夫の夢

文字数 1,300文字

 夫は変わっている。端的に言えば変人だ。暇さえあれば部屋に籠って出てこない。妻である私でさえ、部屋への立ち入りが禁止されている。

 夫が外出しているとき、一度だけこっそり部屋を覗いたことがある。部屋にはフラスコだのビーカーだの、理科の実験で使った覚えのある器具がいくつも並んでいた。

 その日の夜、部屋を覗いたことがバレてしまい、一週間口を聞いてくれなかった。
 そんなに怒らなくてもいいのに。

 夫はあの部屋で一体なにをしているのだろう。サリンや、VXガスのような、危険なものだったらどうしよう。私は夫と結婚してからの二十年間、好奇心と不安を抱えて暮らし続けてきた。

 そして今日、ついに、夫の口から長年抱いてきた疑問の答えが明かされる。
「ついに完成した。ボクの長年の夢がとうとう叶うんだ」
 マゼンタ色の液体が入った試験管を手に興奮する夫。こんなにも感情を顕にする夫を見るのはいつ以来だろう。

「おめでとう。それで、何が完成したの?」
「一日だけ美少女になれる薬」
「それは私にケンカを売っているのかしら?」
 私がオバサンだから。若くて綺麗な嫁の方が良いと、一日だけでも美少女になれと、そういうことか。

「違う、飲むのはキミじゃない」
「私じゃない」
 なんということだ。相手は妻である私ですらなかった。年がら年中、部屋に籠りきりだと思っていたのに、まさか他に女がいるとは思わなかった。

「ボクだ」
「そう、あなたなの……」
 夫の長年の夢が、まさか女性になることだったとは。体は男性、心は女性。性同一性障害。知識はあるが、実際に身近な人からそうだと言われると、やはりショックは大きい。

「気づいてあげられなくてごめんなさい。ずっと苦しんでいたのね」
「苦しむ? なんのことだい? ボクにあるのは純然たる興味だけだよ」
 ダメだ。全く話が擦り合わない。この夫はなにを言っているのだろうか。

「高校生の頃からの謎がついに解ける」
 なんだろう、とてもくだらない匂いがする。
「そう、セックスは男性よりも女性の方が何倍も気持ちいい、という噂の真相にたどり着けるんだ」
 本当に高校生みたいなこと言い出した。こんなことのために二十年間も費やしたのか、この夫は。

 しかし、ここでふと、一つの疑問が生じた。
「この薬であなたが美少女になるとして、相手はどうするの? 例え相手が男でも、私はあなたが他人に抱かれるなんてイヤよ」
 曲がりなりにも私と夫は夫婦。夫のことを愛しているからプロポーズを快諾したし、愛しているからほったらかしの夫婦生活も受け入れてきたのだ。

 膨れっ面の私を前に、夫は悪戯っ子のような笑顔で、懐からシアン色の液体が入った試験管を取り出した。
「もちろん、キミの分もある。一日だけ美男子になれる薬だ」
 夫は最初から私を巻き込む気マンマンだったのだ。想像してみよう。私が男になって、美少女になった夫を抱く。なるほど、これは――
「めちゃくちゃ面白そうじゃない」
「キミならそう言ってくれると思っていたよ」
 私達は変わっている。そして最高に相性の良い夫婦だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み