最終話 旅立ちのとき

文字数 10,732文字

極小質量宙域(ヴォイド)を利用した、近接星系への移動手段。これは《オーグ》にとっても画期的な発見であり、発明だった)
 ジューンはキンクァイナの、音声を伴わない声を耳ではなく思念で知覚している。それと同時に《繋がれし者》が蓄えてきた膨大な記憶を、まるで自分が見聞きしてきたことのように体感していた。博物院の地下に眠る機械――《オーグ》が造り上げた、もはや人知を超越したその存在を、本当に“機械”と呼んで良いものか躊躇われる――が蓄積してきた過去の歴史が、ジューンの脳裏に怒濤のように流れ込んでくる。
 博物院生となって一ヶ月ほど経過して、ようやく彼女の身体(からだ)が《繋がり》に馴染んできた頃、ジューンはついに《繋がれし者》の過去に触れようとしていた。
 異なる星系への移動を可能にした《オーグ》だが、彼ら自身が他星系へ進出することはかなわなかった。なぜなら彼らが送り出した無人探査機は、極小質量宙域(ヴォイド)の向こうへ到達した途端、《繋がり》を断ってしまったのである。
 極小質量宙域(ヴォイド)を超えた二点を結ぶ直接通信は《オーグ》をもってしても不可能であり、つまり《オーグ》の《繋がり》の限界が証明されてしまった瞬間であった。
(それまで《繋がり》続けることで盤石を保ってきた《オーグ》が、自ら《繋がり》を解くことは有り得なかった。《オーグ》は極小質量宙域(ヴォイド)を利用して他星系に渡ることを諦めたんだ)
(でも、それじゃ)
 ジューンが即座に抱いた疑問は、彼女もまた、未知を求める開拓民の血を引いていたという証しといえるかもしれない。
(先がないじゃないですか。《オーグ》は自分たちのいる惑星も星系も、全て手に入れてしまったんでしょう?)
(君の言う通りだ)
 まるで中等院の講義の延長のように、キンクァイナはジューンの指摘に頷いた。
(《オーグ》は全員が《繋がり》合っている以上、彼らの内から計算外(イレギュラー)が生じる可能性は有り得なかった。そして星系内を開発し尽くしたことで外部からの刺激も失われた彼らには、もはや多様性や不完全性、未知の経験といった余地がなかった。いわば完全な安定であり、同時にそれ以上の発展成長がないということを意味している。いずれ緩やかな衰退へと向かうことは確実だった)
 いかにも導師らしい語り口で、キンクァイナの思念はさらに先を続ける。
(《オーグ》自身も、当然その点は理解していた。ヒトと機械が高度に融合した彼らは、もはやヒトの(てい)を成してるとは言い難かったが、ヒトとしての生存本能は衰えていなかった。彼らは衰退を回避するべく、新しい通信技術や極小質量宙域(ヴォイド)に頼らない恒星間航法、その他様々な対策を模索する。いや、今もその最中だろう)
 ジューンは受講する一生徒の如く、黙ってキンクァイナの言葉に耳を傾けている。
(そうして模索検討された多くの対策の内、現実に実施されたひとつが我々の先祖――《原始の民》を極小質量宙域(ヴォイド)の向こうに放つことだったんだ)
 キンクァイナがそう言うと、ジューンの意識野に流れ込む《繋がれし者》の記憶が、再び動き出した。
 巨大な宇宙船――それは寸分違わぬ博物院そのものであった。スタージアの大地に横たわる姿と異なる点と言えば、中央の円筒状の本体に対して、ふたつの弧状の建物が九十度角度を変えて、円筒を一周する帯のような位置にあるところだ。
 円筒の中腹部から伸びる三本ずつの連結アームにそれぞれ繋がれたふたつの弧状のブロックは、一方が一万人以上の住人用の居住棟であり、もう一方は彼らを賄うための食糧生産プラントであった。回転するふたつのブロックを伴いながら、巨大な円筒状の宇宙船は極小質量宙域(ヴォイド)の向こうへと旅立っていく。
 それが今からおよそ四百年以上前の出来事である。
(四百年……そんなに昔?)
