その8 修道院へ行け!のエロティシズム、その清潔感
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尼寺やめない? ヨーロッパに尼寺、ないから。やたらに日本っぽくするの良くないと思うんだよ。アクア・ヴィタエaqua vitaeを「焼酎」って訳してあったりすると、ほんとがっかり。アクア・ヴィタエ、焼酎じゃないから。ブランデーやウィスキーだから。芋臭くないから。
だね。では改めまして、“To be or not to be”からの「修道院へ行け!」のシーン。原作はこう。だいぶ違う。
『ハムレット』第三幕第一場←click here!
そうね。私も好き。ものすごくいい男よね。で、デズデモーナはペットやトロフィーじゃなくて、そのオセローをちゃんと受けとめられる度量のある女性なんだよね、若くても。デズデモーナは妻なだけじゃなくて、ソウルメイトなの、オセローの。その彼女を失ったと思うから、オセローの世界は崩壊するので、ペットやトロフィーなら次のを探せばいいわけだから。
オセローもハムレットも、ただの性欲だけの男じゃない。精神的なものを求めてる。なのに、デズデモーナやオフィーリアがなまじさわりごこちがよさそうだから、動揺するんじゃないのかな。それでね、さらに悲劇なのは、彼女たちはそのことに無自覚なのね。
私、初めて『ハムレット』読んだとき、このオフィーリアをどなるシーンと、後で出てくるお母さんをどなるシーンで引いちゃって、ハムレット嫌いになりかけたのよ。浅かった。ハムレット、動揺してるんだよね。そう考えるといじらしい。自分が人を殺すか殺さないかで悩んでるのに、なんか目の前にすごく柔らくておいしそうなものが出てきてw
なんていうか、ダイアモンドってようするに炭素でしょ。シェイクスピアのことばは難しいから、翻訳の際にいったんダイアモンドを炭素に分解する作業は必要だと思う。だけど、その分解した炭素のままで舞台にかけないでほしい。そういうの本当かんべんしてほしい。もう一度ダイアモンドに戻してほしいわけ。