第40話 人生の処方箋。

文字数 3,563文字

 久住は、人形に向かって髪を撫でながら、今にも途切れそうな声で、口ずさんでいた。
 
 『さ~くら、さ~くら、や~よ~いのそらに〜 』
 
 「里香… 里香… 可哀想に。すまなかった。助けてやれずにすまなかった。」
 
 
 博美がすかさず、楠健次郎の写真を見せた。
 
 「あぁ、そうだ…こいつだ…こいつなんだ。健次郎 だ。」
 
 
 久住は、写真を何度も、弱々しく拳で叩きつけた。
 
 
 「そうだ。花香は、花香は、どこ行ったんだ。私の娘、花香は。」
 
 
 久住は、博美に震える手を伸ばしてきた。
 
 
 博美は、奈美に視線を送った。
 
 奈美は、軽くうなずき、久住の目線に合う高さで、しゃがみ込んだ。
 
 そして、花香の胎毛筆を久住の前に、そっと置いた。
 
 それを見た久住の表情が和らいだ。
 
 「あぁ、これは…花香の髪。里香に、筆にすると良いって。そうか、そうか、持ってたのか…。」
 
 久住は、奈美に優しく笑いかけ、感触を確かめるように、そのおぼつかない手で、胎毛筆と奈美の髪を交互に何度も撫でた。
 
 そして、こう話しかけた。
 
 「里香はね、いつも花の香りがしてたんだ。花香は私が付けた名。里香と同じ香りがするよ。そうか、君はやっぱり花香なんだね。私は嬉しいよ…。」
 
 
 「本当に、健次郎の呪いが解けたみたいね。先生、お名前はなんて言うの?」
 
 「赤野さんか。何を聞くんだ。私は、久住…宗一郎だ。どうなってるんだ、私は。なんか、ずいぶん長く眠っていたようだ。この髭とか、手のしわ、自分も、歳を取ったんだな。浦島太郎の気分とはこのことだな。」
 
 老いて曲がった背に逆らい、頭を上げた久住は、覇気を失いながらも、その落ち着いた穏やかな声は、久住の本来の人柄を物語っていた。
 
 そして、久住は、閉じそうな瞼の隙間から、花香の姿を焼き付けた。
 
 
 
 花香が、その久住の不安定な生気を放つ眼差しを迎え入れた時、一筋の涙が、花香の紅潮した頬に伝った。
 
 
 
 「あのね、今さら何よ。犯罪者の血が流れているんじゃないっかって、ずっと苦しかったんだから。そりゃ気にしないって言ってたわよ。でもね、苦しかったんだから。関係ないって、切り離そうとすればするほど、ここが、苦しくて、辛くて。」
 
 花香は、溢れる涙も拭うこともせず、興奮気味に、胸を叩いて、そう目の前の父にぶつけた。
 
 「そうか、そうか…。苦労かけたな…。すまなかった。」
 
 久住は声を詰まらせ、白味を帯びた両手で、花香の手を握った。
 
 
 
 「ようやく、父娘の対面が出来たんだね。里香さんも、きっと喜んでるよ。先生のこと愛してたからね。」
 
 聞き覚えのある声がした。
 
 「賢先生!」
 
 奈美と博美の声が揃った。
 
 「お久しぶりです。奈美さん、博美さん。」
 
 「賢先生、でも、里香さんって、先生に無理矢理だったって…。」
 
 奈美が聞きにくい事を察して、博美が聞いた。
 
 「久住先生がそんな野蛮人だと思うかい?」
 
 「でも…、えっ、じゃ、もしかして、楠…。」
 
 博美は、楠の写真に目を落とした。
 
 「いや、いや、まさか、そんなことはないよ。先生は、立場的に世間体を気にした。里香さんは、そんな先生と結婚は出来ないって分かってた。そうなんだよ。お互いに愛し合ってたんだ。実は、里香さんは、久住産婦人科でアルバイトをしていた頃に、一緒に働いてた人に相談してたそうだよ。その方から聞いたんだ。親子ほどの年の差だろ、あの時代はねぇ、先生も勇気が無かったんだね。可哀想だったって。だから、奈美さん、えっと、ここは、花香さんだね、あなたは、里香さんと、紛れもなく久住宗一郎が愛し合って生まれた子だよ。」
 
