第37話 赤野と久住。

文字数 4,033文字

 「先生、映画、観れて良かったわね。さ、帰りましょうか。」
 
 ホテルのエントランスで、その見覚えがある女性の横顔は、そう老人に声を掛けていた。
 
 奈美たちは、記憶を辿り、ある同じ女性をイメージしていた。
 
 「だよね。」
 
 「うん、間違いない。」
 
 奈美たちは、そのイメージを頭の中で巡らせながら、その女性の元へ駆けだした。
 
 そして、車いすに対面するようにしゃがんでいる女性の背後に立ち止まりまり、奈美は、息を整え、静かに声を掛けた。
 
 「すみません。失礼ですが…。あなたは、もしかして、赤野さん…ですか?私、水口奈美です。覚えてますか?」
 
 「私も…、安藤博美です。」
 
 その声に、女性は慌てる様子もなく、ゆっくりと立ち上がり、深々と一礼をした。
 
 「お久しぶりです。赤野です。」
 
 奈美たちと同年代と思われる赤野は、あの時とはほとんど変わらない容姿で立っていた。
 
 当時の疲労感は消え、肌つやも良く、むしろ、年齢より若く感じた。
 
 
 「やっぱり。そうでしたか。あまり、お変わりになられていないので、多分、そうではないかと。すると、この方は…。」
 
 「えぇ、なんていうか…。」
 
 赤野の言葉を待てずに、博美が聞いた。
 
 「久住先生…ですよね。」
 
 「あ、いいえ、あの、違うんです。この方、久住先生ではありません。」
 
 
 「そんな…。どう見ても、久住先生にしか見えないですよ。」
 
 博美は、久住の顔を覗き込んだ。
 
 久住は、ニコッと笑みを浮かべ、博美の髪を撫でてきた。
 
 「やだ、びっくりしたぁ。でも、やっぱり…久住先生じゃないのかな…。」
 
 博美は、久住の触れた髪を触りながら、首をかしげた。
 
 「あ、あの、ラウンジで待ってて下さい。お話…しますから。」
 
 赤野は、久住へのこれ以上の接近を避けるかように、博美に声をかけた。
 
 
 そして、ラウンジに向かう奈美たちを確認してから、車いすを押していた女性とその老人に、先に帰るように声をかけ、ラウンジに戻った奈美と博美のテーブルについた。
 
 奈美は、車いすに乗った老人の姿を目で追いながら、赤野に問いかけた。
 
 「あの時、先生が運ばれる時、事務的というか、素っ気ないというか、その違和感は何なのか、ずっと疑問に思ってました。あなた方は、これまでの信頼関係があっての事かもしれないけど、罪を犯した久住を、責めることもせず、何か尊敬の念というか、悪くは言ってなかったですよね。だから、あの時、変に落ち着いて、とても尊敬していた人が亡くなったと対応とは思えませんでした。今、思うと、そのことが、私たちが感じた違和感だったのだと思います。それに顔に白い布で覆われてたから、先生の亡くなったの見ていない。だから、あの老人を見て、もしかして、久住先生が生きていたと思ったんです。亡くなっていないから、悲しむ事もなく淡々としてた。でも、あの老人は、久住先生ではない?だとしたら、あの方、久住先生と何か関係あります?よく似てるし、赤野さんが、一緒にいるなんて、無関係とは思えない。さっきも、赤野さん、言いにくそうでしたし。」
 
 苦い表情を浮かべた赤野は、伏し目がちに、その経緯を話し始めた。
 
 「奈美さんには、敵わないわね。久住先生は…、実は、あの時、まだ息がありました。危ない状況ではありましたが。私たちは、助けたかったんです。」
 
 「えっ、私たち?」
 
 「浜本賢先生と、慎さんもです。」
 
 「じゃ、あの時に私たちが研究所で見た、あの白い布の下の久住先生は、実は亡くなっていなかったという事ですか?」
 
 「そうです。」
 
 「何故なんです?別に生きてたことを隠す必要はなかったんではないのですか?」
 
 「亡くなったことにすれば奈美さんたちの気持ちも、収まると言うか、一区切り出来るんではないかと。それに、当たり前ですけど、あのまま生きていれば罪が公になります。」
 
 「そうですよね。でも、それをしなかった。逃がしたんですよね。わいせつ罪、ひき逃げに、遺体遺棄、窃盗、余罪もありそうだけどね。時効成立していることがほとんどでしょうけど。それでも、あんなに元気なら、罪のすべてを認めて、謝罪することもできたはず。」
 
