第2話 過去に行く訓練

エピソード文字数 4,538文字

 買いつけるものは、未来から直前にリストが届くのだと言う。そして、さきは実際に江戸時代に行った時に気をつけなければならない事を俺に教えてくれた。
「実際に行く時は江戸時代で作った着物や帯を着て貰います。現代のものは当時のものとは風合いは全く違っていますから駄目なんです。履物は下駄か雪駄ですね。履きなれないと酷く疲れますから、これも訓練して貰います。
 着物を着て貰えば判りますが、歩き方が今とは違いますので、これも訓練して貰います。当時の人は小幅で若干内股で歩いていました。腕は振りません。腕を振って歩くのは明治以降に外国から入ってきたのです」
 全く聞かなければ知らない事が多い。
「それから言葉も標準語はなるべく止めて下さい。特に言葉の最後に「~です」とか「~ます」という「ですます」調は卑しい身分の人間が使う言葉ですから、使わないで下さい。卑しい身分の人が流行の先端の浮世絵を買う訳がありませんからね」
 俺は、知らない事ばかりで驚いていた、同じ国で僅か百五十年前のことが判らないなんて……結局、明治維新で価値観が変わってしまったのか、俺は、自分の国のことなのに何も知らないのが恥ずかしくなってしまった。
「では実際に着物を着て貰い、下駄や雪駄で歩く練習をして戴きます。それと、光彩さんは百七十センチほどですね。江戸時代に行くとかなり大柄な人間となりますので目立ちます。嫌でも注目の的になりますので、目立たないように、しっかりと練習して戴きます」
 そうか、今の世なら俺は中肉中背だが過去に行けば巨人になる訳か。比較の問題なのだが、そんな事まで考えなくてはならないのかと思う。
 さきは俺を隣の部屋に案内した。ドアを開けるとそこには、着物や履物一式が整っていた。
「採寸してないけど良かったのかい」
「先程健康診断の時にやりましたよ」
 そう言われて俺は、あの横になってトンネルを潜らされた時に測られたのだと理解する。
 パンツ一枚になり、最初に肌襦袢と呼ばれる綿で出来た下着を着る。これは筒袖で細い衿で、丈は腰あたりまでしかない。その上に長襦袢を着る。さきによると、江戸っ子はこの長襦袢に大変なお洒落をしたそうで、柄に凝ったりしたらしい。俺が着たのは何やら人が相撲でもとっている柄かと思ったら
「それは男女四十八手の柄ですよ。粋な柄です。流行の先端の浮世絵を買う人で、しかも目立つ存在ですから、いい加減なものは着させられません。それに着物は綿ですが、長襦袢は絹です。肌触りが違うでしょう」
 なるほど、と納得する。確かに絹地が肌に心地よい。そうこうしているうちに、その綿の着物を着せられた。何やら薄い紺色の着物で、無地かと思ったら、めちゃくちゃ細かい縞が入っている。
「この縞柄は江戸時代は、広く普及していた柄です。職人とか粋な職業の人が着ていました」
 さきに前を合わせて貰い、後ろから腰紐を回されて縛られた。
「帯なんですが、兵児帯と角帯がありますが、光彩さんは痩せているので角帯を締めましょう」
 そう言ってさきは二つあった帯からこれも横に縞が入った角帯を取り上げた。
「締め方を教えますから覚えてください。向こうでも自分で着崩れた時に直せますからね」
 俺は、正直恥ずかしくなっていた。自分の国の伝統的な衣装なのに何も知らないのだ。
「着物って全部絹やウールで出来ているのかと思ってた」
 俺は自分の無知を言うと、さきは笑って
「それは仕方ないですよ。今の人は女性は成人式などで着るかも知れませんが、男性はほとんど着ませんからね。せいぜい、浴衣か甚平でしょう」
 確かにさきの言う通りだった。
「今から覚えれば良いのですよ。将来アートディレクターに転身するなら遅くはないです」
 笑顔で言われ、俺は初めてこの娘に好感を持った。
 着物を着ると、すぐに歩く訓練に移る。下駄の鼻緒が意外と指の股に食い込んで痛い。雪駄は更に痛かった。それに、小幅で内股に歩くなんて、これが意外と難しい。しかも腕を振ってはならないというのも難しかった。
 そう言えば、ここに着いてから昼も夜も判らないが、今は何時頃なのだろうか、気を失っていた時間がどの位か、それも判らないのだ。
 自分の感覚では三時間ぐらい練習して、何とか様になって来たようだ。さきが
「今日はこのぐらいにしておきましょう。これからお部屋に案内します。そこで食事やお風呂などにも入ってください。ベッドや着替えも用意してあります」
 そんなことを言ったが、俺一人を過去に送るのに、結構な費用が掛かっているのではないだろうか? その費用を直接借金の返済に充てた方が良くはなかろうか? 俺はそんなことをつい考えてしまったが、さきや五月雨が俺の保護と言っていた事が実感出来た。

