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文字数 5,119文字

東京でこの場所だけ僅かに湿度が低い、そんな印象を受けた。
それは赤坂の奥地にあって、幾つかの大使館が立ち並ぶ小高い丘の上――。
静謐さと威厳を兼ね備えた、ある種近寄りがたいその土地の中心に、歴史と伝統に彩られた『ホテルカシモト』の瀟洒な建物があった。
その日の昼下がり、俺は真鍋のお供でカシモトの一階にある薄暗いシガーバーにいた。
真鍋を呼び出したのはスポーツエージェント『イノセント』の代表・細井圭子(ほそいけいこ)と、同社のチーフマネージャーである秋本浩介(あきもとこうすけ)。そして例の『シルバラード』取締役である南徳次(みなみとくじ)の三人だった。
ビロードのような黒髪の細井は四十歳前後で、如何にも気が強そうな瞳をした女性社長だったが、お世辞抜きで人目を惹く美しさがあった。
秋本は赤ら顔の童顔で、ろくに挨拶もせずアイスコーヒーのストローを吸いながら、蔑むような品のない笑みを浮かべていた。
南も秋本同様不遜な態度だったが、こちらは両足を開いてソファに浅く腰掛け、体全体に妙な緊張感を漂わせていた。よく見れば上半身は鍛えたように厚みがあり、両の拳は傷だらけだった。その面構え、目付き、ともに堅気の雰囲気ではない。もしかするとボディガード代わりにこの場に呼ばれたのかも知れない。
三人とも広義では『総映(そうえい)グループ』の関係者だが幸い、俺はこの三人と面識がなかった。
逆に秋本と南は、俺の存在について暴力団関係者ではないのかと訝ったが、俺は答えず否定も肯定もせず、敢えて名乗ることもしないで話を進めた。
ここに来る前に真鍋は彼ら宛に例のゲラを送っているし、当然、〝本家〟宛に送った質問状にも目を通している筈だ。
細井圭子は一言も発さず、その面長の顔に母性とも嘲りとも取れる独特な微笑を湛えていた。手にはイタリア産の炭酸水を注いだグラスを持ち、ストローは使わずグラスから直に飲んでいる。
俺は高校時代に付き合っていた年上の女から諭された言葉を思い出していた。
「格好悪いから、男はストローなんか使っちゃダメ」
俺はその女の顔も名前も覚えちゃいないが、その教えだけは未だ頑なに守っている。

秋本は手にしたプリント用紙を真鍋の前に放った。
「お前、舐めてんじゃねえぞ。こんなクソ飛ばし記事――、まるで信ぴょう性がねえだろうが。このまま掲載できるもんならやってみな。載せた雑誌も出版社も、そして書いた張本人のお前も含めて関係者全員マジで告訴するからな」
一切無駄な寄り道のないストレートな脅し文句。典型的な経験不足の駆け引き下手。
「お前のところのちっぽけなエロ本出版社と、うちの一流弁護士チームとで勝負になるとでも思ってんのか」
真鍋はコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れて、ゆっくりとかき混ぜながら言った。
「裁判? そりゃあ無理でしょ。小さな小さな『白水出版(はくすいしゅっぱん)』が、そちらの一流弁護士チームですか? そんなのに勝てる訳がない」
真鍋は冷やかし気味に笑いながらコーヒーを一口啜った。白水出版とは例の記事が掲載されたタブロイド誌『実話(じつわ)ダイナマイト』の版元である。
「秋本さんでしたっけ。あなた何を勘違いしているのか知りませんけど、私はただのフリーライターですからね。白水出版が裁判で負けて多額の賠償金を命ぜられたとしても、正直あんまり関係ないんですよ」
「何言ってんだ――。お前のせいで世話になっている出版社が潰れてもいいのかよ」
「いやあ、それほど世話にもなってないし。別になんとも」
「ざけんなよ、この屑野郎が――」
秋本のボキャブラリーはそのあたりが限界のようだった。
ここまで細井は微笑を絶やさず、南は第三者然とした態度で傍観している。
そこで真鍋は診断書のコピーを取り出してテーブルに置き、その上に携帯電話を置いた。
「それと、ちょっとこちらを――」
そう言って録音した音声を再生すると、全員が少しだけ前屈みになり耳を傾けた。
空調らしき雑音や正体不明な物音の中、真鍋孝襲撃犯の主犯である金子豪が、自分たちとシルバラード平石との関係をぺらぺらと喋っていた。
請われて、指示を受けて暴力を振るう特殊な間柄なのだと――。