 ジューンは驚きを思念の表層に浮かべてみたものの、実際にはもうそれほど意外には感じていなかった。そもそも《オーグ》の存在と成り立ちからして、彼女のそれまでの常識の遙か上を跳び越えていくような話なのだ。今さらそれしきの年月を突きつけられても、へえ、という感想しか浮かばない。
(確かに《オーグ》にしてみれば四百年という年月はさほどのインパクトはない。だが)
 キンクァイナの思念も彼女の思考に同意しながら、同時に否定も口にした。
(開拓船に乗り込んだ人々にとっては気の遠くなるような時間であり、スタージアを発見してたどり着くまでの間に様々な歴史が紡がれてきた)
(宇宙船の中で生まれて、外の世界を知らないまま死んでしまう人もいる……大したことないわけないですね)
(そういうことだ。しかも《オーグ》に《繋がった》人々を乗せていくわけにはいかない。彼ら自身が望まないだけでなく、仮に宇宙船に乗り込んだとしても、極小質量宙域(ヴォイド)を超えた瞬間に《繋がり》を断たれれば、心身共に致命的なダメージを負うことが予想されていたからだ)
 キンクァイナの解説に合わせて、宇宙船の外観から船内の様子がジューンの脳裏に映し出される。艦橋から機関室、倉庫エリア、研究エリア、生活居住ブロック、プラントブロックと、まるでロードムービーを見せられているかの如く次々と映し出される宇宙船の内部は、一個の都市以上の機能と設備を誇るが、そこにはひとりの人影もない。
(従って宇宙船はまず無人の状態、搭載された機械の操縦下で出発した。人間の代わりに積み込まれたのは、凍結された受精卵だ。宇宙船の乗員は極小質量宙域(ヴォイド)を超えてから、初めて孵化されたんだ)
極小質量宙域(ヴォイド)を超えてから……皆、宇宙船の中で生まれたんですか?)
極小質量宙域(ヴォイド)を超える前にN2B細胞が生成されてしまえば、《オーグ》に《繋がって》いる状態で生まれてしまうからね)
 ヒトの身体(からだ)に偏在するN2B細胞が、実は《繋がり》を保つための機能を持つということを、ジューンは博物院生となった直後に知らされた。人間の体調管理を司る重要な器官であるN2B細胞は、《繋がれし者》や《オーグ》にとってはそれ以上に根本を成す不可欠な存在なのだ。
 それだけでもジューンにとっては十分衝撃的だったのだが、キンクァイナはさりげない口調のまま、さらに驚くべき事実を告げる。
(N2B細胞は、ヒトが《オーグ》となるために自らの身体(からだ)に植えつけた、人造細胞だ)
 もはやジューンにはなんと反応を返したらよいものかもわからなかった。
(元来古代人の身体(からだ)には、N2B細胞という便利な代物は存在しなかった)
(だけど私たちの身体(からだ)には、生まれたときからN2B細胞があるじゃないですか)
(ヒトの体内資源を元にN2B細胞が生成されるよう、古代人が自らの遺伝子にその設計図を書き足したんだ。ひ弱な人間の身体(からだ)の改良のため、そして精神感応的に《繋がる》ため)
(そこまでして……)
 古代人は己のDNAに改造を施してまで、精神感応的な《繋がり》を求めたのか。
 いったい何が彼らをそこまで駆り立てたのか。そう問いたくなると同時に、ジューンの中にはどこか古代人の心情を理解出来るような、そんな心の傾斜が生まれていた。
 ミゼールとスヴィと、例え同じ場所にいることはなくとも、心だけでも《繋がって》いたい。彼女が博物院生になることを決心した一番の理由は、古代人が《繋がる》ことを、《オーグ》となることを渇望した理由に近いのかもしれない――
 そこまで思考を進めかけて、ジューンの思念ははっと気づいたように思いとどまり、その考えを打ち消した。
(いいえ、私は《オーグ》とは違う)
