十九

文字数 5,561文字


 医者は、神経性のものといいますか、ま、過労と心労が崇ったのでしょうねと奥歯にものの挟まったような言い方をした。
「血圧が相当高いですが、いきなり血圧を下げる薬を投与するのではなく、自責の念とか貧困感が顕著なことから、抗不安薬を処方しておきました」
「え、抗不安薬ですか。あの、一種鎮静剤のような……」
「はい、その抗不安薬です」
「そうですか……」
 わたしは悟り、気を取り直して訊ねた。「で、その自責の念とか、貧困感だとかいうのは――」
「奥さまは、わたしは恐ろしいことをした人間だ、こういうことになったのも、すべてわたしがしたことの天罰だと、ご自分を責めておられます。そして自分は一生の病持ちだが、病院に払うお金がない、収入がないから、将来になんの希望も見えないといった、極度に切羽詰った困窮意識を持っておられます。
 どんな過去をお持ちになり、どんな経済状態でいらっしゃるのかは存じませんが、少なくとも奥さまには、それが避けられない現実問題として眼前に横たわっているのです。
 少し様子を見られたほうがいいと思われますが、奥さまにはあまり励ましたり、元気づけたりすることばは、おかけにならないほうがいいと思います」
「というと――」
「奥さまは長年の心労が高じて、少々うつの傾向が出始めているようにお見受けします。なので、われわれとしては精神療法による治療をお受けになるほうがよろしいかと……」
「はぁ……」
 曖昧に答えたものの、彼女自身が言うとおり、医者にかかる元手がなかった。本来なら借金をしてでも、彼女に治療を受けさせるべきなのだろうが、国民健康保険にも入っていなければ、まとまった金もなかった。
 本人に訊ねると、その気はないと言った。
 わたしは、免罪符を得たような気がした。楽なほうへ、楽なほうへと逃げるのが、わたしの習性だった。
「だって、わたしが入院したら、あなたはどうするの。食事の用意もできなくなるし、治療費どころか、家賃も払えなくなっちゃうわよ。光熱費だって、シャンプー代だってそうだわ。第一、どこに何があるかというのだってわかっていないでしょう」
 確かにそうだが、ことの本質はそんなところにはなかった。
 わたしが仕事をし、しっかりと稼いでさえいれば、彼女もこんな病気にならずに済んだのだ。一種のPTSDという形で、彼女の心のどこかに弟や両親を亡くしたショックが、どす黒く巣食っているに違いなかった。しかし、過去はどうであれ、現在がこういう状態でさえなければ、きっと出ていなかった病気だ。
 すべては、わたしの所為だ――。
 わたしは、明るく振舞う彼女の態度をいいことに、ま、なんとかなる、ゆっくりやろうやと心にもないことばを口にした。形だけは、医師の忠告にしたがったつもりだった。
 だが、ゆっくりどころか、わが家の家計は火の車であった。これ以上、なんともなりようのない状態だったのだが、彼女を連れて帰るには、そんなことばくらいしか思いつかない体たらくであった。
 一度倒れてからというもの、彼女は以前のように、こまめに部屋を掃除しなくなったし、家具やテーブルなどをせっせと磨き抜かなくなっていた。そして、茫乎とした表情で椅子に座っていたかと思うと、急に明るくなって独り言を言い出すようになった。
「さ、こんなことをしちゃいられないわ。肉じゃがを作って、あのお爺さんに持って行ってあげなくちゃ。それとも、今日は冷えるから粕汁のほうがいいかしらね……」
「明日はわが身なんだから、もったいないなんて言わないでよ。いつかは、これが回りまわってわたしたちに返ってくるんだから……」
「わたしは、酷い女だわ。罪もないあのひとを裏切り、その恩をあだで返したわ。いま、その天罰が下っているのよ」
「ね、やっぱり。親切は無駄にならなかったでしょ。早速、宝くじが当たっていたわ。それも一万円もよ」
 そして過去のアルバムをごそごそと取り出して、頻りに眺めるようになった。
 これは、どこそこに行ったときのよね、このときは楽しかったわね、あ、そうそう、これはあなたが会社で頑張っていたときのものね、いまにしてみれば古いワープロだけど、あのときはこんなものでも、ずいぶん高かったわよね――などと問わず語りに話し出すのだった。
 とくに土肥など、わたしの古い友人を招いて行ったホームパーティの写真を取り出しては、当時を懐かしがった。思うに当時がサラリーマンとしては一番充実し、家計も潤沢なときであった。
