第1話
文字数 5,214文字
「あー! どうしたらいいかなぁ~?」
乾杯の音頭もそこそこに、開口一番、美優が嘆きの声を上げた。
俺はジョッキを傾け、苦みの強いビールの泡を口の中に流し込みながら、居酒屋の座敷席の平べったいテーブルの向かいに座る同僚の顔を、チラリと覗き見る。
そして、その幼さの残る顔に、似合いもしない憂いの色を浮かべて、ちびちびとカシスオレンジを飲んでいる美優を見た途端に、自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
ざわつく心を密かに宥めすかしてから、殊更に平静を装いつつ、俺は彼女に問いかけてみる。
「……大和田さんの事か?」
「そうだよ、他に無いでしょう?」
鼻にかかった美優の声に乗った、分かりきっていた答えを聞いて、口の中のビールが一段とほろ苦くなる。
俺はジョッキの縁から唇を離し、口中に残った苦いだけのビールを無理やり喉の奥に追いやると、小さく溜息を吐いた。
「……うん、知ってる。飲みに来る度、その話だからなぁ」
「分かってるんなら聞かないでよ」
「そっちこそ、分かってるんなら聞くなよ」
俺は、美優の言葉をオウムの様に返し、目の前の皿に山盛りになったフライドポテトを摘まみ上げ、その先端で美優の不満顔を指しながら言葉を継ぐ。
「年齢イコール彼女いない歴の俺に、恋愛がどうのとか聞いたところでロクな答えが返ってこねえって事は、今までの飲みで思い知ってんだろ? だったら、俺じゃなくて、事務の坂井さんあたりを誘って相談した方が――」
そう口にしながら、心の中では後悔の念が泉の様に湧き出している。
今の俺の提案に対し、美優が「うん、分かった。そうする」と答えてしまえば、もう二度と、こんな風に彼女と一対一で酒を飲むような機会は巡ってこないだろう。そうなってしまって、一番後悔するのは、他ならぬ俺なのに……。
「いやいや! ないない!」
だが、俺の最悪の予想とは異なり、美優は目を大きく見開いて、ブンブンと首を横に振る。その首の動きに合わせて、彼女の後ろに束ねた髪が、文字通り馬の尻尾 の様に左右に揺れた。
「坂井さんなんかに相談しちゃったら、次の日には社長の耳まで噂が届いちゃうよ! 絶対無し!」
「ぷっ! さすがに、一日で社長までは届かないだろう? 大げさだよ」
「届くってば! ほっしーは部署が違ってて、あのスピーカーおばさんの事を全然知らないから、そんな事が言えるんだよ!」
「そ……そうなんだ」
俺は、彼女の剣幕に気圧されながらも、その答えに安堵していた。
そして、安心ついでに、更に問いを重ねてみる。
「……じゃあ、何で俺ならいいんだよ。恋愛相談の相手として、さ」
「そりゃあ……」
美優は、俺の問いかけに対しニコリと微笑みながら答える。
「ほっしーは、ウチの会社で唯一残った同期だしさ、真面目で口が固そうだしさ……っていうか、言いふらす相手もいなさそうだし――」
「オイ待て」
彼女の最後の一言に、俺は慌ててツッコんだ。
「だ、誰が社内ボッチだと? おおお俺にだって、話す相手くらい……」
「うふふ、冗談だよっ」
俺の抗議に、美優は悪戯っ子ぽく笑い、カシスオレンジのグラスを手に取り、一口飲んだ。
……まったく、意地の悪い冗談を言う。いくら人付き合いの苦手な俺だといっても、世間話の出来る相手の一人や二人…………あれ? おかしいな。一人しか思いつかないや……。
――その、思いついた一人は、レタスサラダをもしゃもしゃと頬張りながら、怪訝な顔をする。
「……ん? ほうひはの?」
「いや……何でも無いから、口の中のものを飲み込んでから話しなさい」
まるでウサギかハムスターのような、愛らしい彼女の表情に心を波立たせながら言った俺の言葉に、美優は素直に頷くと、また口を動かし始めた。
俺は、安堵とも自分に対する失望ともつかない気持ちの籠もった溜息を吐くと、ジョッキを持ち上げ、残っていたビールを一気に飲み干した。
そして、空になったジョッキをドンと音を立ててテーブルに置くと、手を挙げて店員さんを呼び、ハイボールを注文する。