 誰に聞かせるでもない、自分自身に向かって語りかけるように、彼女は思考する。
(だってミゼールとスヴィと《繋がって》しまったら、ふたりとも宇宙へ飛び立てない。新天地までたどり着くことが出来ない。彼らは《繋がる》ことを望んでいない、私が一方的に《繋がり》たいだけだもの。彼らをスタージアに縛りつけるなんて、私だって嫌だ)
(そうだ、ジューン・カーダ)
 ジューンの独白に近い思考に反応したキンクァイナの言葉は、さながら正答した生徒を褒めそやすかのようであった。
(我々と《オーグ》の違いは、そこにある)
 それまで宇宙船の中を飛び回っていたジューンの思念は、いつの間にか博物院の一室に引き戻されていた。
 高い壁にぐるりを囲まれて、その一面には天井に高い位置に小窓があり、おそらくは夕刻の日差しが斜めに射し込んでいる。陽の光に端を照らし出された分厚い木製の長机を挟んで、ジューンとキンクァイナは向かい合う椅子にそれぞれ腰掛けていた。
「私たちと、《オーグ》の違い、ですか」
 思念の海から現実の世界に意識を移したのだから、きっと声を発するべきだろう。そう思ってジューンは、キンクァイナの言葉を口に出して繰り返した。
 キンクァイナもまた淡泊な表情のまま、声に出して彼女に応じる。
「そう。《オーグ》の元から放たれて、極小質量宙域(ヴォイド)を隔てた星系で誕生した我々は、果たして《オーグ》と《繋がり》たいと思うだろうか?」
 そう問いかけてくるキンクァイナの顔には、角度をつけたオレンジ色の陽光が半分だけ降りかかり、ただでさえ茫洋とした彼の表情をますます読み取りにくくさせている。
 そんな彼の顔に向かって、ジューンはきっぱりと言い切った。
「――思うわけがありません」
 ジューンの言葉に迷いはなかった。
 博物院生になり、精神感応的に《繋がれし者》になることと、もしかしたら矛盾するのもしれない。だが彼女の、いや全ての《繋がれし者》にとって、それは全く齟齬のない考えであった。
 例え彼女が《繋がれし者》となって、その中に埋没してしまったとしても、それは自らの選択による結果なのだ。《オーグ》というさらに大きな存在に否応もなく呑み込まれるのとは、全くわけが違う。
 ましてや《繋がらぬ者》――ミゼールやスヴィまで《オーグ》に差し出して良いはずがない。
「その通りだ。我々には我々自身で築いてきた歴史がある。それが例え、《オーグ》の手によってもたらされたものだとしても。《オーグ》の手を離れた世界で培われてきた“我々自身”を手放そうなどと、考えるはずもない」
 訥々と語るキンクァイナの言葉に変化はない。だが日差しの向こうから向けられる彼の視線は、いつの間にかはっきりとジューンの顔を見据えていた。
「《オーグ》がどれほどの科学水準にあるのか、我々には計り知ることは出来ない。いずれ彼らが、我々の常識を超えた恒星間通信手段を手中にするという可能性は、極めて現実的な未来予想図だ」
 キンクァイナが《オーグ》の、ほとんど超常的な力を何度繰り返し強調しても、ジューンはもはや大袈裟と受け取ることはなかった。彼女もまた《繋がれし者》の記憶に触れ、それを己のものとすることで、彼の言うことが少しも誇張されたものではないことを十分に理解しているからだった。
「そうなれば彼らは我々という、宇宙に播いた種が花を咲かせ、実らせた成果を摘み取りに来るだろう。彼ら自身はもう産み出し得ない、多様性と不完全性という、発展成長の糧を得るために」
「だから」
 導師の言葉を受けて、ジューンは彼女自身も自覚せぬうちに、代わりに結論を口にしていた。
「そのときに備えて、私たちも《繋がらぬ者》を宇宙に放つんですね」
 ジューンがそう答えると、光に覆われてわずかに覗くキンクァイナの口元が、微かに微笑の形を取ったように見えた。
