第二話「遭遇」
文字数 3,969文字
森の底にはあまり日が届かない。それでもどうやら夜が明けたらしい。鳴き交わし始めた鳥の声にそれを知った。エリスもそれで気づいたのだろう、フィリアにもたせかけていた頭を上げる。
「おはよう、エリス」
「おはよう、フィリア。もう、夜は終わったのよね?」
「そんな時間のはずだよ。まあ、明るくなるにはもう少しかかりそうだけど」
二人は頭上を見上げた。枝葉はこれでもかと生い茂り、とどめとばかりに蔓性の植物が枝の間を埋めていた。少しばかりの陽光も逃さない、という感じだ。生命力が旺盛なのは羨ましいばかりで結構なことだが、今の二人には少々都合が悪い。
まあ、申し訳程度の白んだ空が見えるだけでもよしとしよう。夜明け前と来たら、自身の指すら見えないほどの濃い暗闇がべったりと貼りついていたのだから。
「もう少し明るくなるまで待つしかないね」
「なるかしら」
「なるさ、ほら、苔が生えてるもの」
フィリアが座っているところも、その周辺の土や石にも、周辺の木々の幹にも。柔らかな苔がしっかりと零れ落ちる日光を待ち構えていた。水分が豊富なのだろう。この分なら身を横たえてしまってもよかったかもしれないな、と思った。寝床の柔らかさなど自動人形には関係のないことだったが、エリスにとっては違うだろう。そうであって欲しかった。
結局のところ、足元がはっきりと見えるほどの光を二人が得たのは正午が目前となる頃合いだった。といっても、来た道に戻れないという事はずっと前に判明していた。フィリアが転がり落ちた斜面はフィリアが感じていた通りに長く、そして感じていたよりも急だったのだ。あれは降りるのは(そして転がり落ちるのは)可能でも、子供の体格で安全によじ登るのは不可能だ。全貌が見えさえすれば明るくなるのを待つまでもなく、明白な事実だった。
だから、二人に出来ることは一つ。先に進むことだけだ。
先に進む。そして人里に出るなどして、現在地を正しく把握する。バーソロミューの提示した経路 に合流するにしても、別の経路で錬金術師の住まうアーグルトンに進むにしても、まずはその手順 が必要だ。エリスの躰のことがある以上、ずっと人間から遠く隠れているわけにはいかない。どこかの段階で人間の協力者が必要になる。
そのことはエリスもよくわかってくれていた。植え付けられた恐怖までは隠しきれていなかったが、それでも覚悟は決めてくれていた。十分明るくなったと言ってフィリアよりも先に立ち上がった程だ。
「行きましょう。きっと、降りて行けば何かにぶつかるもの」
「そうだね、気を付けて降りよう」
「昨晩のあなたみたいにならないように?」
「あれは忘れてくれ」
声を掛け合い、時に手を取り合い、平坦でしっかりした足場を探して傾斜を降りていく。フィリアが先で、エリスが後だ。エリスは反対したが、また落ちた時に彼女を巻き込んだら洒落にならない。でも、逆ならどうとでもなる。
垂れ下がる枝に阻まれ、奔放に伸びる蔦に助けられ。眼前を翻る蝶々の舞いにに導かれるように、遠く響く獣の遠吠えから逃れるように。どうにかこうにかして二人は獣道へと出た。急に明るくなった視界に目を上げれば、昼下がりの太陽が頭上に輝いている。教会ではずっと地下で過ごしていたから、実に久しぶりの青空だ。エリスを見れば、眩しそうに細めた目を擦っていた。目が慣れるのを待って、さらに先へと進む。足場と視界がよくなったからか、そこからは早かった。人間に活用されていそうな道に出たのは夕暮れ時だった。そこから先はもっと足取りが軽くなった。
道を歩くうちに轍の後を見つけたときは胸の歯車の回転が否が応でも速くなった。この標が意味するところをエリスに教えるのも全く苦に感じることなく、自然と熱心になっていたようにも思う。もっとも、大した苦労がなかったのはエリスが馬車の絵を見た事があったからかもしれない、「四本足で歩く力の強い動物が存在する」という所から始まっていれば、もう少し苦労していただろう。
現在でこそフィリアの行動基準は「バーソロミューとの約束を果たす」に設定されている。そのためなら地下に隠れ住まう事も森の中に身を潜めることも迷うことなく選んできた。だが、それ以前の大前提、基本原理 として、フィリアの思考回路には「人と関わり、人を知り、人に近づけ」という命令文 が深く深く刻み込まれてる。この二つが一致した今、フィリアの機構は軽く調子よく回っていた。
