賢者のいない本番①
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しかし、人数が一人減ってしまった事による緊張の方が酷いようで心臓がはち切れそうで、「口から内臓が飛び出てきそう」という表現がこれほどにも合う瞬間がやって来るとは思ってもいなかった。
はっきり言うと吐きそう。
あの司会のお姉さんの声が悪魔の囁きのように聞こえてくる。一応、このホールに救護室があったのが、救いだったようだ。聖セリーヌ学園高等学校吹奏楽部からも体調不良者が出たらしく、そこにいるらしいが、今はそれどころではない。
悠くんが抜けてしまった以上、クラリネットパートの人員不足はとんでもない損害だった。
本当にメンバーの楽器の音量を考えた上で、音のズレもなく、当て嵌めてくる天才がいない以上、私もやりづらい。賢者のような人の穴を埋めるのは本当に大変な事で、音楽だけが暴走するのは必須だと思う。
嫌がらせか何かにしか思えなくなってきた。
最初の「sign sign sign」に始まり、「祝典序曲」を経て、「第六の幸福をもたらす宿」で終演を迎える。これらの曲には、全てクラリネットのソロがある。「sign sign sign」には、二回のソロ。最高音A♭のソロ、「祝典序曲」の十六小節のソロ、「第六の幸福をもたらす宿」の短いながらもあるゆったりとした第一楽章のソロ。そのうち「sign sign sign」のソロは、里紗が担当する予定だったが、全てが崩れ去った。他の二曲のソロを担当していた悠くんが倒れてしまった今、里紗が担当することになった。もちろん、練習なんて一切していない。リハーサル無し、一発本番。
考えただけで吐き気がする。
観客のじとっとした視線にはやる気もなくなる。私は、きっちりと終演まで導けるのだろうか。
そんな大事な事なのに……私は、何も出来ないのは、分かりきっていた。この思いを観客に伝える為にも頑張ってきた。
だから、お願い。もう少しお互いの鼓動とリズムを感じ取ってほしい。
だって、感じ取れる。観客の呆れの心。心を閉ざす音。悪意、失望……。悠くんがいないだけでこれだけの損害……。結局、私たちは何も出来ないまま終わってしまうのだろうか。
そのままクラリネットの最初のソロが始まる。
クラリネットのソロが終わると拍手はあまり起こらなかった。分かりきっていた。里紗の負の感情を生み出した何かがこの会場に紛れ込んだのだろう。里紗の顔色は真っ青でドラムセットのソロの間は、ずっと俯いていた。出来る限り、前を見ないように譜面ばかりを見つめていた。
そのままトランペットソロに突入した。勿論の事、そのまま圭くんに渡された訳だから曲調も安定しないまま、手渡しされた感じである。
その後もグダグダだった。里紗の普段は間違えないソロのリードミスなど、あり得ない事ばかり続き、そのまま「sign sign sign」を終えることになった。