 土肥は、わたしのもっとも古い友人であった。
 いまは、仕事の関係で熊本に引っ越してしまったが、もともとはわたしが二度勤めたあの会社で、なにも恐れるものがなかった若いころ、一緒に働いた仲であった。
 想い出に浸る彼女は、食事を作るのも忘れ、脳裏の中にある、なにか遠いものを眺めているようだった。そんなとき、わたしが冷蔵庫から取り出して作った間に合わせのものを食べさせた。
 もっとも、インスタントラーメンに卵や葱が入ったものか、焼き飯、あるいは焼きそばくらいのものでしかなかったが、それでも彼女は美味しいと言って食べてくれるのだった。
 しかし、いつもいつも茫乎としているのではなく、ある一定の期間をおいて躁状態になり、ときには鼻歌までが飛び出してせっせと立ち働く姿を見せるのであった。
 そして、頑の中までおかしくなっているかというと、そうでもなく
「もう、自己破産しようか――」
 と、わたしが言うと
「駄目よ。そんな汚いことをしちゃ。人間として最低じゃない」
 などと、いつもの清廉潔白な美貴に戻るのだった。
 躁とうつとでは、躁の期間のほうが長かったが、わたしはそんなときのほうが楽しかった。というより、気が楽だった。わたしのつくった不味い料理を食べなくてよかったし、なによりも、そんなときの彼女は優しかったからである。
 しかし、彼女の病状の進展とともに、家計はますます苦しいものになっていった。金利だけの返済とはいっても、いつまでもそうは行かなかった。
 条件変更を幾度も重ねるうち、さしもの保証協会も少なくていいから、元金も一緒に払えといってきた。でないと、差し押さえるというのだった。
 だが、わが家には差し押さえるものとてなかった。
 古い型のパソコンや家具、冷蔵庫やテレビその他の家電品は、無料でも引き取ってくれない代物だった。そんなものに値がつけられるはずもなかったから、結局は、金利だけでも――となったのだった。
 相変わらず、ハローワークその他の求人情報を見ては応募し、幾度か面接をしたが、まともに雇ってくれるところはなかった。
 事態はまた、振り出しに戻っていた。シシュフォスの苦闘が、メビウスの輪の中を走るように永遠に繰り返される。返しても返しても、負債は減らない。金利は減らすためのものではなく、払うたびに天から落ちてくる岩の断片のようなものだった。
 どこかで、この運動を断ち切らねばならない。
 理屈はわかっていた……。
 だが、新たな収入源がない以上、手を拱いているしかなかった。
 そのいっぽうで、美貴の様子はますます変わって行った。
 最近では、いつどこで、またあのような形で倒れてしまうのではないかという恐怖感が先に立ち、気分が一定の形に落ち着くまで買い物に出かけられないようであった。吐き気やめまい、動悸の昂進を頻繁に訴えるようになった。
 その度にわたしは彼女を安静な状態に保ち、布団やソファなどに横たわらせてやらなければならなくなっていた。
 そうして小一時間も背中や肩を撫でてやっていると、ありがとう、もういいわ――と自分で立ち上がり、風呂に入ったり、食事をつくったりするようになった。
 ある日、なんの前触れもなく
「あなた。あなたって、酷いひと。わたしを裏切っているのね」
 そんなことばを吐いて、わたしに詰め寄った。
「あたし、知っているのよ。あなたが浮気をしているってこと。何にも知らないと思っているんでしょうけど、ちゃあんとわかっているんだから……」
「……」
「なにを黙っているの。あのひかりって子よ。隠したって駄目。正直に白状したほうがいいわ」
 過去と現在がごっちゃになっている。わたしは思ったが、そこは彼女のことばどおり、素直に認めることにした。
「すまん。浮気をしたのは認める。けど、彼女とは別れる。二度とおんなじことはせん」
「本当――」
「ああ。ほんまや」
「じゃ、信じたげる。けど、二度としないでよ」
「わかった。悪かった。今後は誓って、そういうことはせん」
「じゃ、指切りげんまんね」
 突き出された彼女の細い小指に、自分の小指を絡ませた。
「指切りげんまん。嘘吐いたら、針千本飲ーます」
 彼女は指切りをし終えて言った。「でも、そんなとき、わたしがどんなに寂しい思いをしていたか、あなたにはわからなかったでしょう。ひとりで夜の食事をするのが、どんなに辛いものか、楽しく過ごしていたあなたにはわからなかったわね」
「すまん……」
 いまとなっては、彼女の辛さが痛いほどにわかった。
