宮間 澄人

文字数 4,025文字

 なんとなくまっすぐ家に帰るのを避けたかったのかもしれない。あまり意識せずに人のいない方へ、人のいない方へと歩いていたらこの扉を見つけた。珈琲と看板が出ているから珈琲の店だろう。空港に降りたときには涼しいと感じたけれど、さすがにこれだけ歩くと汗だくだ。暑さをしのげるところで一休みしたいと思ったら丁度ここに店があった。歩いて来るのにちょうどいい距離感なのかもしれない。でも冬場はどうするのだろう。雪が降ってしまえばもう歩いては来られない気がする。

 オレは重厚な扉に両手をかけて押した。外の日差しが強いせいで室内に目が慣れるまでよく見えなかった。「いらっしゃいませ」と言って奥のほうから女の子がやってくる。女の子だというのは声で判断した。姿はよく見えない。すぐ目の前までやってきてやっと顔が見えた。「カウンターになさいますか?」と言われてオレは「はい」と答えた。彼女はオレを導いてカウンターの一番奥まで進んでいった。「ありがとう」と言うと少し首を傾けて微笑んだ。

 スタジオ盤の「ブライト・サイズ・ライフ」がかかっていた。パット・メセニーだ。流れている曲は「アンクイティ・ロード」だ。だいぶ前に、よく聴いていたアルバムだった。オレは舌の上でメセニーのフレーズを転がしながらメニューを開いて眺めた。なにか甘いものが飲みたいな。珍しくそんな気がした。ベースのせいかな。ジャコの演奏を聴くとチョコレートが食べたくなる。オレだけかな。オレはさっきの女の子の方を見た。オレの様子をうかがっていた目がオレの視線を捉えて、彼女は近くへやってきた。オレは「ハニーラテ」を頼んだ。アイスかホットかと聞かれてアイスと答えた。暑い日に熱いラーメンは食べたいと思うのに、熱いコーヒーはあまり飲みたいと思わない。オレにはそれが不思議なことのようにも思えたし、ごく当たり前のような気もした。

 流れている「ブライト・サイズ・ライフ」はオレを過去に呼び戻すために鳴っているようだった。このアルバムを聴くと、これをよく聴いていたころのことが思い出される。まだ自分の中で過去にできていない、あのころのことが。

 カウンターの上に雑誌が置いてあった。まさにあのころ、よく読んでいたジャズの雑誌だ。オレは今日ここになにか不思議な力で導かれてきたのかな。オレを迎えるために用意されていたような音楽と雑誌。ここにハニーラテをひとしずく垂らせばあのころにひとっとび、なんて。オレはセンチメンタルに浸りたがるオレを鼻で笑い飛ばして雑誌を手に取った。カウンターの上に開いてパラパラとめくってみる。すっかり老練といった風格のジョン・スコフィールドが載っていた。あのころよくコピーしたことを思い出す。
「おまたせいたしました」と言ってさっきの女の子がハニーラテを持ってきた。オレはその甘いラテを飲んでみる。少しだけ、あのころにひとっとびするメルヘンを期待した。もちろんそんな魔法は起こらない。時間はもう、戻ることはないんだ。ほの甘いラテを飲みながら雑誌をめくり、流れてくる音楽に耳を傾けた。曲は「ラウンド・トリップ」になっていた。目を閉じれば、いまにも魔法が起こるような気がした。

 オレに足りなかったのはなんだったのかなと、今でもときどき考える。

 無責任な成功者たちは、諦めなければ夢は叶うみたいなことを言う。でも裏を返せば、叶わなかったらそれはおまえが諦めたからだ、ってことだ。頑張れば実る。実らなければそれは頑張りが足りなかったんだ。オレはたぶん、これ以上は無理だと思う限界まで頑張ったと思う。昼間アルバイトをして夜から明け方まで練習した。あちこちのセッションにも顔を出した。オーディションもいくつも受けた。寝る間も惜しんで頑張ったんだ。それでも足りなかったというのか。足りなかったのは本当に頑張りなのか。オレがそんなことを言えば、それは頑張り方が悪いとか言われるんだ。ほんとは成功者と同じ方法でやったって成功できるわけじゃない。そんなことは誰でもわかってる。それなのに成功者は迂闊にもみんなもやればできるみたいなことを言う。それはぜんぶ、やってできてたどりついたやつの言葉なんだ。オレがこの十年やってきたことは結局、なんの結果も生まなかった。オレはなにもかも捨ててこの町を出たのに。きっと捨てちゃいけなかったものも、みんな捨てて。

 オレは十年前のあの日から一歩も進まないまま、年だけきっちり十も食って帰ってきた。誰にも会わせる顔なんかない。これが頑張れば叶うという言葉の果てにある現実なんだ。その言葉を信じて頑張ったあげく、なににもなれなかった者の未来なんだ。そんなこと覚悟の上で挑戦したんだろう。自業自得だ。その通りだよ。やらない後悔よりやった後悔だって。そんな言葉をやって後悔してるやつ以外が口にするんじゃない。ただただ、甘かったんだという現実だけが残るんだ。野放図な美徳に振り回されるとただ嘲笑われるだけの未来が待っているんだ。

