第十章 ③
文字数 3,144文字
いけない!」とも思いますが、同時に、
「ここで投げ出したら、あの事件から
完全に逃げることになってしまうんだよ?
このまま、警察官として生きるのが、
贖罪なのでは?」とも思えます。
だから、とにかく必死に自分の心を奮い
立たせて、警察官として職務に邁進するの
です。
でも、否が応でも、あの事件の日のことは、
思い出してしまいます。
そう、職務を果たす中で、思い出すのです。
通常逮捕や現逮や緊急逮捕の際に……。
それから、署へ連行する際もですね。
特に、女性を逮捕する時に、少女を補導する
時です。
あの小学校の校舎内での事件現場……。
私は、あの彼女の腕をしっかりと握って、
足止めしてしまったのです。
クソから逃げる彼女を助けるべきだった。
でも、逆に、私が捕まえてしまい、
そして、アイツに引き渡してしまった。
そうです、彼女を最初に捕まえたのは、
親友の私だったのです!
私は、思い出すのです。
「あの時、無実の彼女を足止めして
しまった……」。
女性を逮捕する時、少女を連行する時に。
それで、自信や確信が揺らぎ出すのです。
「この人、もしかして無実なのでは?」と。
「いやいや、あり得ないわ!
ずっと捜査して来たんだから!
裁判官から令状も出たんだから!!」
そう自分に言い聞かせ、そのまま連行します
が、苦しいのです!
今は、刑事として、逮捕状を執行し、
犯罪者を追いつめる側であっても、
私自身が、やはりずっと、あの事件の
記憶に追われていると、自覚しています。
所轄の地域課巡査を拝命された日のことは、
今でも思い出せます。
「これから警察官として必死に犯罪抑止、
捜査に携わって、多くの市民を救う!
そして、あの日の償いをするんだ!」と、
再度胸に誓いました。
そう、あの事件で、私が助けれず、いいえ、
私がアイツに引き渡してしまった、
大親友奥中真子への贖罪の気持ちを込めて、
全力で日々、警察業務に専念する……。
あの事件の時、アイツから必死に逃げていた
奥中真子のように、凶悪事件で追われる
女性たちを、犯罪組織から狙われる
女性たちを、一人で多く助け出し、
保護する。
それこそ私の生きる道、贖罪の方法だと、
考えながら、交番に入りました。
そして、今に至るのです。
今の本音ですが、どんなに、犯罪組織から
女性を助け出し、非行に走る少女を保護し、
また犯罪者を挙げたとしても、私の心は、
全く楽になりません。
やっぱり、あの奥中真子のことを考えて
しまうのです。
彼女に、謝れていない……、そのことを
意識してしまい、どんなに苦しむ女性を
助け出したとしても、また、犯罪者を
検挙しても、心は逆に痛みます。
つくづく思います。
「高校時代の葦田みどりに言いたい!
『警察官になってどんなに頑張っても、
それで、あの事件のことがチャラには、
ならないのよ!!