 「そうですね。でも…。」
 
 「でもって、あの人の罪を隠蔽する理由なんてあるの?何?国家機密でもあるまいし。」
 
 「…。」
 
 「言って欲しい。私の父親だけど、何の感情もないから。気を遣ってるなら、気にしないで。生きているとわかった以上、それを事を隠した意味を知りたいの。」
 
 奈美は、赤野のハッキリしない態度に、多少の苛つきはあったが、若い頃の攻撃的な高まりはなく、冷静な落ち着いた口調で問いかけた。
 
 「あなたに気を遣ったわけではないの。分かったわ。ちょっと、長くなるけど、いいですか?」
 
 
 「いいわ。話して。」
 
 「久住先生と初めて知り合ったのは、私が15歳だった。強姦されて妊娠してしまったのよ。」
 
 その赤野の言葉は、衝撃の告白から始まった。
 
 「産婦人科なんて行った事なんてないし、行く勇気もなかった。親にも言えない。思い切って、友達に相談したら、富山の産婦人科が良いって紹介されて。その子に、電車賃だけ、お金貸してもらって、久住産婦人科で中絶したことがあったの。そう、久住先生よ。私ね、先生に救われたの。先生は、『お金は要らないって。どんなに望まれない子どもであっても、一つの命だから、それを忘れなようにねって。この子の分もちゃんと生きてくれればそれでいい』って。」
 
 「そんなことが…。それにしても、久住と救急搬送時よりも前に、知り合いだったなんて、驚いたわ。」
 
 奈美は、深いため息をついた。
 
 「そうなんです。でも、救急搬送の時は、本当に偶然でした。」
 
 赤野は、久住の言葉を続けた。
 
 『君の子のように、この世に出れない命もたくさんある。正当な理由に基づいて、拍動している命を、この手で絶つ処置を、この手で、自分が施すんだ。この辛さは何回やっても慣れるものではない。君にとっては、理不尽な結果なのかもしれないが、短い間でも、自分の中に宿った命を忘れないで欲しい。それが、この子に対する供養になると思うよ。そう思ってくれることで、私も少しは救われる。』」
 
 「それで、もし、今、私がこの子を産んだら、どうなるんだろうって、私、先生に聞いたの。そしたら、こんなこと話してくれたわ。」
 
 『こんな事もあった。彼女は20歳くらいだったかな。憎んでいる男の子供を妊娠して、堕ろせないかと、親御さんと相談に来たことがあった。しかし、もう堕胎できない時期だったんだ。その子はね、産まれた子を愛せる自信がない。産まれた子を見たら、自分はこの子に何をするか分からないって。彼女の様相からも、そんな危機感が伝わった。普通は、お腹が大きくなるにつれ、母性が芽生えてくるもんだが、その子は、お腹の子に、相手への憎しみを同化させていたよ。だから、出産後は、すぐ赤ん坊を離して、結局は養子にもらわれてったんだが、その子のこれからの人生の幸せを祈るしかなかった。だから、君がこの子を産んだとしても、母親としてやっていけるか。相当な覚悟が無ければ、共倒れになるだけだ。』
 
 「私は、この言葉を聞いてハッとしたわ。確かに、性暴力で受けた結果の子なんて、この子も不幸だし、早くお腹の中から消したかった。でも、先生の言葉を聞いた時、涙が止まらなかった。初めて母性というのを感じたわ。初めは、被害者としての辛さばかりで、悔しくて、悲しくて。でも、お腹の子は何の罪もない。そんな自分の子供を殺さなければならない母親としての罪の深さに気付かされたの。先生の辛さも。久住先生は、命と向き合うことの大切さを、教えてくれたの。これから、中絶という忌まわしい過去を背負って、どう生きていいか分からなかった私の中に、スッと落ちたというか、心が決まったと言うか。迷ってフワフワと彷徨っていたものが、カチッとはまった感じだったわ。不謹慎かもしれないけど、前向きになった。でも、先生が、いろいろと悪さをしていることも聞いたわ。こんな、命の大切さを教えてくれた先生が、そんな悪いことをするはずが無いって。」
 
 「でも、先生は、自分から話したことなのよ。他に誰がいたっていうのよ。」
 
 一人の影が、奈美たちの視界に入った。
 
 「奈美さん、それは、私から話します。」
 
 「あ、マスター。いえ、浜本 慎さん…でしたね。」
 
 浜本慎は、十五年前より、白髪としわが増えたくらいで、あの時のマスターと変わりない、シュッとした立ち姿で、奈美たちの前に現れた。
 
 慎は、隣のソファを引き寄せ、一礼をし、奈美たちと向かうように、身を沈めた。
 
 「覚えていてくれて、嬉しいです。映画、良かったですよ。おめでとうございます。
 お二人ともお元気そうで。それでは、あの映画の続きになりますね。お話しましょう。」
 
 博美は、いつかの違和感のある笑みを浮かべたマスターを思い出していた。
 
 「あなた方には、真実をお話しますね。」
 
 自分への、不安そうな視線の赤野に気付いた慎は言った。
 
 「赤野さん、もう、隠せないよ。奈美さんたちには隠せない。話せば話すほど、辻褄をあわせる自信は自分にはないよ。」
 
 赤野は、無言で目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
 
 慎は、ジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
 
 「紙の写真なんて珍しいわね。久住先生?」
 
 「久住先生の弟だよ。似てるだろ。楠 健次郎だ。」
 
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