第3回:アカネはない

文字数 1,980文字

 それから数か月しただろう。二〇二一年の夏のことだ。

 真っ昼間に。
 ピンポン! ピンポン! ガンガンガンガンッ!
 訪問者。
 在宅勤務中である。
 このパンデミックの時世、宅配も置き配を希望しているし、誰かが来るという予定もない。ちなみに私はまだワクチン接種を受けていない。アレルギー体質の私は、職域のモデルナを辞退してアストラゼネカのバキスゼブリア筋注(きんちゅう)を待っていた。
 ガンガンっ! ガシャガシャっ!
 ドアノブまで回し始める。
 しかたがないので玄関まで行ってスコープを(のぞ)けば、思いもしない想い人が居た。
 アカネである。
 ただごとではない。扉を開ける。
 飛び込んできた。
「ひーちゃんっ、ひーちゃんっ!」
 真っ赤だ。
 泣いているだけではない。アカネは酔っ払っていた。
「おカネ、ないんです!」

 アカネは大阪に帰ったものとばかり思っていた。もう帰る実家なんてない私に対して、アカネは芸能活動もやめたことだし東京にいなくてもいい。仕事がなくなって親元にいれば暮らしてはいけるはずなのだから。
 ところが、帰っていなかった。

 とにかくアカネを中に入れた。仕事中なので困るんだが。多少はゴマカシもきくが、上司からメッセージが来たときには反応しないとマズいし、なによりオンラインミーティングの時間もある。
 うちは大手町から一時間近くもある郊外の集合住宅で、間取りは2DKある。散らかっているところとか、さらにはエロいもんとかはアカネに見られたくないのだが。ダイニングに通して、飲みもんは冷蔵庫の麦茶だがそれだけは出して、いつもは見もしないテレビなんかつけて、
「ゴメン、夕方まで待っとって!」
 終業した頃には、アカネはテーブルに突っ伏して寝ていた。

 アカネのぶんまで夕食の準備をしようとし始めるとさすがに、私の物音でアカネは目覚めた。
「あれ?」
 いやいや。あれ? やないやろ!
「アカネちゃん、もう晩ごはん、レトルトやけどカレーでいいやんな?」
「あっ、せやった!」
「せやな。カレーな」

 * *

 アカネはオカネがなかった。
 アイドル現役時代もやはりアルバイトをしていたらしい。金額的にはバイトのほうがむしろ本業だっただろう。
 しかし世間はコロナ禍である。コロナ渦ではない。アカネならばホンマに「渦」と書きそうなアホなんで、しつこいようだが強調しておく。とにかく人の動きがまだ少なかった。バイト先の店にもお客さんが少ないらしく、仕事がない。飲食店ならば給付金とかあったはずだがそういう業態ではなく経営が苦しいらしく、シフトを減らされる。いくら元アイドルで顔も体力もそこそこあるとはいえ(いや、顔はもっとあるんだが!)、女手(おんなで)で Wolt とかやるのも無理があったろう。だから収入が足りないんだが、都内にワンルームを借りている。家賃が払えなくなりそうだという。
 なんで大阪に帰らへんのか? ということは訊かなかった。空気は読めないが、私とて脈絡(みゃくらく)は読む。
 アカネが私の住所を知っていることは不思議ではない。ファンクラブの登録情報を盗めはしなくたって、そもそもファンレターに私は住所を書いていた。郵送する封筒にもだが、中身にも。引退するときにもおそらく、ファンからもらったあれやこれやを持って帰ったに違いない。
 そこはそれ。重要なのはなぜ、ピンチのこのときに駆け込んだのが私のとこらだったのか、ということである。脈がある。脈どころではない。「なんで大阪に帰らへんねん?」なんて尋ねでもしたら私の自滅である。

「オカネのことは、とりあえず私が貸したげるからな。なんや、これでもそこそこ収入あるし、ひとり養えるくらいや」
 それは実際にはさすがに大きく出過ぎで見栄(みえ)を張ってもいたのだけれども、アカネの心配を解こうと、かるーく笑って飛ばした。
「さすが、ひーちゃんやー」(泣)
 また泣きつかれた。
「ほんで、うち帰るか? それとも泊まってくか? もう泊まっていったらええで。うち、ムダに広いし」
 しばし黙って悩んでいる様子だったアカネだが、
「ええのん?」
「なんやったら一生泊まっていくか?」
「なにそれ」すげないツッコミだったが、アカネは泣きながら笑っている。顔が赤いのはアルコールのせいでも、ましてやアセトアルデヒドでもないだろう。
「あいもかわらず私はアカネちゃんが好きやからな」
 アカネがまた黙っている。
「付き合うて、くれますか?」

 正式に交際を申し込むとアカネは言った。
「ウチ、女のコも好きなんですけどイイですか?」
 それは全く構わない。私が嫌いだということではないのだ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」

「ほんで、今晩はカレーな」

 * *

 しかし、世間は絶叫パンデミック中ということもあり、交際はスローペースだった。
 そして一年前、二〇二二年のハロウィンシーズンのこと――

〈つづく〉
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