そして金子が南徳次の名前を出したところで、当の本人が顔色を変えた。
「こんなもん幾らでも偽造できるやろが」
「いえいえ。……まあ百歩譲って偽造だとしてもですよ、これが世に出たら誰が傷付いて、誰が怒りますかね」
「なんやと」
「シルバラードのオーナーは『トランザム』の播戸哲也(ばんどてつや)さんですよね。関東最大の暴走族『極東連合(きょくとうれんごう)』総長から、芸能界屈指の実力者にまで登り詰めた、立志伝中の人物だ。その播戸社長も今回の件、もちろんご存じなんでしょ」
「おいこらお前、よう相手見て口聞けよ。あんま舐めとると――」
「南さん、それ以上は――」
そこで言葉を挟んだのは細井圭子だった。途端に南は黙り込んだ。力関係はどうやら細井の方が上らしい。細井は意味ありげな微笑を湛えて言った。
「あのね、変な駆け引きをする気はないの。記事を出したいならどうぞ。竹廣は将来が潰えて可哀そうだけど、その事件が事実なら自業自得。いつかそうなる運命だったってことでしょ。でも――」
そこで一度俺を見て、すぐに真鍋に視線を戻した。
「もし記事の掲載を控えてくれると言うなら、その無駄になった原稿料はうちで持たせて貰うし、別の、もっと大きなスクープだって渡せるわ」
「もっと大きなスクープ?」
隣の真鍋が餌に食いついた。細井は今度こそ不敵な笑みを俺に向けてきた。
「そう、例えば――、今、最も売れている女性アーティスト・ICE(アイス)のスキャンダルなんてどうかしら」
その瞬間、俺の喉元に尖ったナイフが突き付けられた。間違いない。この女は俺のことを知っている。初めから俺の正体に気付いている。
思わず悪寒が走り、胃がせり上がり、全身が締め付けられた。
南と秋本は揃って眉間に皺を寄せ、訝しげに細井の横顔を見つめていた。
つまりこれは事前に示し合わせていない、細井のアドリブということだ。
「どう思う?」細井は俺の目を見て訊いている。
「ねえ、どう思っているの、黒木さん――」
真鍋が口を開けて俺を見た。南は刃物のような眼光で俺を睨み付け、秋本は間抜け面で細井に向き直った。
「社長、こいつと知り合いなんすか」
「知り合いというほどでもないわ。大昔、私が一方的に熱をあげてたってだけ。この人は見向きもしなかったけど――。現に今だってほら、この顔見て。私が誰なのかてんでわかってないって顔でしょ」
動揺が隠せなかった。確かに思い出せない。この女の顔にまるで覚えがない。流行りのスポーツエージェントと格好を付けたところで、所詮芸能プロダクションの一つに過ぎない。つまりは細井自身もマネージャー出身なのだろうが、今と違って昔は業界全体に女性マネージャーが少なかったし、とりわけ総映グループには一人もいなかった。
「どういうことか説明せんかい」南が静かに凄んだ。
隣の真鍋も耳元で囁いた。「どういうこと?」
俺は答えずにただ首を横に振った。
細井はじっと俺を見つめ、少し傷付いたような表情で二、三度瞬きした。
「あら、いやだ。本当に覚えてないんだ。もしかしたらこの記者さんにも話していなかったの? もとはうちのグループきっての敏腕マネージャーだったってこと――。そうよね、黒木鐘一さん」
真鍋が素っ頓狂な声を上げて俺を見つめた。
「え? マネージャー? 本当に?」
細井は意地の悪そうな笑顔で頷いた。
「総映グループが最も勢力を拡大した時代の、中心的なプロダクションのチーフマネージャーだったのよね。……その事務所、今はもうないけど。そうよね?」
俺は質問には答えずに黙ったまま目を逸らした。
その時、背後に人の気配を感じて振り向いた。バーカウンターのそばに髪も髭も白い壮年の白人男性が立っていて、一瞬だけ目が合った。
その顔に見覚えがあった。七十年代のR&Bシーンをリードしたファンクバンドのトロンボーンプレイヤーだ。男はこちらに向かって柔和に微笑むと、スツールに腰を降ろした。
このホテルは西麻布の著名なジャズクラブに出演する外国人アーティストの定宿としても知られているから、決して珍しい光景ではないのだろう。
細井は炭酸水を一口、グラスから直に飲んでテーブルに置いた。
隣の秋本の顔にはショックがありありと浮かんでいる。目の前のこの男が元総映グループのマネージャーだったなどとは俄かに信じ難いのだろう。
真鍋は俺の横顔と細井を交互に見ながら、恐る恐る言った。
