第九章

文字数 7,659文字

第九章

翌日。

「理事長、電話です。」

女性従業員がそういいながら入ってきたので、ジョチはおもわず驚いてしまうのである。

「電話なら、社長である敬一を通すべきでは?」

「そうなんですけど、理事長個人にお話があるそうなのです。」

「はあ、そうですか。個人にお話があるって、一体誰から電話なんでしょうね。」

「はい、生田記念病院の院長さんからだそうですが、、、。」

「あ、わかりました。どうぞ。」

またかあ、、、。と思いながらとりあえず電話のある事務室に行った。

「はい、お電話変わりました。御用は手短にどうぞ。」

「あ、おはようございます。理事長。実はですね、今日はお願いがあって電話をおかけしまして。」

電話をかけている、生田記念病院の院長は、まだ昨年院長に就任したばかりなので、前代の院長が名誉院長として病院に残り、彼を補佐する役職をしているのであるが、二人は、対立が絶えないとして、有名なのである。

「なんですか。お願いなんて、どうせ大したことないでしょ。」

確かにこの院長のいうことは大体、色んな意味で大したことはない。ただ、院長の側にとっては、重大なことになっているらしい。そのギャップを埋めるのは非常に苦労する。

「いや、大したことなんですよ。実はですね、うちの病院で経営している、障害者施設であります、支援センター竜宮を買収してもらってくれませんか。何しろ、極度の赤字経営で、困っておりますので、、、。」

「なんですか、それ。困ります。僕らは病院におかねを出してやる、何でも屋ではありませんよ。勝手に病院の勝手で誰かに経営権を売り渡して、利用している人はどうなるんですか、いい迷惑でしょう。それを考えてあげてから、買収を持ちかけてくださいね。」

「いや、いい迷惑なんて、思えるんですかねえ、あの人たち。」

と、馬鹿にしたように言う院長。

「もう、院長さん。そういう言い方はやめたほうが良いのではありませんか。いくらあそこを利用している人たちが、重度の障害者であるからって、ごみみたいに捨ててしまうのは、どうかしていますよ。ちゃんと耳鼻科にきている患者さんたちと同じように扱うべきではないのでしょうか。それとも、耳鼻科だけに特化した病院にしたいということですか?」

「そういうことはかんがえておりませんよ。ただ、病院が深刻な赤字経営ということは理解していただけないでしょうかねえ、、、。」

口ごもる院長さん。

「だったら、昨年の新病棟建設はなんだったんでしょうか?あれのお陰で病院も経営が改善したのではないですか?」

「そうなんですよ。だから、新病棟の建設をして、少しでも赤字経営を改善しようと思ったんですけどね。丁度近隣に、別の病院が建設されてしまいまして、全く効果なしでありまして、、、。」

「はあ、なんですか。そんなこと一度も聞いておりませんよ。弟の話によれば、これからの生田記念病院は順調に経営を続けていくから、そのために新病棟をと言っていたそうですね。なんですか、それも全部、経営のためだったということですか。全くあてになりませんね。そのようなところに買収なんかする気は毛頭ありません。その計画なんて、どうせ、院長が勝手にやっているだけのことでしょう。利用者にもその家族にも知らせていないのでしょう。そんな計画、受け入れることはできませんよ。もし、どうしても必要なのなら、名誉院長と話し合って、しっかり許可を貰ってきてからにしてください。」

これを言えば、院長を黙らせる唯一の切り札だった。院長が一番苦手だとわかっているものは、名誉院長である。この名前を出せば、院長はがっかりして、何もいえなくなってしまう。

「曾我理事長、当の昔に世代交代したじゃありませんか。そんなに名誉院長の方がよくて、自分のことは信用できないんですか。」

「世代交代?何を言っているんです?先生が院長になって一年しか経っていないじゃありませんか。そんなこと、僕達からみて、おむつが取れたばっかりです。そのくらいしかみえません。まだまだ名誉院長の助けがなければ、できるはずもないですよ。とりあえず、このたびの買収には応じませんから。あと、病院の経営権を持っているのなら、呼吸器内科のあの医者を解任することに、もっと目を向けてください。あの医者のせいで、病状が悪化して、困っている患者がどれだけいることか。しまいには、江戸時代からタイムスリップなんて発言して、哀れな思いをされている患者だっているそうですね。そんな暴言を吐くような医者をおいておく病院なんて、信用できませんよ。」

