かいしゃく

文字数 3,409文字

 ぼくだよ――なあ、わかるか。

 なぜこんなことをするかって? そうだな、どこから話そうか。

 父さん、また病院だよ。今度は仕事場で倒れたんだ。年を跨いでからもう二回目。

 まだ三月にもなってないのに。

 どうせ結果はまた過労だろうけど、何日間は検査入院だって。

 しかし、過労と言うだけでは、さすがにはしょり過ぎた。働こうとしても、キミの介護があるし、パート仕事しか見つからない。やっと見つかったパート仕事も、あんな体、あんな足だから、こなすのもたいへんなんだ。

 苦労して得た稼ぎのほとんどは、介護費用に消えた。ぼくのバイト代を足しても、生活費をカバーするのに苦しい。申請できる補助金はもちろん一通り申請してきたけれど、何の足しにもなれない――ほどではないか。少しの足しにはなったが、やっぱり足りないんだ。

 キミを死なせないために、ぼくを生かすために、毎日すごく疲れた顔してるんだよ、父さん。だけど、ぼくには嫌な表情ひとつも見せない。

「ごめんね。まだ高校生のあんたに、弟の介護をさせるなんて」

 時々にはこんな的外れたねぎらいもしてくれた。

 父さんのほうがもっとも不憫なのに。

 三年前のあの一瞬で妻を失い、重傷の後遺症で足を引きずって歩くようになり、息子のひとりが植物状態。すべては飲酒運転した相手の悪いけど、やつは即死したため、未だにまともな賠償金がもらえていない。

 実際、向こうも一家の大黒柱を亡くして困窮している……いや、それで許したわけはないが、ただ現実、責めて何かもらえる状態ではなかった。

 だから父さんは自分をいっぱい責めてきた。体も心も責めに責めて――過労だと言っても、疲労、心労、苦労が重ねての過労だった。

 検査入院っていくらかかるのだろう。

 来月の卒業式はどうなるのだろう。

 あの事故がなければ、一緒に卒業できるはずだが。

 死者ふたり、重傷ひとりに重体ひとりが出た事故。ぼくはなぜか擦り傷だけで済んだ。それで引け目を感じると言うか、こうするしかなかったと言うか、あれからずっと体の不自由な父を支え、重度の昏睡状態の続く弟を介護する優等生の兄をがんばって演じてきた。

 ええ、こんな生活は長くても半年だと思ったよ。でも。

 キミがこんなにも生命力が強いとはね。

 さすがに疲れた。

 ぼくには無理なんだ。強くて優秀なキミと違って。

 ああ。優秀だったな、本当に。退院して学校に復帰したときには、キミの人望の高さを肌で感じたよ。クラスメートと部活仲間の誰もがキミのことを心配していて、キミの無事を祈っていた。それと比べ、ぼくのことを本気で心配する人がたったの二、三人、しかもうちのひとりは教頭先生だった。もう、あきれたものだ。

 同じ顔なのに。

 同じ顔だから。

 しんどい。

 昔からそうだった。同じ日に生まれて、顔も体格も同じなのに、何をやるにしても、キミはいつもぼくより上手くできた。他人から見れば大して違わないかもしれないけど、キミにもっとも近いぼくだからはっきりとわかるんだ――キミはぼくよりどれほど優れていて、ふたりの間にはどれほど差があると。

 特に人間関係は、どうしてもキミのようにうまく築けられなかった。人懐こいキミと違って、ぼくは人と話すのが本当に苦手で、人との付き合い方にどうしてみ慣れないというか、いつもキミが助けてくれた気もした。

 そういや中学校の頃から、真剣に陸上部の部活に打ち込む姿も実に格好よかった。

 ぼくにはできない。と、キミの前にこぼしたら。

「そんなことないよ。やればできるし、やり続ければ慣れるよ」

 キミもきっとできるはずだ。だってぼくらはもともと同じ人間なんだから――と、励ましてくれたね。

 本当に強いね、キミは。

 実を言うと、そんなキミにはいまでもうらやましかった。でも、だからって憎いやら妬ましく思うことは決してなかった。むしろ感謝し、尊敬し、誇らしく思っていた。

 優秀なキミになりたかった。

 だからこの三年間、なるべく優秀なキミらしく、父さんと一緒にキミの介護に励んできた。寝たままの着替え、オムツ替え、汚物の処理、胃ろうの操作、口腔ケア、清拭、洗髪、爪切り、体位変換やマッサージなど、在宅介護のいろんなスキルを覚えていき、最初こそはぎこちないけど、繰り返すうちにも次第に慣れた。学校の授業も部活も、生活のためのバイトも、体力的にはキツイけど、やればできる、やり続ければ慣れるとわかった。そして慣れたらもっとできる、苦手だった人間関係にだって、キミには負けないほどに、いまのぼくは――と、思ったら。