「さっき確か、ICEのスキャンダルがどうとか」
「そうよ。もし竹廣の記事を抑えてくれるなら事細かに教えるわ。ついでにボツにした分の原稿料として百万円支払う。……どう? 悪くない取り引きでしょ」
餌を喉奥まで飲み込んだ真鍋は、俺の表情を気にしながらも、恐らく金の勘定を始めている。
トロンボーンプレイヤーが咥えたシガーの馨しい香りが、我々の席までゆっくりと漂ってきた。甘く濃厚で豊潤な香り。俺も煙草ではなく、シガーが欲しくなった。
視線を前に戻す。そこには細井圭子の涼しげな眼差しと、南のドスの効いた鋭い眼光、無理に作り笑いを浮かべた秋本の赤ら顔があった。
皆、真鍋の次の言葉を待っている。その真鍋は憮然とした表情のまま立ち上がった。
「行こう、阿鐘(アジョン)
これには驚いた。龍傑ではなく真鍋が俺を〈阿鐘〉と呼ぶとは。 
「皆さんのお望みの通り『実話ダイナマイト』は来週木曜日に発売されます。定価は確か六百五十円だったかな。ちょっと高いですよね。でも大丈夫。買っていただかなくても、ちゃんと見本誌をお届けしますから。取材協力のお礼に」
それでは失礼――。そう言って歩き去っていく真鍋。俺は呆れて首を傾げた。
「で、ここの支払いは」
秋本が馬鹿にしたように鼻を鳴らし、右手で追い払う仕草をした。
「ああそう。じゃあコーヒー、ご馳走様」
俺も真鍋に続いてシガーバーを後にした。背中に細井圭子の視線を感じながら――。

ホテルの駐車場を出て道なりに坂道を下って行った。
逆光の西陽が眩しい。バックミラーの中には後部座席で気分良さげに寛ぐ真鍋の姿があった。
ホテルカシモトへの行きしな、助手席に乗ろうとした真鍋に後ろに座るよう言った。真鍋はこんな車の後部座席に座ったらまるで取材対象の芸能人になったようで落ち着かないと言って、不機嫌そうにしていたが、今ではすっかり慣れたようだ。
「黒木さん、俺さ、いつか松尾であんたに言ったよな。堅気でも筋者でもない不思議な人だって。……芸能プロダクションのマネージャーだったなんて、俺の読みも満更じゃないだろ? 芸能界(ギョーカイ)なんてまさしく白と黒と中間、グレーゾーンだもんな」
俺はバックミラーに向かって懇願した。
「今日、聞いたことは黙っておいてくれないか。人に知られて得することは何もない」
「ああ、わかったよ。……でもなんで辞めたんだ?」
その質問は受け流した。ただ運転に集中する。
「黙秘権か。まあいいや」
桜田通りは交通量が多く少し進みが遅い。辛抱強く待ってから虎ノ門を右折し、新橋から築地へ抜けるルートを選択した。再びバックミラーの中の真鍋と目が合う。
「いい女だったな、あの女社長。黒木さん、本当に覚えてないの?」
「ああ、覚えていない。……そんなことよりあれで良かったのか?」
「何が?」
「金だよ。提示された百万円」
「ああ、そりゃあ喉から手が出るほど欲しいよ。欲しいけどさ。俺にも売れるものと売れないものがある」
「へえ、格好いいな。見直したよ」
「まあね。そんなことよりICEのスキャンダルが気になるな。……黒木さん、もちろん心当たりがあるんだろ?」
「悪いが、ついでにそいつも忘れてくれないか」
「おい!」途端に真鍋は大声をあげて、シートから身体を起こした。「いやいや待ってくれ。そりゃないって。あの女社長の口ぶりじゃ、ICEのスキャンダルはあんたが知っていそうだったから、俺はイチかバチか格好をつけて啖呵を切ったんだ。百万円よりそっちを取ったんだ」
「済まない」
「済まないだって? ああ、勘弁してくれよ」
車は坂道を下って昭和通り地下道へと侵入して行った。ほのかな薄暗さが心地良い。車のスピードに合わせて、天井の隙間から射す太陽の光と影が交互に繰り返され、幻想的だった。窓を少しだけ開けると、空気を切り裂く音が車内に流れ込んで来た。
その中に入り混じる甲高い笑い声――。気のせいじゃない。バックミラーを見る。真鍋には聞こえていないのか、腕を組んだまま不貞腐れたように横を向いている。
やがて笑い声はよく知っている歌声に変わり脳裏でこだましていった。
しかしそれも束の間のことで、坂道を上がってトンネルを抜けた頃には消え、やがて静寂と眩しい光に包まれた。
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