呆れたというか、もういい加減にしろという口調で、院長の弁解なんか聞く気にもならず、電話を切ってしまった。

確かに、病院側にとっては深刻な悩みなんだろうなと思う。それは仕方ないことだろう。一応、病院も事業なので、ある程度こういう事も必要になってくると思う。もしかしたら、泣く泣く施設を手放さなければならないのかも知れないし。でも、一患者としてみてみると、患者として必要なことが、どんどん切り離されてしまうような気がする。

患者としてみれば、ああいう酷い医者に診られるのは嫌で仕方ないと思う。だけど、病院の側から見たら、酷い医者でも入れておかないと、病院の面子が立たないんだろうと思う。でも、一番の被害者は誰なんだろうなと考えると、複雑な気持ちになってしまう。



「水穂さん大丈夫ですか。いくら薬に頼っても、これじゃあだめじゃないですか。いくら薬飲んでも、切れたら直ちに振り出しに逆戻りだ。もう、こうなったら、ちゃんとやったほうが良いんじゃありませんか。ジョチさんが、体調が落ち着くまでここにいてくれていいっていいますけど、これじゃあ、いつまでたっても製鉄所に帰れませんよ。」

咳き込んでいる水穂に、ブッチャーが一生懸命説得しているが、果たして説得に応じられるかどうか、わからなかった。

「そうかといって、病院にはいきたくないんでしょ。また江戸時代からタイムスリップなんていわれると嫌なんでしょう。まあ、医者ってのは、子供の頃から頭が良くて、ちやほやされてばっかりいるような存在ですからね。こういう、人の気持ちなんてわかんないんですよ。それを頭に入れて、割り切って考えないと病院とのお付き合いはできませんよ。」

返答が返って来る代わりに咳が返って来るのが、なんとも情けないというか、悲しい一面だった。

でも、ブッチャーは、いい加減にしてくれとか、そういう発言はしないと誓っていた。

「もう、おつらいのは見えてます。もし、医者がひどいことを言って、傷つくのなら、俺が愚痴を聞きますから、一度でいいから病院に行ってくれませんか!」

「いやです!」

弱弱しく、でもはっきりと返答が返ってきた。

「だけど、、、。」

自分も、あきらめがよかったら、こんなに苦しむこともないだろうなと思いながら、ブッチャーはとりあえず、水穂に薬をあげた。当然のごとく、これによってやっと眠ってくれるので、しばらくそばに付きっ切りという必要もなくなる。予想した通り、眠ってくれたなとわかったので、ブッチャーは頭を抱えながら、部屋を出て行った。



同じころ、ひたすら施設の買収を懇願する院長と、つまらないガチバトルをして、答えはまた後で出しますと、とりあえず言って電話を切ったジョチは、頭をかじりながら部屋から出てくると、

「兄ちゃん、ちょっときてくれないかな。」

杉三から、チャガタイと呼ばれてしまって、従業員からもそれがあだ名として定着している敬一が、反対方向からやってきてそういった。

「どうしても聞いてほしい相談があるんだってさ。俺だけでは解決できないから、兄ちゃんの意見を聞かせてもらえないかな。」

と、言われるがままに別の部屋に入ると、テーブルにブッチャーが大きな体を小さくして座っていた。人間は悩みがあると、小さくなってしまうようである。

「何ですか、相談事って。」

「はい、何とかして説得してもらえないでしょうか!俺、もう我慢ができなくなってしまいました!」

「我慢できないって。」

「はい、水穂さんのことです。何とかして病院まで行ってもらいたいんですけど、頑として受け付けてくれないんですよ!もう、こっちが幾ら言っても、何を言っても糠に釘なまんまで、もう俺は辛くてたまりません。かといって、病状は悪化する一方ですし、もう、見ていると辛くてたまらないんですよ!誰もわかってくれない俺の気持ち!杉ちゃんに話しても、そういう人だからあきらめな、しかいわないし、、、。」

ブッチャーの目には大粒の涙があふれているので、多分嘘偽りもない、哀しみなのだろうとわかる。

「君の気持ちはわかるけど、本人の同意がなければ、病院には連れていけないし、強制的に入院させることはできないんだよ。精神科とかそういう特殊な科じゃなければ、家族がお願いして入院させることはできないって、法律で決まっちゃっているんだから。もし、どうしても入院させたければ、なんとしてでも説得して、納得してもらうことだな。」

チャガタイは、ブッチャーの肩をポンとたたいた。

「そうですが、いくら法律で決まっているからって、それを解いてくれるものはないのですか!このままだと、水穂さんも、帰らぬ人になっちゃいますよ。そうなったら俺、どうしたらいいか。姉ちゃんが自殺を図った時、俺はもう死ぬかと思いましたが、おんなじ思いを水穂さんで体験するなんて、あんまりというかなんというか、、、。」