人間で言えば、「浮かれていた」のだろう。その気分はエリスにも伝染していた。そして、レーザーのように互いに共鳴し、増幅していた。そして、黄昏の果てに長く伸びた人影を見つけたときには最高潮に達していた。
足取りも軽く、二人はその旅人と思しき人影に近づいた。近づいて、決めていた段取りのとおりに「すみません」と声をかけるつもりだった。
しかし、少女たちが口を開くより前、歩み寄った時点で旅人はこちらに眼を向けた。そして目を見開き、「ひい」という怯えた声と共に一歩後ずさった。生まれて初めて獣を目にした幼い少女みたいだな、とフィリアは思った。思った次の瞬間、男はくるりとこちらに背を向け、彼の全速力で逃げ出してしまった。とうてい子供の足では追いつけない速さだった。
取り残されたフィリアはエリスと顔を見合わせた。そこに立っていたのは、異様な有様の痩せた人の形をした「何か」だった。元は美しかったはずの、短期間でぼろぼろになった衣服。本当に赤く暖かい血液が下に流れているのか疑わしくなるような青ざめた肌。人が持っているべき色素をいっさい宿さない白く透き通った髪。そして、血の色を透かして黄昏を映すような、不吉なまでに紅い瞳。どこをとっても、普通の人間の子供とはかけはなれた姿だ。
エリスの瞳に映るフィリアの姿も似たようなものだろう。
人は自分と中途半端に似ていて、それでいて異なった存在を本能的に恐怖するらしい。不気味の谷というやつだ。その話は人形たちの塔でも何度か耳にしたことがあった。造物主が何度かその言葉を口にしていた、という話だ。我等の父はその時何を考えていたのだろう。勿論、造られた身にそんな事が推し量れる筈もないから、すぐ目の前の現実に志向を戻すことになったが。
「……少なくとも、あっちから来てあっちに逃げ帰ったんだ。このまま進めば何らかの拠点には行き着くはずだよ」
「その先でも同じことにならないかしら」
「最初の一人で諦めるのは早いよ」
四十年の試行錯誤 については、考えないようにした。
次に人影を見つけた時には夜になっていた。フィリアが躯体回路の一部をスパークさせて再点灯した警告灯の炎が色を変えたから、二人はそれを前もって知ることが出来た。どうやら警告の効果は教会を遠く離れても持続していたらしい。一歩後ろに下がってみれば、炎は色を赤く戻した。この先で静止しているということだ。
「どうする? 先に様子を見てこようか?」
「様子を見るのは賛成。一緒に行きましょう」
フィリアは改めてエリスを見た。夜の暗さの中でなら、多少は人間の子供らしく見えるかもしれない。人間はある程度無力そうな存在に大して優しさを見せるものだ。その対象に入り込めればいいのだが。フィリアは頷き、先へと進んだ。
蒼い炎が照らす道をしばらく歩くと、Y字の形の合流地点に出た。別の道から来た轍が、先へと続いている。深さから見るに、最近つけられたものだ。十中八九この先にいる人物のものだろう。この先に拠点となる村か何かがあるか、あるいは道の途中で夜を明かす事を選んだか。視界の悪い夜にわざわざ移動するのはよほど急いでいる者か、人から隠れなければならない事情を持った者だけだ。
「何か聞こえない?」
ぽつりとエリスが呟いた。足を止め、聴覚にリソースを集中させる。前方から、遠く歌声のようなものが聴こえてきた。フィリアの知らない言語の歌だった。
「……本当だ。何の歌だろう」
「わからない。でも、お父様の歌に似ている」
バーソロミューが歌うところを聞いたことはなかったが、子守歌だろうか。動かぬ人形として飾られていた頃、何度か母親が幼子に歌い聞かせる場面に立ち会ったことがある。曲調は似ているかもしれない。それに、言われてみれば声の質も彼に似ているような気がした。
逸るエリスを抑えて物陰から様子を伺う。男が一人、月を見上げて歌いながら焚火の番をしていた。傍らには幌馬車とテントが一つずつ。行商人らしい。テントの規模からみて、連れは一人か二人というところだろう。護衛か、それとも旅連れか。腕の立つ護衛でなければいいのだが。フィリアは再びシミュレートを走らせる。
先程の旅人とは決定的に違う点があった。この状況では、相手は逃走を選べない。こちらに恐怖を感じた場合、向こうは闘争しか選べないのだ。逃げ出してしまえれば追ってくる可能性は低そうだったが、油断は出来ない。