 「そうだったんだ。そうだったんだ。私…。そうだったんだ。生まれてきては、いけない子だと、ずっと思ってきた。私、生まれて良かったんだね。」
 
 花香は、家族の写真に落ちた涙を拭き取るように、片手で何度もなぞった。
 
 「この写真が真実なのね。ママ、とってもきれい。」
 
 「奈美、いえ花香、あんな大がかりな研究なんて、必要なかったのよ。ね、それより、この桜の花の色、鮮やかになってない?」
 
 「ほんとだね、これは不思議だ。兄貴の考え、見直した方がいいね。すべてを。」
 
 賢も写真見入った。
 
 「何がなんだか、分からないけど、泣けてきたわ。綺麗な姿ね。良かった、本当に良かった。」
 
 華ももらい泣きしていた。
 
 「兄貴、この姿が真実なんだよ。私も含めて、反省しないとな。嘘のない記憶に勝るものはないってことだよ。」
 
 愼は、その場で力なく崩れた。
 
 
 「自分が今までしてきた事は、何だったんだ。こんなにも、あっさりと。今まで、この写真見せても、記憶が戻ることは無かったのに。」
 
 
 「あっさりなんかじゃないわよ。二人の素直な気持ちになれるまでの時間は必要だったと思うわ。それに、写真が先生にかかった呪いを解いたんじゃないわよ。もちろん、マスターの研究でも無いわね。奈美さんの気持ちが解けて、本当の意味での花香さんになれたことが、まるで黒魔術のような催眠で閉じ込められた先生の心を動かしたのよ。でも、マスターも、いろいろ調べてくれたおかげで、久住先生の無実が分かったから、先生が取り戻した記憶の裏付けにはなったでしょ。」
 
 
 そう言った博美たち目には、この父娘の美しい姿が、愼の愚かさを表しているように映った。
 
 赤野が語り始めた。
 
 「きれいね。嘘の無い、血の通った心の姿よね。
 
 人は、人を信じ、愛された時、心を開き、真実の姿を見せる。
 
 そう言うことなのよ。
 
 そこには、嘘は無い。
 
 嘘だらけの世の中だもの。本当に信頼出来る人と出会うのは、奇跡に近いかもしれないわね。
 
 生き方に悩んで、迷ったとき、人生に処方箋があるとすれば、自分の心の中にあるのかもね。真偽を見定め、心を許すには、時間はかかるけど、どんなに立派な処方箋に見えても、騙されてしまったたら、意味ないものね。」
 
 
 「そうね、私にとっては、博美と、高野さん、華さんたちの出会いもそうね。まぁ、副作用もあるけどね。それも含めて、私にとっては、一生の宝物…。」
 
 花香は、そう言うと、表情が一変し言葉が止まった。そして、ポロポロと大粒の涙を流した。
 
 花香の手を握っていた久住の手が静かに落ちた。
 
 「お父さん…。」
 
 
 「奈美、今、お父さんって…ね、先生、眠ったの?どうしたの?」
 
 博美たちは、涙を流すだけの花香を察し、言葉が止まった。
 
 
 
 「やっと、会えたのに、やっと、一人じゃないと思ったのに…。遠くに…行っちゃった…。」
 
 
 久住は、静かに息を引き取っていた。
 
 花香は久住を抱きしめ、人目もはばからずに泣いた。
 
 しばらくしてから、賢が、久住の穏やかな顔にそっと触れ、生命の徴候を診た。
 
 「先生は、久住宗一郎として、花香の父として最期をが迎えることが出来て幸せだったと思うよ。奈美さんが、花香として、久住先生に最高の人生の処方箋を切ったんだね。」
 
 賢の言葉に、花香は、父の耳元で囁いた。
 
 「ありがとう、お父さん…。」
 
 
 「ね、この写真、2枚重なってる。」
 
 博美は、楠健次郎の写真の角がめくれているのに気がつき、賢に渡した。
 
 写真は、裏に一枚紙が貼られて、何かが書かれており、賢は読み上げた。
 
 
 『この術が解けたとき、兄に死を与える。』
 
 「そうだったんだ。先生が、亡くなるまでが、呪いだったんだ。」
 
 博美は、肩を落とした。
 
 花香も、再び久住の手を握って、声をかけた。
 
 「そんな…私が、命を縮めたのね…。ごめんなさい…。」
 
 「花香さん、それは違うと思う。もう90歳も過ぎてた、元気そうに見えて、徐々に痩せてきて、老衰に近い状態だったよ。生きているのが不思議なくらいだったから、死を与えたというより、催眠が解けるまで、命を維持していたというのが正しいんじゃないかな。」
 
 賢が、そう言った時、みんなの目には、信じられない光景が…。
 
 父、久住宗一郎、牧野花香…。
 
 美しい二人の姿を包み込むように、あの大きな桜の木を背景に、優しい光を織り交ぜながら、たくさんの桜の花びらが舞っているのが見えた。
 
 「これが、答えだよ。ほら、何か聞こえる。」
 
 
 『ありがとう…』
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