「優しいねえ。ブッチャー君。実は俺もそう思うんだよ。だって、おかしいだろ。あんなに重症でありながら、苦しいとも何一つ言わない。もちろん、患者として、不満を口にしないというのは、医者から見たら優秀な患者かもしれないが、それにしては従順過ぎだ。それに、薬のことだって、副作用のこととか、本当に何も言わないで、ひたすらにもらったもんを飲んでいるだけだし。兄ちゃんの時は少なくともそうじゃなかったよな。そうだろう?」

チャガタイがそう質問して、やっと我に返るジョチであった。

「そうですね。僕の時は、母がすぐそばにいたのも事実なので、医者に対してもう、文句たらたらでしたね。母は、それでちゃんとした医療を受けているって、堂々としてましたけど、僕にとってみては、恥ずかしいだけで、何もありませんでしたよ。」

「いや、患者というのは、それでいいんじゃありませんか。俺は別にそれで悪いこととは思ってません。患者なんですから。医者はしっかり治療する義務があるわけですから、それを放棄して、ただの商売道具にしてしまうのは、いけないことだと思いますしね。だから、別に文句たらたらの患者でいいじゃないでしょうか。俺はそう思います。」

「そうだよう。医者が、厄介な患者と思えば思うほど印象に残って、病院を変革するきっかけになることもあるから。かえって、昔は死病として君臨していた病気の患者が、病院にやってきたなんて、病院側もいいほうに向かってくれるんじゃないのかな。」

「まあ、そことは病名がちょっと違うんですけど、でもねえ、水穂さんには歴史的な事情があるのです。ただ、俺はそれを口にしてしまうと、水穂さんがあまりにもかわいそうで、言えないですよ、、、。」

気持ちが優しいブッチャーは、どうしても歴史的な事情というものを、二人に話すことができないでいた。

「まあ、それは割愛しましょう。そういうことは、いくら議論しても解決には至らないですから。それよりも、彼を何とかしなければならないことは、僕も認めますから、とりあえず、彼に何とかして、病院に行ってもらうように、僕たちで説得しなければなりませんね。そのためには、意見をまとめて作戦を立てる必要があります。じゃあ、まず、必要なことをまとめることから始めましょうか。まず第一にですね、ブッチャーさん。これまでの病歴とか、そういうことを話していただけないでしょうか。」

「はい。生まれ持った特徴として、、、。」

ジョチに言われて、ブッチャーが、水穂の過去を話そうと、口を開いたちょうどその時、

「おい、大変だ大変だ!早く来てくれ!もう止まんないんだよ!早く!」

バアン!とドアが開いて、杉三が飛び込んできた。

「何だよ、杉ちゃん。どうしたの?今大事な話してるんじゃないかよ。」

ブッチャーは、驚いてそういったが、

「ジョチ、お願い!君の財力で何とかあの病院まで連れて行ってやってくれ!さっきから機関銃みたいにせき込んじゃって、止まんないんだ!頼む!」

杉三はでかい声でそう怒鳴りつけた。これを聞いて、弾丸のようにブッチャーは部屋から飛び出していく。ジョチもチャガタイも顔を見合わせた。

「いこう!兄ちゃん!」

「はい!」

と、二人そろって、部屋を出て行った。

「水穂さん、大丈夫ですか!ああ、もう、これではすごいもんだ。もう、言い訳も弁解もしないでください!いいですか。今から行きますからね!」

ブッチャーは、水穂に声を掛けたが、反応は全くなく、せき込む音しか聞こえてこなかった。浴衣の襟から兵児帯にかけて、血液でぐっしょり濡れている。

「救急搬送できないかな?」

「いや、無理だ!チャガタイ!これには重大なわけがあるんだよ!もし、救急搬送して、それがばれたら、病院たらいまわしになって、逝っちゃう確率のほうが、かえって高くなる!」

チャガタイが思わずつぶやくと、杉三が急いで訂正した。

「あ、わかりました。じゃあ、一つ考えがあるんです。すぐに生田病院まで連れていきましょう。」

「しかし、兄ちゃん。午前中の診察時間はもう終わってしまったに違いないぜ。」

「いいえ、まだ三十分まえです。少なくとも、今すぐ行けば、五分くらい前には到着できると思います。それに、あの病院は、診察終了時刻の二時間先まで患者が待っていることで有名ですから、少なくとも待たせてはくれると思いますよ。」