「かしこありやーしたー」と、砕けた発音で了解の言葉を言い残した店員が、ハンディターミナルを操作しながらカウンターへと戻っていくのを見送ってから、俺はごほんと咳払いし、箸でほっけの開きの身を解 している美優に向かって口を開く。
「……で、今日は、大和田さんがどうしたって?」
「あ、うん……」
俺が促したのを受けて、美優は持っていた箸を置くと、さっきまでの快活さが嘘のように、しょげた顔をしてポツポツと話し始める。
――かねてから彼女が想いを寄せている、会社の先輩であり上長である大和田さんが、いかに魅力的なのかという事と、そんな彼に自分がどれ程惹かれているのかという事。
そして……自分が、れっきとした彼女持ちである大和田さんとは決して付き合えない事に対する慨嘆や、果てには「もっと早く大和田さんと出会えていれば……」という、どうしようも出来ない事への繰り言を――。
◆ ◆ ◆ ◆
終電が近くなり、居酒屋を出た俺たちは、まだ肌寒い夜風に吹かれながら、駅に向かって歩いていた。
まだ時間に余裕があるので、ゆっくり歩く俺たちの横を、赤ら顔の人々が急ぎ足で追い越していく。
「えへへ~。ごめんね、ほっしー。私の愚痴に、いっつも付き合ってもらっちゃってさ」
溜まっていた愚痴や悩みを吐き出せたせいか、すっかり上機嫌になった美優が、俺の肩をポンポンと気安く叩きながら言った。
それに対し、俺は苦笑交じりの表情を作って答える。
「……いえいえ。どういたしまして。――っていうか、あんなんでいいのか? 俺、相槌を打つばっかりで、全然役に立つようなアドバイスが出来てないっぽいんだけど」
「え? 全然大丈夫だよー」
申し訳なさそうに言った俺の言葉に、美優は怪訝な顔で首を傾げたが、すぐにニッコリと笑うと、大きく首を横に振った。
「……私も、大和田さんに対する想いが報われないって事は、最初から分かってるからさ。結局、胸の奥に溜まったマイナスの感情や愚痴を吐き出したいだけなんだよね……。だから、別にアドバイスは無くても構わないんだ」
「……何か、童話であったよな、そういう話」
「……童話?」
俺の言葉に、美優は訝しげに訊き返した。
そんな彼女に頷くと、俺は言葉を続ける。
「――王様の耳がロバの耳だって事を知った理髪師が、その事を誰にも言えなくて、でも吐き出したくてしょうがなくなって、地面に大きな穴を掘って、その中に向かって叫ぶんだ。『王様の耳はロバの耳ーッ!』って。それと同じじゃね?」
「あー、知ってる!」
俺の話を聞いた美優は、目を大きく見開いて、ポンと手を叩いた。
「確かに、ほっしーの言う通りかも! ……じゃあ、ほっしーは――」
「甚だ不本意ながら、『地面に開いた大穴』だって事になるな」
俺は憮然としてそう言うと、わざと意地悪な表情を浮かべながら言った。
「……だったら、あの童話と同じように、あんまり愚痴をぶつけられ続けたら、俺もパンクして辺りに言いふらすようになっちゃうかもよ?」
「あはは、それは怖いなー」
俺の脅しめいた言葉に美優は笑いながら、大げさに怖がるふりをしてみせた。
そして、ポンと両手を叩くと、おもむろに俺に顔を近付けてきた。
急に近付いた彼女に、俺はたじろぐ。
「な……何だよ、急に――」
「じゃあさ。ほっしーも、私に向けて吐き出しちゃいなよ。悩みとか愚痴とかさ」
「は……?」
俺は、突然の彼女の提案に、思わず戸惑いの声を上げる。
「な……何だよそりゃ?」
「ほっしーにもいるでしょ? 好きな人とか――」
「……ッ!」
彼女の言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。
「そ、それは……」
「いいんだよ。私で良ければ、いくらでも相談に乗るよ。いっつもお世話になってるし、いっつもほっしーの優しさに甘えっぱなしで悪いなーって思ってるんだから」
屈託の無い笑顔を浮かべながら、俺に語りかけてくる美優。その笑顔を見て、俺は激しく揺らいだ。
好きな人は――いる。
かなり前から、ずっと恋い焦がれた女性 が居る。
その女性 は、根暗で人付き合いの苦手な俺にも気安く声をかけてくれて、いつも可愛らしい笑みを向けてくれる。
彼女の存在が、俺にどれだけの力を与えてくれたか分からない。かけがえのない人だった。
――そう、俺が好きなのは……!
