狭しと数式を書き並べて行く。
(そろそろ、完成ね)
魔女マギーはジェックの描く数式の完成を予感していた。
ヴォルフガング アマデウス モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414。3つの楽章が総て終わった時、ジャックの描く黒板の数式の羅列も又、総てが完了していた。
パンパンと音を打ち鳴らし手に付いたチョークの粉を振り払うジャック、そして少し後ろに下がると、満足げに自分の書いた黒板の数式を眺め続ける。
「ねえ、君。僕にも熱いコーヒーを入れてくれないか? 砂糖は一つ、この数式を生み出すのに、脳がスプーン一杯分の糖質を使用したからね」
ジャックはマギーの顔も見ないで、コヒーを作るお願いをする。
「好いわ。待ってて」
マギーはそう言うと、自分の使ったコーヒーカップに新しいインスタントコーヒーを作り直し、スプーン一杯分の砂糖を入れて、数式を見詰めるジャックに温かなカップを手渡した。
振り向きざまにコーヒーカップを受け取ったジャックは、嬉しそうにブラウンの液体を口にする、そしてはじめてマギーの横顔を見詰める。
「ありがとう。
ジャックにはそれが自然と言うように、しかしマギーにとっては唐突に、誰かの名前で彼女を呼んだ。
振り向いて黒板に背を向けたジャックは、瞬きをすることも忘れマギーの姿を見詰めている。そして彼女に近寄ると、今度は息をすることも忘れたかのように黙って、マギーの大きな瞳を覗き込んだ。そして遂には混乱して椅子に座り込んでしまう。
「アクエリアス!!」
ジャックは驚愕の表情で立ち上がると、再び誰かの名前を口に出した。
「何時帰ってきたの? いままで何処にいたの? 僕は君をずっと探していたんだよ!」
アクエリアスと呼び掛けたマギーに、ジャックは更に近付く。
ジャックは不思議な国に迷い込んだ少年のような表情をしている。
「貴方、ジャック ヒィーリィオゥ ハリソンでしょう!? 航空宇宙物理学教授の… ごめんなさい。残念だけど私は、貴方の知るアクエリアスじゃないの」
マギーのその言葉にジャックは我に返る。
「そうだとも… 君がアクエリアスである筈はないんだ。あれから、既に17年の年月が流れているのに、君はまるで歳をとらない」
「アクエリアスって22歳くらいの女性? 私より少しだけ若いわ」
「そうかな? だけど君はあの頃のアクエリアスにそっくりだ。僕の記憶が正しければだけど… 洋服のセンスや髪型、髪色はアクエリアスとはまるで異なる。話し方だって違う。けれど世界には驚く程似た人がいるんだね」
「そうなの!? 私、貴方の知る人に、そんなに好く似ていたのね!?」
「ごめん。君、名前は?
ジャックは紳士的な振る舞いでマギーにお詫びをした。
「いいのよ。そのひとと私がよく似ているのね。でも私、貴方と会うのは今日が初めてよ。私はマギー、マギー デュナミス ロペス。ライズゴールドムーン コーポレーションから、貴方とビジネスの話をしに来た」
「やはり、君はアクエリアスではない!?」
ジャックは急に腕の力が抜けてしまい、だらりと、褐色の液体が注がれたコーヒーカップを床に落としてしまう。
慌てて清掃用のモップを取りにロッカーへと向かうジャックの行動を、マギーが制止する。
「いいわ私に任せて。貴方は数式に集中しすぎて脳が疲れているのよ。椅子に座ってゆっくり休んでいて」
優しいマギーの言葉に従い、ジャックは講堂に設置された長椅子に腰掛けた。
マギーが掃除具用ロッカーからモップを取り出し、床に零れたコーヒーを片付けている。ゴールドメッシュのパンプス。彼女の細く長い下肢にはぴったりとしたスキニー仕様のデニムが穿かれていた。
その姿を眺めながら、ジャックは
「大丈夫?」
割れずに転げたコーヒーカップをやさしく拾い上げたマギーが、ジャックに労りの声を掛ける。柔らかなエアリーニットの胸元にはゴールドのチェーン ネックレスでアクセントが付けられていた。
「うん、大丈夫だ。済まない。初対面の君に心配を掛けてしまって」
「いいのよ、そんな事は。私が誰に似ているの? 貴方の昔の大切な
「そのようだ…」
ジャックがマギーに、すまなそうな表情を見せる。
「いいのよ。それよりお腹が空かない?」
すっかり元気を無くしたジャック ヒィーリィオゥ ハリソンの隣に座り、ジャックの肩に寄り添うような仕草でマギーが尋ねる。
「良かったら一緒に食事でもどう? 私、今日昼食抜きだったから、お腹がすいてしまって…」
ジャックの隣で、マギーが頬を赤らめる。
「そう言えば、僕も今日は昼食を摂っていない。だからふらつくんだ!」
講堂に設置された長椅子に腰掛け、二人は顔を見合わせて笑った。
「私の行きつけの店で好い!?」
マギーはジャックに食事をする店の提案をする。
「ああ。君となら何処へでも行くよ。随分と待たせてしまったお詫びに、僕に御馳走をさせてくれないか? そこで君のビジネスの話も聞くことにしよう」
ジャックは講堂の隅に設置された水道の蛇口をひねって、手に付着したチョークの粉をきれいに洗い流している。
「いいのよ。御馳走はありがたいけど、ビジネスの話は今度にしましょう。今日は良かったら、私に似ている誰かの… 貴方の大切な想い出の話を私に聞かせてちょうだい」
「美人の隣で想い出に浸るのも悪くはない」
ハンカチを取り出し手を拭くジャックが、マギーにお
「それじゃあ行きましょう。ハンサムさん」
マギーは無造作に床に脱ぎ捨てられた黒のコーデュロイジャケットを拾い上げ、ジャックの肩にそれを着せると腕を組んで先に歩き出す。
静かになった大学の構内、二人は連れ立って物理学教室の小講堂を後にした。