「頼む頼む!何とかしてくれ!僕たちではどうにもできないんだ!」

「ジョチさん、俺もです!」

チャガタイが、水穂をよいしょと背負った。その間に、ジョチは運転手の小園さんに、車を出してくれるようにお願いした。

二人のこの手際よい処置のおかげで、病院の午前の診察時間が終了する五分前に、杉三たちは到着した。また、退屈そうに待っている患者たちが、異様な顔をして、さっと散っていく。逆にこれは都合がよかった。堂々と呼吸器内科の待合室にある椅子に、水穂を寝かしてやることができた。ジョチと杉三が受付に、急患のお願いをしている間、ブッチャーは水穂の脈を取った。

「しっかりしてください。もうちょっとですから、頑張って!もうちょっとですから!」

弱弱しく咳こんで、頷いてくれたようであるが、その間にも、血液だけが、とめどなく流れてくるのであった。

「水穂さん、もうだめですかね、、、。」

ブッチャーが半泣きになってそういうと、

「うるさい!ダメなんていうもんじゃない!」

と、杉三が怒鳴りつけた。

「だって、これはやばいぞ、杉ちゃん!脈が弱くなってる!」

「なんですか、あなたたち。ここは病院なんですから、そう軽々しく騒がないでください。ほかの患者さんだっているんですよ!ここで騒がれても困ります!」

呼吸器内科の診察室ががらっと開く。

「あ、あの時の馬鹿医者だな!やい、これを見ろ!お前の繰り返してきた、馬鹿な暴言の、集大成がここにいる!」

例の問題医者が出てきたので、杉三が迷いもせずに突っかかったが、やっぱり馬鹿医者なのか、その集大成のほうには見向きもしなかった。

「しかし、なんで曾我理事長まで一緒にくるんですか?」

「あ、なんでそっちのほうに目が行くのかな、、、。」

ブッチャーは思わず力が抜けてしまった。

「本当に馬鹿医者だなあ。聞いててあきれるわ!見る場所が違うよ!」

杉三が、でかい声で訂正すると、

「先生、院長にこうお伝え願えませんでしょうか。今朝、買収の電話を頂きましたが、この男性を生還させることができたら、買収の話を聞いてさしあげますと。」

ジョチは静かに言った。

暫く、しいんとした沈黙が流れるが、それも短時間で終了し、

「わかりました!すぐにこの人を手術室まで連れて行くように!」

と、馬鹿医者が怒鳴った。看護師が何人かやってきて、水穂をストレッチャーに乗せて、運んで行った。

「ジョチさん、本当にありがとうございました。ああしてくれなかったら、俺、もうどうしようもなかったです!」

ブッチャーがまさしく、顔中を涙だらけにしていったが、

「いいえ、勝負はこれからですよ。」

ジョチは、静かに笑った。



「先生!先生、大変なんです。曾我さんから、こんなファックスが入ったんですよ!すぐにあたしたちも行ったほうがいいんじゃありませんか!」

製鉄所にやってきたファクシミリを読んで、恵子さんはすぐに応接室に飛び込んだ。ちょうど、学会に提出する資料を執筆していた懍は、

「何ですか、そんなにバタバタして、、、。」

と言いながら、恵子さんから差し出された紙を受け取る。

「ああ、もう!水穂ちゃん、今頃どうしているでしょう。あたしたちもはやく支度を、、、。」

「いえ、その必要はありませんね。と、いうより、こうしなければ、彼も治療を受けてくれはしないので、かえって良かったと解釈したほうがいいですね。もし、容態が急変とかそうなれば、もっと緊急性の強い連絡方法を使うでしょう。そうではなくて、ファックスで連絡をしたのですから、多分何とかなる可能性が高いからだと思います。」

「先生、そんなのんきなこと言っていいんですか。これはだって、一歩間違えたら。」

「いえ、大丈夫ですよ。もう一度言いますが、彼は誰が説得しても拒み続けてきたのですから、かえってこうなってくれてよかったと思いましょう。それに、曾我さんは、力のある人物ですから、多少のことでは驚かないと思いますよ。曾我さんが抱えてきた、嚢胞性繊維症も、致命症の一つとして、恐れられている疾患ですから。それよりも恵子さん、せっかくのチャンスですから、畳店に電話をしてくれませんか?」

「畳?ですか?それよりも、本人の容態を確認するほうが先なのでは?」

「当り前じゃないですか。彼が戻ってきたら、当分畳を張り替えることもできなくなりますよ。」

懍は、資料の執筆を再開した。恵子さんも、そうするべきだと思って、急いで畳屋さんへ電話をかけ始めた。
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