今のあなたより、刑事になった、
不動みどりの方が、ずっと苦しんでるわよ』
って……」。
そんな日々です。
第三者から見て、私の毎日は、充実している
もののようかもしれませんが、実際は、
苦しみと自責と悩みに満ちたものなのです。
そして今日のことです。
窓の外は、真っ暗でした。
すでに、生安課長も退庁して、課には私を
含めて4、5人の捜査員だけ。
その先輩たちも退庁しようと帰り支度を
していました。
私は、書類作成に手間取っていました。
警察官になるまでは、考えもしなかったほど
に、書類作成に時間が取られるのです、
警官は。
「これは、私が最後になるなぁ。
連絡しとこうかなぁ……」と思った時です。
内線が鳴りました。
部屋を見渡しました。
課に残っている捜査員の中で一番の下っ端は
私でした。
「出ないと……」と、手を伸ばしましたが、
私より少し早く、係長が受話器を取って
くれました。
「係長、ありがとうございます!」と、
心の中で何度もお礼を言いました。
そう、私は、出来る限り、
早く帰宅したかったのです、今日は……。
でも、追っていた案件が、お昼に急展開を
見せて、その事件に関す書類作りに追われ、
予想以上に遅くなってしまっていたのです。
今日は夫が非番で、私の仕事が終わり、
家に戻ったら、二人で出かける予定にして
いました。
だから、早く帰りたかったのです。
「早く終わらせないと」と言う思いで、
いっぱいでした。
そんな私に代わり、係長の水口警部補が、
受話器を取ってくれたのです。
いつもは鬼のように思える、水口係長が、
天使のように見えました。
「あっ。でも、こんな厳つい天使なんて、
いないか」と内心笑ってしまいましたが……。
私は、書類作成の手を止めて、携帯を
手に取りました。
夫に、メールしようとしたのです。
「やっぱり、もう30分はかかりそう。
家に着くのは、1時間後です」と言う内容を
送ろうと……。
今日、4度目の夫へのメールになるはず
でした。
「こういう時、夫が同じ警察官で良かった。
もし、同じ職場の人間じゃなかったら、
こう言う事情分かってくれないで、
怒ったり、下手したら不倫なんかを
疑われるかも……」と思いながら、
私はメール作成を始めました。
……打ちながら、近くで立ったまま受話器を
手にする水口係長の態度が気になり出し
ました。
どうやら、相手は1階にいる当直班の誰かの
ようです。
水口係長の発言から、「おそらく、何かの
相談者が来たな」と推理しました。
そして、「やる気ないな。係長も早く帰りた
そうだなぁ」とも分かりました。
電話している係長の態度や口調から……。
で……、夫のことを一瞬忘れてしまい
ました。
メールのことも。
そして、提出期限の迫った書類のことも。
ええ、私は、黙ってはいられなかったのです。
生安課に連絡が来たのですから、私たちが、
担当すべき事案なのでしょう。
また、こんな時間帯に、一般市民が、
相談しに署へ来るのだから、
よほど追い詰められた人のように、
思えました。
なんとなくですが、「若い女性だな……」と
ピンときました。
警察官の勘と言うべきでしょうか?
そして、思わず言ってしまっていたのです!
「係長!相談か何かですか?
今1階なら、自分が受けます!!」と。
すると、水口係長は、
「うん?不動産やってくれるか!?」と
嬉しそうに声を上げて、すぐに、
電話の相手に、
「待って、待って!
うちの係員が話を聞くって言ってるから、
こっちに来るように伝えてよ。
あとさ……」と話し出します。
その瞬間、私は、ハッとしました。
「あっ!!
書類……。
あと、デートの約束……」と思い出し
ました。
でも、今さら、
「すいません。係長、やっぱり無理です、私」
とは言えません。
「こうなったら、とことんやってやるわ!
相談も書類も……!!」と心を決めました。
私は、課の奥にある取調室の一つに、
小走りで向かいました。
夫には、電話で、ちゃんと謝らなければ
ならないと思ったのです。
夫は、すぐに電話に出てくれました。
私は、正直に夫に、現状を伝えました。
すると、夫は、すんなりと、私のわがままを
許してくれたのです。
笑いながら夫は言います。
「君なら、こんな時、相談者を放っては
おけないよな。
分かった、キッチリ話聞いてあげて、
書類も終わらせて来なよ。
こっちは、こっちで、ゆっくり待っている
から」と……。
そして、付け加えました。
「あと、今日はディナーはなしだな。
君、遅くなるだろうからね。
だから、君が帰って来たら、ピザでも
とろうね」。
私は、心の底から「ありがとう。それと、
ごめんね」と言って、電話を切りました。
本当に思いました。
「優しい!妻はこんななのに、
夫は、良い人過ぎる!」と。
刑事である自分が、夫に隠れて、
している悪事を思い、胸が痛みました……。
その時、取調室の外から、「不動産!!」と
呼ぶ大きな声……、係長の声が、
響いて来ました。
「来たのね……」と呟き、私は、急いで、
取調室を出たのです……。
(著作権は、篠原元にあります)