 振り向けばそこにいるキミの顔。一番見慣れていたはずのあの顔、あのぼくと寸分違わない顔には、どうしても慣れない。

 ぼくのと同じ顔が。

 ぼくの顔。

 口を半開きしてヨダレを垂らすぼくの顔。たまに開いてしまう焦点の定まらない目で、死んだ魚のように見えるぼくの顔。少しずつ血色が抜け、日々やせ細っていくぼくの顔。

 オムツ替えとか、下の世話をするときにはなるべく顔を見ないようにしていたけど、いつも天井のほうからないはずの視線を感じる。

 キミの顔で、無表情で見つめられるような感じだった。

 あるいは、ぼくの顔で。

 どちらにしても同じだが。

 見つめられたぼくの顔も、きっと同じ無表情であろう。

 しかし表情が無くても、そこで込み上げる感情は確かにあった。元気だった頃のキミの姿、自信の満ちたキミの笑顔が頭をよぎると、さらにいたたまれなかった。

 このやり場のない気持ちを一体、ぼくはどうすればいいのか。

 気持ち悪い。

 キミの代わりに生きていくつもりなのに、なぜ死に損なった自分を毎日のように、醜い自分を毎日のように見せつけられ続けなければいけないのか。

 なあ、ぼくはどうすればいいの。

 どうすれば助かるの。

 どうすれば助けてくれるの。

 「首の皮一枚でつながって助かった」という言葉があるけれど、首のほとんどが切られ、つながっているのが首の皮一枚だけではやっぱり死んでしまうじゃないかと、昔からずっと疑問だったが――どうやら首が地面に落としてしまうと、尊厳をも地に落とすことになるから、切腹して散ってゆく当人の、人としての尊厳を助けようと、介錯の際に首の皮一枚を残すとの作法が生まれ、しまいにこの表現になったらしい。

 尊厳か。

 命を落としても、首の皮一枚でつないだから人としての尊厳が助かったのに対し、首の皮一枚で命をつないだのに、人としての、この救いようの無さはなんなのさ。

 先生はね、望みはわずかだけど、意識はまだ回復する見込みがあると、三年前から何度も言ったよ。ちなみに先日も、父さんとぼくの奮闘するがいがあって、寝たきりの被介護者にしては、キミの体調は常に良い水準に保っていると言ってくれた。

 もしかして近いうちに目覚めるかもと、父さんにまたへんに希望を持ち始めたけど、ぼくはそんなことを全く望んでいない。

 もうあんな言葉に振り回されない。

 こんなのいつまでも続けられない。

 限界だ。

 死なせたくないと思えば思うほど、死にたくなる。

 こんな中途半端な死をこれ以上引き延ばしたら、ぼくはいつまでも中途半端にしか生きられない。

 死にたくないから助けて。

 死ぬから助けてくれよ。

 弟思いの兄だなんて言われるのがもうまっぴらだ。

 このままじゃ誰も助からない。

 しかしそれでも、ぼくは助かりたい。

 昔のように助けてくれよ。

 紐の握った手に、力をこめる――僅かな可能性を、握りつぶす。

 息が上がる。

 息が苦しい。

 誰か。

 だれか。

 一思いに。

 ひとおもいに。

 とどめをさして。

 トドメを刺してよ。

 息苦しい。

 生きるのが苦しいよ。

 思い切って死にたかったのに。

 こんなんじゃ死んでも死に切れないんじゃない。

 ちゃんと死んでくれ。

 死んでくれ。死んでくれよ。

 どうせ死ぬだから早く死んでよ。

 お願いだから。

 助けて。

 わかってくれ。

 なあ、わかってくれよ――兄さん。
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