「お……俺は……」
緊張で乾き切った舌を動かし、俺はかすれた声で言葉を紡ごうとする。
「俺が……俺が好きなのは……」
『君だ』――そう言おうとした直前、俺の脳裏に、最初に彼女に会ってからさっきの居酒屋までの光景がフラッシュバックした。
俺の舌が、ピタリと固まった。
「……どうしたの?」
「……」
怪訝な表情で俺の顔を覗き込む美優を前に、俺はゴクリと唾を飲み込み、苦労して言葉を吐き出した。
「――お、俺が好きな人……なんて、別にいないよ。ははは……」
「……なーんだ、つまんない」
俺の答えを聞いた美優は、つんと口を尖らせ、ぷいっとそっぽを向くと、俺の前に立って歩き始める。
「私も、ほっしーの役に立てるかなぁって思ったのに」
「……気持ちだけ、ありがたく頂いとくよ」
不満そうな口調の彼女の言葉に、俺は無理矢理口角を上げながら答えた。
俺の二歩先を歩く美優のポニーテールが、ユラユラと揺れるのをぼんやりと見ながら、その胸中には、安堵と失望が、ミルクを垂らしたコーヒーの様に渦を巻いている。
今、俺が出した、彼女の問いかけへの答えが合っていたのか、それとも間違っていたのか……正解が分からず、何とも言えないモヤモヤした気分だった。
――と、前を歩いていた美優がクルリと振り返った。
そして、真剣な表情を浮かべながら、俺に向かって指を突きつける。
「でも……ほっしーが本当に好きになった人が出来たら、絶対に教えてよ。いいわね?」
「えー……あー……うん、善処します」
「何よ、ゼンショって、政治家みたい」
「あはは……」
憮然とした表情を浮かべる美優の前で、曖昧に乾いた笑い声を上げる俺。
でも、これだけはハッキリと答えられない。答えちゃいけない事なんだ。政治家のような、不誠実な答えになる事はカンベンしてほしい……。
「……じゃ、この辺で」
「……あ、う、うん」
彼女の声で、俺はハッと我に返った。会話に夢中になっている間に、駅前広場まで来ていたようだ。
美優は左手首の腕時計をチラリと見て、「ヤバい……」と呟いた。
「あの、私、終電が来ちゃうから、もう行くね!」
そう叫んで、彼女は足踏みをしながら、俺に向かってブンブンと手を振った。
いつまでも手を振り続けている彼女に対して、手を振り返しながら、俺は叫び返す。
「ほら! 終電ヤバいんだろ? 早く行きな!」
「……うん、分かってる!」
俺の声に大きく頷いて、一度は改札に向かって走ろうとした美優だったが、何故かもう一度こちらの方に振り返った。
そして、怪訝な表情を浮かべた俺に向かって、大声で叫んだ。
「じゃね、ほっしー! 今日も楽しかった!」
「あーはいはい! 分かったから、さっさと行けって!」
「……また、相談に乗ってね!」
「……ああ、分かったよ! 俺なんかで良ければ、何時でも誘え!」
彼女の言葉に、一瞬躊躇った俺だったが、すぐに力強く頷いて答えた。
俺の答えを聞いて安心したのか、美優は一際顔を輝かせ、そして俺に背を向けると、今度こそ駅に向かって走っていった――。
「……はあ」
美優が改札を通り、混雑する雑踏の中に紛れていったのを見届けた俺は、肩を竦めて溜息を吐いた。
そして、頭に手をやり、髪の毛をぐしゃぐしゃに搔き乱す。
「……何やってんだろな、俺は」
思わず独り言つ。
まったく、滑稽な話だ。
好きな女性 と繋がり続ける為に、彼女が抱える叶わぬ恋の悩みを聞いて、成就しないと解っている彼女の恋を応援してあげなきゃいけないなんてさ。
そして、そんな彼女の恋を応援し続ける限り、この俺自身の恋も決して実る事は無いんだ……。
――でも、だからと言って、今の関係性が崩れれば――或いは俺自身が崩してしまったら、彼女との繋がり自体も無くなってしまう……それも確かな事だった。
今の俺では、そんな自分の首を自分で掻っ切るような真似は、とても出来ない……。
「……ふぅ」
俺はもう一度溜息を吐くと、首をフルフルと振り、踵を返した。
目指すは、タクシー乗り場。
何故なら、俺の家への終電は、もう10分ほど前に出発してしまっていたからだ。
美優の愚痴に付き合って……いや、彼 女 と 少 し で も 長 く 一 緒 に 居 た く て 終電を逃したなんて、彼女にはとても言えない……。
