南方に配されし荼枳尼の法【第十話】

文字数 2,169文字





「〈金剛界曼荼羅〉は、ここにはないよ。最初から、なかった。遙か昔に〈散逸〉したんじゃない。最初からこの曼荼羅は、胎蔵界しかなかったのさ」
 猫魔は言った。
「え? どういうことだい、猫魔」
「隠し扉の中の隠し部屋は、何代か前のものだったのは確かだ。だが、それが逆に、胎蔵界曼荼羅しか存在していなかったのを証明している。この隠し部屋にある文献や道具、これらは〈()(ほう)集団〉が使う儀式に関するものばかりだからだ」
「〈彼の法〉集団? なんだい、それ。そのことが胎蔵界曼荼羅しか存在していなかったのを証明しているって?」
「昔、真言立川流と混同されてついには真言立川流を衰退させる原因にもなった、外法集団があった。それが〈彼の法〉集団と呼ばれる一派さ。その教義の実践は、房中術。西洋風に言うならば〈性魔術〉さ。セックスのときのエネルギーを呪術に変える流派なんだ」
「え? どういうことだい? ダキニは確かに房中術をやっていたようなことを、夜刀神は言っていたけど」
「だいたい、なんで指定文化財の胎蔵界曼荼羅が寺ではなく〈本町銀行〉にあったんだい? それは、ね。元から寺で作られたものじゃないのさ。この会長の一族の所有物だった。でも、〈彼の法〉集団は弾圧されたし、言えなかったのさ、誰も。ここの会長のイエの宗派は曹洞宗だ。一瞬、曼荼羅を使う密教とは関係なさそうだろ? でも、関係あるんだな、これが。その関係とはなにか? その点と点を結ぶものが〈ダキニ〉さ。ダキニ信仰は、真言宗だけでなく、曹洞宗にも多い。そしてダキニの姿は、金剛界曼荼羅にはおらず、胎蔵界曼荼羅にだけ描かれている。胎蔵界曼荼羅外金剛院・南方に配されているのがダキニさ。ダキニ隠れ信仰が、この地にあったんだ。檀家は関係なく、民間信仰のダキニ信仰の曼荼羅だったのさ、指定文化財の〈胎蔵界曼荼羅〉は。だから、もとから金剛界曼荼羅は存在しない。ダキニと関係ないからだ」
「はは。これは大きく出たものだ」
 笑う本町銀行の会長は、しかし泣き出しそうになっている。
 おそらく図星だったのだろう。
「〈彼の法〉とは言うが、〈此岸〉も〈彼岸〉も、区別がないのが曹洞宗、道元の主張する〈諸法実相(しょほうじっそう)〉の考え方さ。此岸と彼岸の区別がない、ある意味ではリアリストなんだね。それはともかく、曹洞宗にある集会図は金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅とは違う。でも、もしダキニのために曼荼羅をつくるとしたら胎蔵界だけでいい。それこそ、此岸も彼岸もないんだ。小宇宙と大宇宙はそもそもその違いがないし、それに曼荼羅をつくること自体が異端とされただろう。平安末期、密教はきらびやかなだけでそのきらびやかさが社会を立て直す効果を持つことができなかったことの反省から、鎌倉仏教諸数派は生まれているからね」
「つまり、どういうことだい、猫魔?」
「まとめると。つまりこの曼荼羅、仏教のものではなく、土着の民間信仰のダキニ信仰の証だったんだ! 別に、真言だろうが道元だろうが問題ないのさ。民間信仰だから、檀家とは別口さ。そして会長のイエは〈彼の法〉集団のイエだ。ダキニの胎蔵界曼荼羅を受け継いでいたので自分の銀行に保管していたのさ」
 会長は白目をむいて、
「は。はは。ははははは……」
 と、うわずった笑いをしている。
「会長。あなたは影で豪遊していたらしいじゃないですか、女性関係で。警察の方に、会長が〈どんなプレイ〉をしていたか、調べてもらえるよう、言っておきますね。口封じにお金を彼女らに渡していたとしても、さて、全員が〈彼の法〉の房中術について口を閉じていられるでしょうか」
 僕が口を挟む。
「金剛界の方が最初からなかったのはわかったよ。じゃあ、胎蔵界のも、自作自演てことで解決で、良いんだね?」
 一拍置いてから、猫魔は言う。
「ん。ああ、そうだな。自作自演だ。百瀬探偵結社の〈魔女〉から金をふんだくろうとしていたので会長自身が起こした一件なのは間違いないな。でも」
「でも、なんだい、猫魔?」
「情報機器である電子キーがヤラれていただろ。回路内を異常発熱させるアレを〈短絡回路(ショートサーキット)〉って言うんだが」
「言うんだが?」
「ありゃ、野中もやいの法術だよ。あいつも、そういうのを扱うんだ。常陸にいた〈伊福部岳(いふくべだけ)の雷神〉から、もやいが習得したものだ。どさくさに紛れて火事場泥棒しやがった、あの野郎……」

 ふぐりが、くちびるを噛む。
「また夜刀神かッ、ちっきしょう! 解決に導いたのが、あのオンナの言葉だなんてッ」

 僕が小栗判官と勝負がついていないように、猫魔も、そしてふぐりもまた、勝負がついてない、もしくは負けている、そんな相手がいるのだ。
 猫魔は野中もやい。ふぐりは夜刀神というように。
 これから捜査が行われて、事件は解決に向かうけれども、それでも歯がゆい、そんな事件だったのは、間違いなかった。

「ダキニ法はひとを選ばないが、それ故に外法であり……永続しない、か」

 あとで知ったことだが、本町銀行の会長は借金で火の車だったらしい。
 それで〈魔女〉の金に目をつけ、自作自演で事件を起こして、金をふんだくろうとした。
 だが、見破られ、肝心のダキニの掛け軸は本物の怪盗に盗まれてしまった。
 永続なんて、しなかったのだ。盛者必衰で。

 僕は夜空を見上げる。
 夜は更けていくばかりだ。




〈了〉
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登場人物紹介

破魔矢式猫魔(はまやしきびょうま):探偵

小鳥遊ふぐり(たかなしふぐり):探偵見習い

萩月山茶花(はぎつきさざんか):語り手

百瀬珠(ももせたま):百瀬探偵結社の総長

枢木くるる(くるるぎくるる):百瀬探偵結社の事務員

舞鶴めると(まいつるめると):天狗少女。法術使い。

更科美弥子(さらしなみやこ):萩月山茶花の隣人。不良なお姉さん。

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