「……積極的に宇宙に拡散するためには、《繋がり》はむしろ枷になる。何より貴重な多様性が損なわれてしまう。彼らにはN2B細胞の持つ精神感応力は必要ない。速やかに宇宙に出て、多くの星に拡散し、発展し、数を増やすこと。それこそが《繋がらぬ者》が果たすべき役割だ」
 もちろん彼ら自身は、そんな責務を背負わされていることなど夢にも思うまい。だが《原始の民》の子孫であるということは、即ち開拓者の血筋であるということだ。未知に突き進まずにはいられないという彼らの生来の好奇心を、《繋がれし者》はそっと後押しするだけで良い。
極小質量宙域(ヴォイド)を超えてから生まれた我々は、かつて一度も《オーグ》に向けて発信したことはない」
「じゃあもしかして《オーグ》は、スタージアの位置を把握してないんですか」
「彼らは《原始の民》がどこに降り立ったのか、まず探索から始めなければならない。であれば我々の役目とはここスタージアで、《オーグ》の探索の目を察知すること。そしてもし見つかった場合には盾となることだ。彼らに対して多少なりとも抵抗するために、我々もスタージアでの《繋がり》を保ち続ける必要がある」
 そう言って少し首を突き出したキンクァイナの顔が、陽光をくぐり抜けてジューンの目に露わにした。彼は口元だけでなく瞳にも活力を宿らせて、ジューンが初めて見る生命力に溢れた表情を浮かべていた。
「そしてもし我々という盾が破られたとしても、《繋がらぬ者》が成長し、繁栄し、数を増やしていれば――それこそ《オーグ》が摘み取ろうにも、彼らの手に余るほどの多様性と不完全性で銀河を満たしていれば。そのときこそ《オーグ》に呑み込まれることのない、銀河系人類として生き残ることが出来るだろう」

 ひんやりとした夜風が頬を撫で、少しずつ体温が奪われ行くのを肌で感じながらも、カーロはバルコニーの端から動き出すことが出来なかった。
 夜闇に包まれたバルコニーの周囲には、窓から漏れる照明以外にはもはや星灯り以外に何も見当たらない。ひととおり語り終えて言葉を区切ったジューンが、両腕を抱えてぶるっと身体(からだ)を震わせる。
「さすがに寒くなってきたわね。中に戻りましょう」
 彼女に促されて、ようやくカーロは目を覚ましたように瞳を動かした。
「ああ、こんなところで長話をさせて済まない。大丈夫かい?」
「まだ大丈夫よ。これ以上いたらさすがに堪えるけど」
 N2B細胞による体調管理によって、ヒトは成人となるまで滅多な病を得ることはない。だが年を経れば肉体そのものの耐久性が減じていく。それはN2B細胞であっても防ぐことの出来ない、生物としての当然の仕組みだ。
 カーロがジューンに覆い被さるように肩に手を回して、再び室内に戻ったふたりは、再び現像機(プリンター)から柑橘茶を取り出した。湯気の立つ茶色の液体を飲み下せば、じわじわと身体(からだ)の芯から温められていく。
「星系内に及ぶ直接通信から現像機(プリンター)、恒星間航法も惑星開拓の様々な技術も、どれも《オーグ》が編み出したものよ。あなたが言う《オーグ》の秘術の一部ね」
 カップを両手に抱えながらほうっと一息つくと、ジューンは彼女の傍らの小型現像機(プリンター)に目を向けながらそう言った。
「その原理はあなたたちも私たちも、とても理解することは出来ないわ。私たちに出来るのはただ、それを利用することだけ」
「……博物院の機械には、もっとほかにも《オーグ》の秘術が記されているんだろう?」
 そう尋ねてはみたものの、カーロにはもうおおよその事情は予想出来ていた。彼の思念に触れたのだろう、ジューンが視線だけで頷きながら口を開く。
