「第三次反抗期」

文字数 1,144文字

「第三次反抗期」


  1

「これが最後だ」
 そんなこと突然言われてしまえば誰だって戸惑うだろう。
 私だってそうだ。しかし、「永遠に続く」なんてことを言われても、終わりのないマラソンを強いられているようで今にも発狂しそうになる。
 だから、人間には死がある。


  2

 今年で65歳になる。少しずつ私の人生が終わりに近づいていた。
 人生の終わりというのはすべての終わりを意味しているのではなくて、物体の賞味期限のようなものに近いかもしれない。使い道のない思い出の品を仕様がなく断捨離する感覚だろうか。この日が来たから仕方ない。と言った。どうしようもない選択なのだ。
 今の65歳と言うと、「人生の終わり」なんてそう大層に言えるものではないだろう。しかし、社会的な一つの区切りが付く年齢でもある。
 60を迎えた年から今年で嘱託社員の契約も満了となる。そう思えば「もうここまで来ていたのか」なんて、そんなことを自分にボヤきたくもなるものだ。
 勤続43年。一つの会社に勤め上げてきた。他は知らない。この会社から見た世間しか知らないのだ。大卒で入社した私は世間的・社会的処女を捧げたまま、ここで生き方を学び、死ぬ。
 そう感慨に浸っていても、私より先を生きている人たちからは「まだ若いだろ」という意見を簡単に押し付けられ、挙句の果てには私より数の少ない年輪の持ち主たちからは「もう歳なんだから」と労われるのだ。


  3

 こうなってくると、自分への正当な評価は自分で下すしかなくなってくる。私は若くて、私は年老いている。と言ったような場面・状況・立場によって都合の良い解釈はしたくない。
 賛否両論あるこの年齢ならば、私がその言い値を付けるべきなのだ。
 その判断。いわゆる分別をつける為には、正しい人生の価値観を持ち合わす必要があるのだろうか。
 いわゆる認識とは違う。常識とも言えない。
 これは純粋に、私が「まだまだやれるかどうか」を確認する必要があるのだ。


  4

 妻に先立たれた私の余生は、寂しい。枯れ木立つ大寒の縁側よりも寂しい。
 しかしそれを知っておきながら、これが私の待っていた未来でもある。誤解して欲しくないから敢えて言わせてもらうが、決して妻の死を待ち望んでいた訳ではない。その未来を期待して浮かれて待っていた訳もない。
 ただ、生きるということは「未来を待つ」ということに他ならないのだ。妻の死を受け止め、ただ生きてきた。だから、世間からリタイアした老兵と言われるような儚い世界を私は待っていた形になっただけなのだ。
「これからだ。さあ。始めようか」   

                         2019年1月19日 執筆
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