あるいは、彼らから身を隠したまま後を追跡するという手もあるわけだ。行商人ならば村や街へ辿り着く筈なのだから。その方がリスクは低い。そこまで考えて、フィリアはエリスの方を見た。彼女は男の横顔を食い入るように見つめていた。父の面影を探しているのだろうということはすぐにわかった。 フィリアは全ての計算と推測を話し、判断を委ねた。フィリアが危険だと判断したら直ぐに逃げ出すという条件付きで、二人は行商人と接触する事にした。
そっと二人は歩いていく。男はまだこちらに気づかない。歌が途切れたら少し嫌だな、と思った。
「おはよう、エリス」
「おはよう、フィリア。もう、夜は終わったのよね?」
「そんな時間のはずだよ。まあ、明るくなるにはもう少しかかりそうだけど」
二人は頭上を見上げた。枝葉はこれでもかと生い茂り、とどめとばかりに蔓性の植物が枝の間を埋めていた。少しばかりの陽光も逃さない、という感じだ。生命力が旺盛なのは羨ましいばかりで結構なことだが、今の二人には少々都合が悪い。
まあ、申し訳程度の白んだ空が見えるだけでもよしとしよう。夜明け前と来たら、自身の指すら見えないほどの濃い暗闇がべったりと貼りついていたのだから。
「もう少し明るくなるまで待つしかないね」
「なるかしら」
「なるさ、ほら、苔が生えてるもの」
フィリアが座っているところも、その周辺の土や石にも、周辺の木々の幹にも。柔らかな苔がしっかりと零れ落ちる日光を待ち構えていた。水分が豊富なのだろう。この分なら身を横たえてしまってもよかったかもしれないな、と思った。寝床の柔らかさなど自動人形には関係のないことだったが、エリスにとっては違うだろう。そうであって欲しかった。
結局のところ、足元がはっきりと見えるほどの光を二人が得たのは正午が目前となる頃合いだった。といっても、来た道に戻れないという事はずっと前に判明していた。フィリアが転がり落ちた斜面はフィリアが感じていた通りに長く、そして感じていたよりも急だったのだ。あれは降りるのは(そして転がり落ちるのは)可能でも、子供の体格で安全によじ登るのは不可能だ。全貌が見えさえすれば明るくなるのを待つまでもなく、明白な事実だった。
だから、二人に出来ることは一つ。先に進むことだけだ。
先に進む。そして人里に出るなどして、現在地を正しく把握する。バーソロミューの提示した
そのことはエリスもよくわかってくれていた。植え付けられた恐怖までは隠しきれていなかったが、それでも覚悟は決めてくれていた。十分明るくなったと言ってフィリアよりも先に立ち上がった程だ。
「行きましょう。きっと、降りて行けば何かにぶつかるもの」
「そうだね、気を付けて降りよう」
「昨晩のあなたみたいにならないように?」
「あれは忘れてくれ」
声を掛け合い、時に手を取り合い、平坦でしっかりした足場を探して傾斜を降りていく。フィリアが先で、エリスが後だ。エリスは反対したが、また落ちた時に彼女を巻き込んだら洒落にならない。でも、逆ならどうとでもなる。
垂れ下がる枝に阻まれ、奔放に伸びる蔦に助けられ。眼前を翻る蝶々の舞いにに導かれるように、遠く響く獣の遠吠えから逃れるように。どうにかこうにかして二人は獣道へと出た。急に明るくなった視界に目を上げれば、昼下がりの太陽が頭上に輝いている。教会ではずっと地下で過ごしていたから、実に久しぶりの青空だ。エリスを見れば、眩しそうに細めた目を擦っていた。目が慣れるのを待って、さらに先へと進む。足場と視界がよくなったからか、そこからは早かった。人間に活用されていそうな道に出たのは夕暮れ時だった。そこから先はもっと足取りが軽くなった。
道を歩くうちに轍の後を見つけたときは胸の歯車の回転が否が応でも速くなった。この標が意味するところをエリスに教えるのも全く苦に感じることなく、自然と熱心になっていたようにも思う。もっとも、大した苦労がなかったのはエリスが馬車の絵を見た事があったからかもしれない、「四本足で歩く力の強い動物が存在する」という所から始まっていれば、もう少し苦労していただろう。
現在でこそフィリアの行動基準は「バーソロミューとの約束を果たす」に設定されている。そのためなら地下に隠れ住まう事も森の中に身を潜めることも迷うことなく選んできた。だが、それ以前の大前提、
人間で言えば、「浮かれていた」のだろう。その気分はエリスにも伝染していた。そして、レーザーのように互いに共鳴し、増幅していた。そして、黄昏の果てに長く伸びた人影を見つけたときには最高潮に達していた。
足取りも軽く、二人はその旅人と思しき人影に近づいた。近づいて、決めていた段取りのとおりに「すみません」と声をかけるつもりだった。