「機械には膨大な技術の記録がまだまだ眠っているわ。でもそのどれも、精神感応的な《繋がり》が前提の技術ばかりなの。開拓団には、既に開示したもの以上の技術を取り扱うことは不可能なのよ」
「そういうことか……」
 博物院は最大限の技術供与を済ませていた、というわけだ。十代の大半をジューンの庇護の下で過ごしたカーロは、博物院の地下に謎めいた機械があることも知っていた。それだけに博物院の態度は出し惜しみにすら思えたのだが、実態はむしろ逆だったのだ。
「《繋がれし者》は開拓団に協力的であるということが、よくわかったよ」
「ご理解頂けたようで、嬉しいわ」
 ジューンはそう言って微笑むと、再びカップに口をつけた。カーロもつられるように柑橘茶を啜る。何杯飲んでも飽きることのない、それでいて懐かしい香りが鼻腔をくすぐり、暖かい苦みが味覚を通り過ぎていく。
 博物院の中で彼女と共に暮らすようになってからは、朝食を済ませると必ず柑橘茶の注がれたカップが目の前に差し出された。両親の生前にはない習慣に最初カーロは戸惑ったが、その香りが鼻先をよぎると不思議と心が落ち着いた。ジューンは、柑橘茶の香りには精神安定の作用があるのだと説明してくれた。
 それはあるいは、カーロを落ち着かせるために彼の精神に干渉したジューンの、その場しのぎの方便だったかもしれない。だが彼女が毎朝淹れる柑橘茶を口にすると、その日一日を心穏やかに過ごせるようになった気がしたのも、彼にとっては間違いのない事実であった。
「ジューン、一緒にエルトランザに来ないか」
 気がつくとカーロは、そんな言葉を口に出していた。
 ジューンは軽く目を見開いて、彼の顔を見返している。
 彼の言葉の内容に驚いているのとは違う。むしろ予想していた言葉が、ついに発せられたことに反応したという顔つきだった。それどころか彼女は《繋がれし者》なのだ。予想ではなく、最初からわかっていたに違いない。
「母さんが見せたがっていた新天地を、僕もあなたに見てもらいたいんだ」
「カーロ、私はここを離れることは出来ないのよ」
 ジューンに穏やかな口調で窘められても、カーロの胸の内には、自分でも驚くほど食い下がりたい気持ちが込み上げていた。
「それは《繋がれし者》だからだろう。例えば《繋がり》を解けば? 僕たちと同じ《繋がらぬ者》に戻って、極小質量宙域(ヴォイド)を超えることは出来ないのか?」
 かけがえのない友人たちの忘れ形見にして、長年母親代わりとなって育ててきた息子同然の存在の、切実な問い。
 その問いに対して、ジューンはゆっくりと首を横に振ることしか出来なかった。
「無理よ。少なくとももう、私にはそんな時間は残されていない」
「時間だって? 準備が必要なら出発を遅らせるさ。それでも足りないというなら、後からでも来ればいい。なんなら僕が迎えに戻るよ」
「カーロ、私が《繋がり》を解くには、あと五十年は必要なの」
 ジューンの口調は穏やかだったが、その言葉が告げる内容は非情だった。
 それだけの年月を経たらジューンどころか、カーロの寿命だって尽きていたとしてもおかしくない。
 落胆して肩を落とすカーロに、ジューンは寂しげな面持ちのまま声を掛けた。
「《原始の民》がスタージアを見つけ出すまでの三百年の長旅で、一度だけ《繋がり》を解いたことがあったわ」
 宇宙船の中で生まれ育った《原始の民》は、当初全員が精神感応的に《繋がって》いた。《オーグ》の分身として産み出された彼らにとっては、それが至極当然であった。
 最初の百年間はそれでも問題はなかった。だがその間に居住可能な惑星を見つけ出すことが出来なかった彼らは、ひとつの決断を下す。
