ディラックの海

文字数 1,159文字

「神さま、『ディラックの海』って何ですか?」

「いつも聞いてることだが、お前そんな言葉どこで覚えたの?」

「いや、エヴァに出てきてたんで」

「やっぱりアニメなのね。アニメ見るのが悪いとは言わんが、てめえはせめて働けよな?」

「たはは……」

「まあいいや、ディラックの海な。前のシュレ猫と同じくたとえた言葉で、『無』っていう状態は存在しなくて、それは物質と反物質が相殺しあっていて、あたかも何もないように見えるって話な」

「なんだか哲学的ですね。物理の用語だと思ったのに」

「まあ、量子力学自体が哲学的ってのは大きいかもな。とにかく、ことの発端は、イギリス・ブリストル生まれの物理学者ポール・ディラックが、プラスの電荷を持つ電子、便宜上『陽電子』と名づけられたが、これを発見したところからだ」

「電子って、マイナスだからってことですか?」

「珍しくものわかりがいいじゃん」

「一応、理系なんで」

「Fランのくせに」

「……」

「まあいい。とにかく天才ディラックは、方程式をいじる過程で、この陽電子の存在を予言したんだよ」

「方程式で予言って、さっぱりわかめ」

「わかめはてめえの頭だろ。つげ義春のマンガみてえじゃねえか」

「……」

「ま、理論上存在するはずだってことが、計算ではじかれたってわけだ。のちにこの陽電子は、観測実験によって見事確認されている」

「すごいですね、ディラック先生」

「まあ、チートだわな。ニュートンやマックスウェルといったバケモノ級の科学者が名を連ねる、名門ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの、ルーカス記念講座教授にもなってるしな」

「お、おそろしい肩書ですね」

「天才の名を欲しいままに、ってとこだ。Fラン卒のてめえとは脳の構造が違うんだよ」

「ははは……」

「いずれにせよ、のちの研究で、電子以外にも反対の電荷を持つ粒子や物質が存在することがわかったんだ。これがいわゆる反粒子や反物質な」

「なるほど、それが『あいこ』のような状態になっているということですね」

「下世話なたとえだが、けっこういい線だな。どうしたの、今日は?」

「たまにはこういうこともあるんですよ」

「奇跡の価値は、か……」

「え?」

「いや、なんでもねえ。とにかく、おめえの表現でいうその『あいこ』の状態が『無』の本質であって、それはあたかも『海』のようだってことで、ディラックの海と呼ばれるようになったってわけ」

「うむむ、面白い……」

「ふう。珍しくてめえがものわかりいいから、今回は楽だったわ」

「これでアニメを見るのがもっと楽しくなりますね」

「まあ、否定はあえてしねえが……アニメもいいけど職安行こうぜ?」

「うーん、ははは……」

「からっぽなのはてめえの頭だな」

「ディラックの海ですか?」

「うーん、ダメだな、こりゃ……」

 笑う中年男に対し、言葉の出てこない神さまなのであった。
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