「ホント……何やってんだろうな、俺」
俺はもう一度呟いて皮肉げに口角を上げると、駅へと押し寄せる人波に逆らって走り始める。
自分の身体に纏わりついた、色々な感情を振り払おうとするように――。
乾杯の音頭もそこそこに、開口一番、美優が嘆きの声を上げた。
俺はジョッキを傾け、苦みの強いビールの泡を口の中に流し込みながら、居酒屋の座敷席の平べったいテーブルの向かいに座る同僚の顔を、チラリと覗き見る。
そして、その幼さの残る顔に、似合いもしない憂いの色を浮かべて、ちびちびとカシスオレンジを飲んでいる美優を見た途端に、自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
ざわつく心を密かに宥めすかしてから、殊更に平静を装いつつ、俺は彼女に問いかけてみる。
「……大和田さんの事か?」
「そうだよ、他に無いでしょう?」
鼻にかかった美優の声に乗った、分かりきっていた答えを聞いて、口の中のビールが一段とほろ苦くなる。
俺はジョッキの縁から唇を離し、口中に残った苦いだけのビールを無理やり喉の奥に追いやると、小さく溜息を吐いた。
「……うん、知ってる。飲みに来る度、その話だからなぁ」
「分かってるんなら聞かないでよ」
「そっちこそ、分かってるんなら聞くなよ」
俺は、美優の言葉をオウムの様に返し、目の前の皿に山盛りになったフライドポテトを摘まみ上げ、その先端で美優の不満顔を指しながら言葉を継ぐ。
「年齢イコール彼女いない歴の俺に、恋愛がどうのとか聞いたところでロクな答えが返ってこねえって事は、今までの飲みで思い知ってんだろ? だったら、俺じゃなくて、事務の坂井さんあたりを誘って相談した方が――」
そう口にしながら、心の中では後悔の念が泉の様に湧き出している。
今の俺の提案に対し、美優が「うん、分かった。そうする」と答えてしまえば、もう二度と、こんな風に彼女と一対一で酒を飲むような機会は巡ってこないだろう。そうなってしまって、一番後悔するのは、他ならぬ俺なのに……。
「いやいや! ないない!」
だが、俺の最悪の予想とは異なり、美優は目を大きく見開いて、ブンブンと首を横に振る。その首の動きに合わせて、彼女の後ろに束ねた髪が、文字通り
「坂井さんなんかに相談しちゃったら、次の日には社長の耳まで噂が届いちゃうよ! 絶対無し!」
「ぷっ! さすがに、一日で社長までは届かないだろう? 大げさだよ」
「届くってば! ほっしーは部署が違ってて、あのスピーカーおばさんの事を全然知らないから、そんな事が言えるんだよ!」
「そ……そうなんだ」
俺は、彼女の剣幕に気圧されながらも、その答えに安堵していた。
そして、安心ついでに、更に問いを重ねてみる。
「……じゃあ、何で俺ならいいんだよ。恋愛相談の相手として、さ」
「そりゃあ……」
美優は、俺の問いかけに対しニコリと微笑みながら答える。
「ほっしーは、ウチの会社で唯一残った同期だしさ、真面目で口が固そうだしさ……っていうか、言いふらす相手もいなさそうだし――」
「オイ待て」
彼女の最後の一言に、俺は慌ててツッコんだ。
「だ、誰が社内ボッチだと? おおお俺にだって、話す相手くらい……」
「うふふ、冗談だよっ」
俺の抗議に、美優は悪戯っ子ぽく笑い、カシスオレンジのグラスを手に取り、一口飲んだ。
……まったく、意地の悪い冗談を言う。いくら人付き合いの苦手な俺だといっても、世間話の出来る相手の一人や二人…………あれ? おかしいな。一人しか思いつかないや……。
――その、思いついた一人は、レタスサラダをもしゃもしゃと頬張りながら、怪訝な顔をする。
「……ん? ほうひはの?」
「いや……何でも無いから、口の中のものを飲み込んでから話しなさい」
まるでウサギかハムスターのような、愛らしい彼女の表情に心を波立たせながら言った俺の言葉に、美優は素直に頷くと、また口を動かし始めた。
俺は、安堵とも自分に対する失望ともつかない気持ちの籠もった溜息を吐くと、ジョッキを持ち上げ、残っていたビールを一気に飲み干した。
そして、空になったジョッキをドンと音を立ててテーブルに置くと、手を挙げて店員さんを呼び、ハイボールを注文する。