《繋がり》の維持に必要な莫大なエネルギーの消費を抑えるため、一部を残してその大半を《繋がり》から切り離すことにしたのである。《オーグ》にも経験のない初の試みだったが、事前に入念な処置を施せば、対象者の身体的な負担は十分に払拭可能なはずであった。事前処置に必要な期間は五年という目算だったが、念のため十年の年月を掛けた後、《繋がり》からの解放は実施された。
 その結果、対象者の七割以上が解放から一年以内に自殺、もしくは精神不安に基づく衰弱により死亡してしまう。
 彼らに身体的な問題は皆無だった。だがいずれも《繋がり》から切り離されたという現実に耐えきれず、消耗し、やがて精神を病んでしまったのである。
 辛うじて生き残ったのはいずれも、解放時には満十歳に満たなかった子供たちばかりであった。
「それだけの犠牲を払って、ようやくわかったのよ。一度《繋がった》人間から心身共に《繋がり》の影響を拭い去るには、《繋がった》期間と同じだけの時間を事前処置に充てなくてはいけないということが」
 三割以下に減じた同胞を再び元の人口にまで取り戻すのに、さらに百年以上の年月を要した。
 生き延びた子供たちを礎として、N2B細胞の持つ精神感応力を発現しないままに育て上げられた人々こそ、今の《繋がらぬ者》のルーツである。《繋がれし者》の増員には、《繋がらぬ者》たちの中から素養のある人間を充てるという様式も、この間に成立した。
「人口を回復させる間、並行して惑星の探索方法も確立された。やがてスタージアを発見し、惑星環境整備のノウハウも積み上げながら、ついに《原始の民》が降り立ったのが、およそ百年前のことよ」
 そう言ってカップをテーブルの上に戻すと、ジューンは面を上げてカーロの顔を見返した。窓の外に広がる夜空よりも海原よりも黒い、深みを湛えた両の瞳には、静かだが揺るぎのない、彼女の意志が映し出されていた。
「《繋がらぬ者》はそんな事情を知る必要は無い。未開の地を切り拓く期待と不安だけでいっぱいでしょうからね。でもカーロ、彼らを率いる者として、そしてミゼールとスヴィの夢を引き継ぐ者として、あなたには全てを知っておいて欲しかった」
 ジューンが話し終えてからしばらく、ふたりの間には束の間の沈黙が訪れた。
 彼らの目の前に置かれたふたつのカップには、それぞれ飲みかけの柑橘茶が残っていたが、それもとっくの昔に温度を失っている。
 視線をテーブルの上に落としたまま口をつぐんでいたカーロは、何度か目を閉じて小さく頭を振ったが、やがておもむろにカップを手に取った。
「わかったよ、ジューン」
 決意の込められた声でそう答えたカーロは、そのままゆっくりと持ち上げたカップを、少しだけジューンの顔に向けて突き出してみせる。
「だけど僕が引き継ぐのは、父さんと母さんの夢だけじゃない。あなたの想いも一緒だ。博物院長でも《繋がれし者》でもない、大切な家族のひとりであるジューンの想いも、僕は一緒にエルトランザへ連れていく」
 カーロの宣言はどんな言葉よりも、彼女の心に届いたことだろう。ジューンは相好を崩しながら、手向けの言葉を口にした。
「私の想いをあなたに託すわ、カーロ。気をつけて行ってらっしゃい」

 それから一ヶ月後、カーロ・デッソ団長が率いるエルトランザ開拓団の宇宙船十三隻は、宇宙ステーションを出発した。
 未開の惑星を切り拓こうという彼らの栄えある出発を、ジューンは岬の屋敷のバルコニーから見送った。
《繋がれし者》の精神感応力を用いれば、宇宙ステーションの外装カメラが捉えた映像をそのまま受け取ることも容易い。だが彼女は出発の瞬間を肉眼で、このバルコニーから見届けるつもりだった。
 出発時刻は早朝というにはやや早い、間もなく夜明けが訪れようとする頃合いである。手摺りに左手を置いて、右手に持った望遠グラス越しに、ジューンは黒から紫へと移り変わろうとする空の奥、水平線よりわずかに上空に目を凝らしていた。