 練習が終わると、その場でまた元の服に着替えさせられる。気が付くと,下着などは洗濯済みで綺麗になっていた。いつの間にやったのだろう?
「肌襦袢は毎日交換して戴きます。今日は初日ということもあり鼻緒が痛いと困るので、足袋を用意しませんでしたが、明日は足袋を履いて練習して戴きます。感じが変わりますよ」
 そう言ったさきの言葉に嘘は無く、それは後で良く判った。
 さきに案内されて、廊下を歩いて行く。まっすぐ伸びた廊下は先が見えないほど長い。暫く歩くと廊下に窓があった。外の景色を見ようとして立ち止まり窓から外を見ると、そこはただ草原がどこまでも続くだけだった。左右とも同じだったので、ここはどこか大きな平原に建てられたのだと理解した。
「ここはモンゴルか中央アジアあたりかい」
 何の気なしにさきに尋ねたのだが、彼女は
「いいえ、ここは人類が誕生する前の世界です。そうですね。パンゲア大陸の何処かですね」
 パンゲア大陸って……それじゃ恐竜もなんかもいる時代か?
「恐竜はもっと後ですね」
 何事もないように、さきは軽く笑った。俺はとんでもない場所にいるのだと今更ながら思うのだった。
 長い廊下をおよそ五分も歩いただろうか、明らかに違うセクションに入ったと感じた。壁紙も暖色系に変わり照明も意匠を凝らしたものに変わっていた。
 さきは幾つかある部屋からA311と書かれたドアを開けて
「この部屋が光彩さんのお部屋です。ベッドはダブルとなっています。バス・トイレ付きですが、この棟の中央に温泉施設があります。そこでお入りになっても構いません。
 食事はこの廊下の少し先に食堂があります。二十四時間いつでも好きなものが食べられます。明日の九時にはお迎えに参りますので、それまでに朝食を済ませておいてください」
 そう言って、さきは一枚の紙を出した、それはこの施設の案内図だった。
「これをご覧になれば、食堂も温泉施設もお判りになるでしょう」
 手渡されて良く見れば思ったほど複雑な構造にはなってないらしく、両方の施設ともすぐに判る。
「それでは、ごゆっくり。何かあればそこの室内電話で連絡を戴ければ係の者がやって参りますから」
 さきはそう言って下がって行った。残されたのは俺一人となった。一体今は何時頃なのかと自分の時計を見ると止まっていた。故障でもしたのかも知れないし、あるいは時を遡ったので動き止まったのかも知れない。そこで部屋を見渡すとベッドの脇にデジタルの時計がはめ込んであり、十七時と表示されていた。つまり午後五時と言う訳か、どうやら俺はアパートから連れだされて十時間ほどは眠っていたらしい。そう考えると辻褄が合う。

 部屋にはベッドの横に着替えが用意されていて、下着とTシャツにジャージの上下が揃えられていた。それと室内履きや靴下さえあった。どれもこれも俺にピッタリのサイズだ。
 俺は仕事の帰りにここに連れてこられたのでワイシャツにネクタイ、それにスーツ姿だった。革靴も含め、きっとこれはもう帰るまで必要にはならないと思い脱いで綺麗に畳むと、天井のスピーカーから声がして
「言い忘れましたが、用意した衣類に着替えたら、今まで着ていた衣服は、お風呂か食事の時に中央カウンターまでお持ちください。クリーニングして大切に保管っておきます」
 流れた声はさきだった。まさか監視しているのかと思ったが、考えるのを止めた。気にしていたら体が持たないと思った。
 言われた通りに着替えて室内履きを履き着ていた衣類を部屋にあった袋に詰めて、風呂に入る為に温泉施設に行くついでに中央カウンターに行くつもりだった。そこは食堂の隣にあり直ぐに判った。
「光彩ですが」と言うと、受付の女性が愛想よく受け取ってくれ
「大事に保管しますからご安心を」
 と言ってくれたので、素直に何とか安心する。

 温泉はまるでどこかの温泉ホテルを思わせる作りで、幾つもの浴槽があったり、サウナや水風呂もあった。更衣室にはタオルやカミソリそれに男性用の化粧品一式なども用意されている。不思議なのは俺しか入って来なかった事と、窓から見える景色が草原一色だったことだ。それに大東興産は他にもターゲットになる人間を抱えていると思うのだが、ほとんど人の姿を見かけない。俺一人で贅沢な温泉を楽しんだ。
 帰りに食堂で食事をすることにする。思えば随分と食事をしていないことに気がつく。食堂はカフェテリア方式になっており、好きなものが好きなだけ食べられる。二百人以上座れる椅子とテーブルが用意されており、そこに何人かが座って食事をしていた。やっと人を見かけた。
 俺は幾つか料理の乗っている小皿をプレートに載せると、先程から食事をしている中年の男に近づき、斜め前に座った。男はじろりと俺を一瞥した。
「こ、こんにちは、あなたも訓練でここに居るのですか?」
 俺の言葉に男は反応しなさそうな感じを見せながらも
「お前さんは新入りかい。どこへ行くのか知らんがその若さで大層な借金を拵えたんだな。ご苦労なこった」
 俺の目も見ずに黙々と食事を採りながら
「行く時代にもよるが、大体三日前後の訓練でその現地に飛ぶらしい。俺は明日の朝だそうだ」
「どちらに行かれるんですか?」
 俺の問に男は薄笑いを浮かべ
「ビクトリア朝時代のイギリスだそうだ。あの頃、世界の富が集中していた場所だ。その頃のお宝のかなりは大英博物館にあるらしいが、行方不明のも多いらしい。それをどうにかするそうだ。なんせ額が大きいからな」
「失礼ですが、どれぐらいですか?」
 俺の質問に男は黙って指を三本出した。それが三億なのか三十億なのかは俺には判らなかった。
「じゃあ、あんたも頑張れよ」
 そう言って男は消えて行った。後で知ったのだが、この男の孫が将来ノーベル賞を受賞するという。
 男は訓練は三日だと言った。きちんと対応するには今夜は眠るしかない。その言葉が本当なら二日後には江戸に行くことになる。楽しみな気もするが不安もある。だがいずれにしろ俺は指示に従うだけなのだ。
 部屋に帰りベッドに横になるといつの間にか眠ってしまった。夢にさきが出て来た。何を言っていたかは忘れたが、俺達は何かいい関係のようだった。
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