 幻想なのさなにもかも。世に出てくるのは成功したやつの言葉ばかりなんだ。そいつらと同じぐらい戦って散ってったやつの言葉なんか誰も聞こうとしない。諦めなければ叶うってのは叶ったやつの言葉でしかない。あるとき、あいつはいつまでも夢見ている、はやく現実を見ろと言われるようになる。そういう話は世に出ない。誰もそんな夢のない話を聞きたくないからだ。だけど世の中はそういう夢のない結果になったやつでいっぱいなんだ。

 ジョン・スコフィールドの写真を見ながらラテを飲み続ける。あのころあこがれた音楽が流れていて、あのころあこがれたギタリストの写真がある。オレにはなにも残っていない。この町で夢を語り合った仲間たちは今どうしているだろう。あのとき別の道を進んだ仲間たちは。

 綾香。オレが夢のために町を出ると言ったとき、待っていると言った綾香。綾香はいまどうしているのだろう。あれから一度も連絡を取っていない。あの時のオレは、待つと言った綾香に待たなくていいと言うことがやさしさだと思っていた。あの時はほんとうに、彼女を縛らないことがオレにできる精一杯のやさしさだと思ったんだ。でもそんなもの、オレのエゴでしかなかった。オレはただ、自分が辛くても彼女を縛らないという勝手な自己犠牲に酔っていただけだし、そうすることで自分を追い込んでいるつもりだった。綾香は幸せでいるだろうか。
「曲は売れてる」という女性の声が「あのころ」からオレを呼び戻した。背後のテーブル席にいる客が音楽の話をしている。こういうパブリックなところでも音楽の話が聞こえてくるとついつい耳が言葉を追ってしまう。
「曲はどんなのやってるの?」と男性が聞いた。
「そりゃ、アイドルっぽいやつだよ。ポップっていうの? だいたい片思いか背中押す系の歌詞」
 女性が答える。後ろの席にいる女性はアイドルなのか。オレは振り返ってみたくなるのをこらえた。
「じゃ曲は書いてくれるやつがいるわけか」
「いるいる。ふだんボカロっていうの? あのパソコンで歌ってくれるやつ」
 そう。今アイドルへの楽曲提供はボカロ曲を配信しているような作家によることが多い。
「ああいうのでやってる人が書いてくれてる。ここの出身の人」
 ここの出身? オレは緊張した。
「ほんとに? ここの出身で作曲家なんているの?」
「いるんだよ。ロメオって人」
 オレだけ時間の流れから切り離されたみたいに、なにも聞こえなくなった。ロメオ。Ro-meo。西島(にしじま) 露明(つゆあき)。あのころ一緒に演奏していたピアニストだ。ブライト・サイズ・ライフも一緒に演奏したことがあるし、トム・コスタ―のソロワークやバイタル・インフォメーションってバンドの曲も一緒にやった。盟友と言える仲間だった。おやじが車好きで、アルファ・ロメオからとって露明(ろめお)って名付けられたと言っていた。でも「明」を「めお」って読むのには無理があるんじゃないかと言って、字はそのままに「つゆあき」になったのだと。ロメオはその鉄板自己紹介でどこへ行ってもすぐに覚えられた。たしか同じような車の名前の妹がいた。

 オレが東京へ出ることにしたとき、ロメオはこの町に残ると言った。自分には自信が無いからと。自分は東京でやってけるタマじゃないよと笑って、オレに頑張れと言った。そうか。ロメオはボカロに行ってアイドルに曲を書いているのか。

 それは成功と言えるような状態ではないかもしれない。でも音楽を続けられている。オレのような場所から見れば十分結果を出していると言えた。オレはあのとき、諦めずに挑戦するオレと諦めたロメオという風にロメオのことを見ていた。でも今はどうだ。諦めたのはオレで、前進しているのはロメオのほうだ。そうか。これが、諦めなければ叶うということの正体なのか。オレには自分が本当に救いようのないカスのように見えてきた。

 もう店の中に流れている曲も聞こえなかった。この情けない燃え殻みたいな自分を今すぐ灰にしてしまいたかった。行き場がなくなってこの町へ帰ってきたけれど、ここにもオレの帰る場所なんかなかった。あのころ大切に思っていた人たち、ロメオや綾香に会わせる顔などなかった。そう思ったらこんなところでのんきにラテなんか飲んでいることさえ、恥をさらしているような気がしてきた。

 オレは残っているラテを飲み干した。釣りのないように代金を用意してグラスのそばに置いた。もうあの店員と会計のやり取りをすることもまともにできる気がしなかった。今すぐここから逃げ出したかった。

 立ち上がって店を出ようとすると、背中に「ありがとうございました」という店員の声が届いた。たのむからオレに礼を言わないでくれ。オレにはそんな資格などないんだ。オレは重いドアをひっぱった。ドアの向こうでは世界中の厳しさをかき集めたみたいなまぶしさがオレを焼き尽くすべく待ち構えていた。
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