しかし、少女たちが口を開くより前、歩み寄った時点で旅人はこちらに眼を向けた。そして目を見開き、「ひい」という怯えた声と共に一歩後ずさった。生まれて初めて獣を目にした幼い少女みたいだな、とフィリアは思った。思った次の瞬間、男はくるりとこちらに背を向け、彼の全速力で逃げ出してしまった。とうてい子供の足では追いつけない速さだった。
取り残されたフィリアはエリスと顔を見合わせた。そこに立っていたのは、異様な有様の痩せた人の形をした「何か」だった。元は美しかったはずの、短期間でぼろぼろになった衣服。本当に赤く暖かい血液が下に流れているのか疑わしくなるような青ざめた肌。人が持っているべき色素をいっさい宿さない白く透き通った髪。そして、血の色を透かして黄昏を映すような、不吉なまでに紅い瞳。どこをとっても、普通の人間の子供とはかけはなれた姿だ。
エリスの瞳に映るフィリアの姿も似たようなものだろう。
人は自分と中途半端に似ていて、それでいて異なった存在を本能的に恐怖するらしい。不気味の谷というやつだ。その話は人形たちの塔でも何度か耳にしたことがあった。造物主が何度かその言葉を口にしていた、という話だ。我等の父はその時何を考えていたのだろう。勿論、造られた身にそんな事が推し量れる筈もないから、すぐ目の前の現実に志向を戻すことになったが。
「……少なくとも、あっちから来てあっちに逃げ帰ったんだ。このまま進めば何らかの拠点には行き着くはずだよ」
「その先でも同じことにならないかしら」
「最初の一人で諦めるのは早いよ」
四十年の
次に人影を見つけた時には夜になっていた。フィリアが躯体回路の一部をスパークさせて再点灯した警告灯の炎が色を変えたから、二人はそれを前もって知ることが出来た。どうやら警告の効果は教会を遠く離れても持続していたらしい。一歩後ろに下がってみれば、炎は色を赤く戻した。この先で静止しているということだ。
「どうする? 先に様子を見てこようか?」
「様子を見るのは賛成。一緒に行きましょう」
フィリアは改めてエリスを見た。夜の暗さの中でなら、多少は人間の子供らしく見えるかもしれない。人間はある程度無力そうな存在に大して優しさを見せるものだ。その対象に入り込めればいいのだが。フィリアは頷き、先へと進んだ。
蒼い炎が照らす道をしばらく歩くと、Y字の形の合流地点に出た。別の道から来た轍が、先へと続いている。深さから見るに、最近つけられたものだ。十中八九この先にいる人物のものだろう。この先に拠点となる村か何かがあるか、あるいは道の途中で夜を明かす事を選んだか。視界の悪い夜にわざわざ移動するのはよほど急いでいる者か、人から隠れなければならない事情を持った者だけだ。
「何か聞こえない?」
ぽつりとエリスが呟いた。足を止め、聴覚にリソースを集中させる。前方から、遠く歌声のようなものが聴こえてきた。フィリアの知らない言語の歌だった。
「……本当だ。何の歌だろう」
「わからない。でも、お父様の歌に似ている」
バーソロミューが歌うところを聞いたことはなかったが、子守歌だろうか。動かぬ人形として飾られていた頃、何度か母親が幼子に歌い聞かせる場面に立ち会ったことがある。曲調は似ているかもしれない。それに、言われてみれば声の質も彼に似ているような気がした。
逸るエリスを抑えて物陰から様子を伺う。男が一人、月を見上げて歌いながら焚火の番をしていた。傍らには幌馬車とテントが一つずつ。行商人らしい。テントの規模からみて、連れは一人か二人というところだろう。護衛か、それとも旅連れか。腕の立つ護衛でなければいいのだが。フィリアは再びシミュレートを走らせる。
先程の旅人とは決定的に違う点があった。この状況では、相手は逃走を選べない。こちらに恐怖を感じた場合、向こうは闘争しか選べないのだ。逃げ出してしまえれば追ってくる可能性は低そうだったが、油断は出来ない。
あるいは、彼らから身を隠したまま後を追跡するという手もあるわけだ。行商人ならば村や街へ辿り着く筈なのだから。その方がリスクは低い。そこまで考えて、フィリアはエリスの方を見た。彼女は男の横顔を食い入るように見つめていた。父の面影を探しているのだろうということはすぐにわかった。 フィリアは全ての計算と推測を話し、判断を委ねた。フィリアが危険だと判断したら直ぐに逃げ出すという条件付きで、二人は行商人と接触する事にした。
そっと二人は歩いていく。男はまだこちらに気づかない。歌が途切れたら少し嫌だな、と思った。