仕事の貴賤

文字数 2,122文字

 車に向かって白旗を振る。待たされていた車が苛立ちをぶつけるように猛スピードで通り抜ける。それでも俺は頭を下げる。それが俺の仕事だから。
 この仕事はコンビネーションが大切だ。工事で狭くなった道を速やかに通行させる。そのためには、連携と信頼関係が必要なのだ。
 万一失敗した時のリスクも大きい。車同士の正面衝突、工事車両との衝突、工事箇所への落下、そして、俺のような交通整理員への接触。
 命に関わる責任ある仕事だと自覚している。
 茹だるような熱波の中、叩き付ける土砂降りの中、凍える雪の中。どんな状況であろうと、誰かがやらなければ安全は成り立たない。生活を支える必要不可欠な仕事。──なのに、胸を張れないのはなぜだ?

 幼稚園帰りの親子を歩道に導く。
「おかえり」
 にこやかに向けた挨拶への返事はこうだった。
「タロウ君はこのおじさんみたいにならないように、しっかり勉強するのよ」

 一日の疲れを取るため、銭湯に向かう。
 自然と鏡に目が行く。作業着から出た部分だけ真っ黒だ。

 月に一度しか会えない思春期に片足を入れた娘は、俺の日焼けした顔を嫌がる。
「恥ずかしいから離れて」
 ──父さんの仕事は、恥ずかしいのだろうか? おまえが好きなアイドルのように、海で焼けた肌なら良いのか?
 悲しみと怒りを気持ちをグッと抑え、俺は娘に微笑んだ。
「父さんはな……」
「そういうところがキモいの。……もういいでしょ、バイバイ」

 離婚した妻とは連絡らしい連絡は取っていない。決まった日時、決まった公園で会う娘との面会だけが、唯一の繋がりだ。しかし、だんだんと待たされるようになり、一緒にいる時間も短くなった。
 娘が来なくなったら。
 俺は何のために、生きているというんだ?

 汗を流す。シャワーの飛沫で涙を誤魔化す。
 せめて仕事にだけは誇りを持ちたい。そう思い込もうとしている。
 ──分かってる。俺は駄目人間だ。
 しかし、俺みたいな人間でも、社会の歯車なんだ。その居場所を必死に作って生きているんだ。
 湯船に浸かり、天井を見上げる。自然と溜息が出た。
「……同業ですか?」
 隣の男が話しかけてきた。俺と同じく、顔だけが異常に焼けている。更には、眼鏡跡の焼け残しまであるから悲惨だ。
「近くで遺跡の発掘をしてるでしょ? 私はそこで土を掘っています」
 にこやかな表情は知性と自信に溢れている。少なくとも同業とは思えない。
「その横の工事現場の交通整理員です」
「それはそれは。大変なお仕事でしょうけど、いつもありがとうございます」
 ──ありがとう。久しぶりに言われた。緩んだ琴線に触れて涙が出てきた。慌てて湯船で顔を流す。
 勝手に口が動いていた。なぜか言葉が止まらなくなった。今の思いを、初めて会ったこの男に吐き出していた。
 男は黙って聞いていた。そして、
「娘さんを発掘体験へご招待したいのですが」
と言った。
「夏休みの自由研究にどうかと、誘ってもらえませんか?」

 久々に妻にメールをした。返事は無かった。それきり、夏休みは終わった。

 残暑などというものではない。九月の日差しはアスファルトに陽炎を揺らめかせ、容赦なく体力を奪う。
 一日を終え帰宅する。
 すると元妻から着信があった。何かあったのか? 俺はかけ直した。
 電話の中で、妻は控えめな声で言った。
「あの子の自由研究が、賞を取ったの」
「良かったな。……遺跡の発掘に行ったのか」
「行ったわ。でも、自由研究のテーマは遺跡じゃないの」

 発掘体験の日。
 集まった小学生たちは教授へ挨拶をした。
「先生よろしくお願いします」
 すると、教授は子供たちを見回してこう言った。
「今、皆さんは私を先生と呼びました。私は遺跡の説明はできます。しかし、それは生活の役に立ちますか?」
 子供たちは沈黙した。
「確かに、遺跡の発掘は、人間の歴史を知る上で非常に興味深い事です。でも、知らなくても生きていけるんです」
 教授は遺跡の横の工事現場を指した。
「あそこで新しい道を作る工事をしています。あの道がなければ、皆さんはここへ来られなかったはずです。
 この暑い中も、重機を動かして道を作っている人がいます。そして、皆さんが安全にここに来られるよう、交通整理をしてくれた人がいます。
 私の話を聞く前にまず、そこで働いてくださっている人にお礼を言いませんか?」
 教授は道路を向いて叫んだ。
「工事をされている皆さん、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
 続く子供たちの声も、晴れ晴れとしていた。

「──あの子が書いたテーマはね、お仕事について」
 妻の声は穏やかだった。
「どうして生活の役に立たない仕事をしてる人の方を偉いと思うのか、だって。
 あの子の出した結論は、『仕事に貴賤はない』だったわ」
 涙が溢れて止まらなかった。「そうか」と一言告げるのが精一杯だった。
「明日、展示会があるの。良かったら見に行って」

 電話は切れた。
 涙を拭いながら、あの教授に心から感謝した。
 明日からは、胸を張って仕事ができそうだ。
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