 宇宙ステーションが明滅させているはずの光は、夜半に比べれば明るいせいか視認出来ない。もしかしたら宇宙船の推進エンジンの明かりも、この時間では見えないかもしれない、などとはジューンは微塵も考えていなかった。
 バルコニーの端で望遠グラスを構えたまま、微動だにせず姿勢を保っていたジューンは、それまで引き結んでいた唇を不意に半開きにしたかと思うと、やがてぽつりと「見えた……」と呟いた。
 海の中から今にも顔を見せようとする暁闇の光にも掻き消されることのない、推進エンジンが放つ輝きと覚しき明かりが、望遠グラスを通したジューンの視線の先に浮かんだ。
 十三隻の宇宙船が宇宙という大海へ漕ぎ出そうとする光の群れは、ジューンの目には固まってひとつの輝きになって映る。
 それは少女の頃に見た無人探査機の出発時の輝きよりも何倍も明るく、力強く思えた。
 明かりを認めることが出来たのはごく短い時間だったが、ジューンにとってはそれで十分だった。かつて友人たちと共にした光景を思い返しながら、その友人の子が旅立つ瞬間を同じように見送ることに、ジューンは深い感慨を抱かずにはいられない。
 そしてそれは、彼女の背後に広がる《繋がれし者》が同様に抱く感慨でもあった。

 彼方より 放たれし人来たれり
 永き果てに見出しき (すさ)び野に 降り立つ
 拓き 産み増やし 栄え いつか舟を漕ぎ出す

 (ほぐ)れし絆を 彼方に紡ぐべく
 数多の舟は 千々の星に散りぬる
 再び紡がれし絆は やがて天を覆う

 出発に先駆けて執り行われた送別の儀で、ジューン自身が開拓団に贈った歌は、《繋がれし者》の想いを余すことなく歌い上げていた。いずれ銀河系中に散らばったカーロたちの子孫が、童謡として口ずさんでくれるだろうか。
 この歌が何代にも渡って受け継がれていく世を、《オーグ》の干渉から守ること。それがこの星に《繋がれし者》の責務である。ジューンの視覚を共有する《繋がれし者》たちは、水平線の彼方を見つめながら、決意を新たにする。
「例え私たちの行動が、全て《オーグ》の掌の上だとしても、ね」
 ジューンはカーロに全てを教えたと言ったが、実際にはひとつだけ伏せた事柄がある。それは希望に満ち溢れた彼らを、(いたずら)に不安に駆り立てるだけであり、あえて口をつぐんだ単なる推察――だが《繋がれし者》はほぼ間違いないと確信している予測であった。
《原始の民》が自身を保つために《オーグ》に叛くであろうことを、当の《オーグ》が想定していないはずがない。それほど想像を遙かに上回る存在なのである。我々の行動は隅から隅まで、彼らの計画の内に収まっていると考えるべきなのだ。
 だとしても行動を起こさず、ただこの星に止まり続けるという選択はない。いつの日か必ず訪れるだろう、《オーグ》の干渉に大人しく呑み込まれる故はない。《オーグ》の想定の上を行くだけの繁栄を、《繋がらぬ者》たちがもたらすだろうことを信じて、彼らを送り出したのだ。
 そのことにジューンは少しの躊躇いもない。
「カーロ、あなたたちがミゼールやスヴィや私の想いを乗せて、いつかこの銀河系に人類を満たしてくれるだろうと信じて、私たちはこの星から見守っているわ」
 そう口にすると、ジューンは望遠グラスを持つ右手を下ろし、おもむろに踵を返した。
 彼女の背後では、いつしかすっかり顔を出した恒星が夜明けを告げていた。払暁の光は大きく広がる天空を鮮やかな青で染め上げ、その下で穏やかに凪ぐ大海原には、金色の乱反射が舞う。
 暖かさを感じさせる朝日の光を背に受けながら、ジューンはゆっくりと、だが確かな足取りで、屋敷の自室へと引き返していった。

(第五部 了)

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