「かしこありやーしたー」と、砕けた発音で了解の言葉を言い残した店員が、ハンディターミナルを操作しながらカウンターへと戻っていくのを見送ってから、俺はごほんと咳払いし、箸でほっけの開きの身を
「……で、今日は、大和田さんがどうしたって?」
「あ、うん……」
俺が促したのを受けて、美優は持っていた箸を置くと、さっきまでの快活さが嘘のように、しょげた顔をしてポツポツと話し始める。
――かねてから彼女が想いを寄せている、会社の先輩であり上長である大和田さんが、いかに魅力的なのかという事と、そんな彼に自分がどれ程惹かれているのかという事。
そして……自分が、れっきとした彼女持ちである大和田さんとは決して付き合えない事に対する慨嘆や、果てには「もっと早く大和田さんと出会えていれば……」という、どうしようも出来ない事への繰り言を――。
◆ ◆ ◆ ◆
終電が近くなり、居酒屋を出た俺たちは、まだ肌寒い夜風に吹かれながら、駅に向かって歩いていた。
まだ時間に余裕があるので、ゆっくり歩く俺たちの横を、赤ら顔の人々が急ぎ足で追い越していく。
「えへへ~。ごめんね、ほっしー。私の愚痴に、いっつも付き合ってもらっちゃってさ」
溜まっていた愚痴や悩みを吐き出せたせいか、すっかり上機嫌になった美優が、俺の肩をポンポンと気安く叩きながら言った。
それに対し、俺は苦笑交じりの表情を作って答える。
「……いえいえ。どういたしまして。――っていうか、あんなんでいいのか? 俺、相槌を打つばっかりで、全然役に立つようなアドバイスが出来てないっぽいんだけど」
「え? 全然大丈夫だよー」
申し訳なさそうに言った俺の言葉に、美優は怪訝な顔で首を傾げたが、すぐにニッコリと笑うと、大きく首を横に振った。
「……私も、大和田さんに対する想いが報われないって事は、最初から分かってるからさ。結局、胸の奥に溜まったマイナスの感情や愚痴を吐き出したいだけなんだよね……。だから、別にアドバイスは無くても構わないんだ」
「……何か、童話であったよな、そういう話」
「……童話?」
俺の言葉に、美優は訝しげに訊き返した。
そんな彼女に頷くと、俺は言葉を続ける。
「――王様の耳がロバの耳だって事を知った理髪師が、その事を誰にも言えなくて、でも吐き出したくてしょうがなくなって、地面に大きな穴を掘って、その中に向かって叫ぶんだ。『王様の耳はロバの耳ーッ!』って。それと同じじゃね?」
「あー、知ってる!」
俺の話を聞いた美優は、目を大きく見開いて、ポンと手を叩いた。
「確かに、ほっしーの言う通りかも! ……じゃあ、ほっしーは――」
「甚だ不本意ながら、『地面に開いた大穴』だって事になるな」
俺は憮然としてそう言うと、わざと意地悪な表情を浮かべながら言った。
「……だったら、あの童話と同じように、あんまり愚痴をぶつけられ続けたら、俺もパンクして辺りに言いふらすようになっちゃうかもよ?」
「あはは、それは怖いなー」
俺の脅しめいた言葉に美優は笑いながら、大げさに怖がるふりをしてみせた。
そして、ポンと両手を叩くと、おもむろに俺に顔を近付けてきた。
急に近付いた彼女に、俺はたじろぐ。
「な……何だよ、急に――」
「じゃあさ。ほっしーも、私に向けて吐き出しちゃいなよ。悩みとか愚痴とかさ」
「は……?」
俺は、突然の彼女の提案に、思わず戸惑いの声を上げる。
「な……何だよそりゃ?」
「ほっしーにもいるでしょ? 好きな人とか――」
「……ッ!」
彼女の言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。
「そ、それは……」
「いいんだよ。私で良ければ、いくらでも相談に乗るよ。いっつもお世話になってるし、いっつもほっしーの優しさに甘えっぱなしで悪いなーって思ってるんだから」
屈託の無い笑顔を浮かべながら、俺に語りかけてくる美優。その笑顔を見て、俺は激しく揺らいだ。
好きな人は――いる。
かなり前から、ずっと恋い焦がれた
その
彼女の存在が、俺にどれだけの力を与えてくれたか分からない。かけがえのない人だった。
――そう、俺が好きなのは……!