 わたしはそんなことに気づきもせず、勝手気ままな夜を別の女と笑いながら過ごしていたのだ。
「でも、いいわ。あなたはわかったと言ってくれた。二度としないと誓ってくれた。だから、あたしも二度と言わないことにするわ」
「すまん……」
 とはいうものの、この話はその後、何度も繰り返された。
 これもひとつは、彼女のトラウマになっているのだと知った。
 しかし、彼女のトラウマは、それだけではなかった。気分がまだ穏やかだったころ、彼女はいつものように問わず語りをした。
 その内容は、それまでの二人を結びつけていたものの正体がなんだったのかを解明する契機にもなった。そのころから彼女の脳は、過去の情動や思い出の中に生きるようになっていったのである。
「あなた」
「ん」
「わたしがなぜ、あなたとこれまで一緒にきたか、不思議に思っているでしょう」
「ああ」
「それはね。弟が突然、いなくなったことと関係してるの」
「弟さんが……」
「そう。交通事故で、幼くして死んでしまった可哀想な弟。わたしがいままであなたに尽くしてこれたのは、その弟がいなくなってしまったからなの」
「?」
「あのとき、あの子は小学六年生。わたしは中学二年生。それなりに仲のいい姉弟だったわ。よく宿題をみてあげたりしてた……。
 でも、あの日、わたしはつまらないことで弟と喧嘩をして、皆と一緒には出かけなかったの。しかも、ひとりで勝手に怒って部屋に閉じこもってた。
 いまから想えば、なんであんなことで、あそこまで怒ってしまったんだろうって思うわ。
 あろうことか、わたしが大好きだったアップルパイを全部食べてしまったという、たったそれだけのことで彼を責めてしまったの。
 小学六年生という食べ盛りの、そんな弟に黙って食べるというのは、泥棒のすること、あなたは泥棒よ、そんなじゃ、ろくな人間にならないわ――とまで言ってしまったの。
 本当は、そんなことを言うつもりは全然なかった……。
 だけど、彼を傷つけてしまったのは事実だった。
 わたしは自分の浅ましさに自己嫌悪に陥って部屋に閉じこもって泣いたわ。でも、そんな莫迦なことをしている間に、あの事故が起こったの。三人とも即死。酷い交通事故だったわ。わたしの所為だと思った。わたしがあんなことで怒ったりしなければ、父は家族を食事に誘わなかったんだって……。
 それからは、毎日、泣いて暮らしたわ。
 そんなとき、手を差し伸べてくれたのが、あのひとだった。その後のことは、あなたも知っているとおりよ。
 あとで、弟の部屋に行ってわかったんだけど、わたしの留守中に友達がきていて、その子がたまたまそれを見つけて欲しがったから一緒に食べてしまった、ごめん、もう二度としないから、許して――と書いたノートの切れっ端が出てきたわ。わたしに渡そうと思って急いで書いたのだろうけど、わたしがあんなだったから、渡せなかったんだ、そう思うと、後悔が後から後から湧いてきたわ。
 こんなことなら、お腹いっぱい食べてもらえばよかった、もっと優しく接してやればよかった、きつく叱らなければよかった……。
 そういう風に考えれば、あの子には姉らしいことはなにひとつしてやらなかった。宿題をみてやるときは、鬼のように厳しかったし、できて当たり前という感じで、決して褒めることはしなかった。
 あの子には、本当にすまないことをしたと、いまだに思ってるわ。でも、あなたがいてくれたお陰で、わたしは救われた……」
「つまり、このぼくが弟さんの身代わりやったと……」
「そうね。当初はともかく、結果的に見れば、そのとおりだわ。あなたはわたしの弟だった――。わたしは姉であり、あなたは夫ではなかった。
 考えてみれば、二人が出会ったあの瞬間から、わたしは弟にしてやれなかったことを一生懸命、あなたにし続けてきたように思うの。
 わたしは、これまであなたに尽くしてきたことで、あの世に行っても堂々と弟や両親に顔向けができると信じているわ。わたしにできることはすべて、あなたにしてあげたつもりよ。だから、もしこのまま死んでしまったとしたところで、思い残すことなんて、なにひとつない。後悔もしてないから、安心して――。わたしは、好きであなたについてきただけ。だから、あなたはなにも負い目を感じることはないのよ」
 わたしは無言で彼女の細い身体を抱き、吠えるように号泣した。
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