「お……俺は……」
緊張で乾き切った舌を動かし、俺はかすれた声で言葉を紡ごうとする。
「俺が……俺が好きなのは……」
『君だ』――そう言おうとした直前、俺の脳裏に、最初に彼女に会ってからさっきの居酒屋までの光景がフラッシュバックした。
俺の舌が、ピタリと固まった。
「……どうしたの?」
「……」
怪訝な表情で俺の顔を覗き込む美優を前に、俺はゴクリと唾を飲み込み、苦労して言葉を吐き出した。
「――お、俺が好きな人……なんて、別にいないよ。ははは……」
「……なーんだ、つまんない」
俺の答えを聞いた美優は、つんと口を尖らせ、ぷいっとそっぽを向くと、俺の前に立って歩き始める。
「私も、ほっしーの役に立てるかなぁって思ったのに」
「……気持ちだけ、ありがたく頂いとくよ」
不満そうな口調の彼女の言葉に、俺は無理矢理口角を上げながら答えた。
俺の二歩先を歩く美優のポニーテールが、ユラユラと揺れるのをぼんやりと見ながら、その胸中には、安堵と失望が、ミルクを垂らしたコーヒーの様に渦を巻いている。
今、俺が出した、彼女の問いかけへの答えが合っていたのか、それとも間違っていたのか……正解が分からず、何とも言えないモヤモヤした気分だった。
――と、前を歩いていた美優がクルリと振り返った。
そして、真剣な表情を浮かべながら、俺に向かって指を突きつける。
「でも……ほっしーが本当に好きになった人が出来たら、絶対に教えてよ。いいわね?」
「えー……あー……うん、善処します」
「何よ、ゼンショって、政治家みたい」
「あはは……」
憮然とした表情を浮かべる美優の前で、曖昧に乾いた笑い声を上げる俺。
でも、これだけはハッキリと答えられない。答えちゃいけない事なんだ。政治家のような、不誠実な答えになる事はカンベンしてほしい……。
「……じゃ、この辺で」
「……あ、う、うん」
彼女の声で、俺はハッと我に返った。会話に夢中になっている間に、駅前広場まで来ていたようだ。
美優は左手首の腕時計をチラリと見て、「ヤバい……」と呟いた。
「あの、私、終電が来ちゃうから、もう行くね!」
そう叫んで、彼女は足踏みをしながら、俺に向かってブンブンと手を振った。
いつまでも手を振り続けている彼女に対して、手を振り返しながら、俺は叫び返す。
「ほら! 終電ヤバいんだろ? 早く行きな!」
「……うん、分かってる!」
俺の声に大きく頷いて、一度は改札に向かって走ろうとした美優だったが、何故かもう一度こちらの方に振り返った。
そして、怪訝な表情を浮かべた俺に向かって、大声で叫んだ。
「じゃね、ほっしー! 今日も楽しかった!」
「あーはいはい! 分かったから、さっさと行けって!」
「……また、相談に乗ってね!」
「……ああ、分かったよ! 俺なんかで良ければ、何時でも誘え!」
彼女の言葉に、一瞬躊躇った俺だったが、すぐに力強く頷いて答えた。
俺の答えを聞いて安心したのか、美優は一際顔を輝かせ、そして俺に背を向けると、今度こそ駅に向かって走っていった――。
「……はあ」
美優が改札を通り、混雑する雑踏の中に紛れていったのを見届けた俺は、肩を竦めて溜息を吐いた。
そして、頭に手をやり、髪の毛をぐしゃぐしゃに搔き乱す。
「……何やってんだろな、俺は」
思わず独り言つ。
まったく、滑稽な話だ。
好きな
そして、そんな彼女の恋を応援し続ける限り、この俺自身の恋も決して実る事は無いんだ……。
――でも、だからと言って、今の関係性が崩れれば――或いは俺自身が崩してしまったら、彼女との繋がり自体も無くなってしまう……それも確かな事だった。
今の俺では、そんな自分の首を自分で掻っ切るような真似は、とても出来ない……。
「……ふぅ」
俺はもう一度溜息を吐くと、首をフルフルと振り、踵を返した。
目指すは、タクシー乗り場。
何故なら、俺の家への終電は、もう10分ほど前に出発してしまっていたからだ。
美優の愚痴に付き合って……いや、
「ホント……何やってんだろうな、俺」
俺はもう一度呟いて皮肉げに口角を上げると、駅へと押し寄せる人波に逆らって走り始める。
自分の身体に纏わりついた、色々な感情を振り払おうとするように――。