第1話

文字数 2,444文字

 夏旅in広島(竹原市朝日山編)④

 宿の女主人に、今日はどこに行かれるんですか?と訊かれたので、朝日山に登るつもりです、と答えたら、ええっ!と驚かれた。
「特になんにもないですよ。まぁ頂上には展望台があって、眺めはいいですけど……」
 こんな熱い中、あたしは無理だわ。そう言って彼女は首を振った。変わった人だ、という目で見られたが、去年から私は朝日山に登ると決めていたのだ。
 朝日山は、祖母の家の裏手にそびえている、高さ四百五十四メートルの山である。子供の頃から見ていたはずだが、いまだかつて登ったことがなかった。去年は時間がなく、登らずに帰ってきてしまったのだ。
 宿の自転車を借りて向かった。舗装された登山コースがうねうねと続いている。最初はなだらかな坂だったので、おお牧場は緑、を口ずさみながら進んだ。(エッセイ「テーマソング」参照)途中、三段の棚田があって、一段ずつに案山子がいた。案山子といっても、大きなまん丸の風船に顔が描いてあるだけである。風船は、地面と平行に張られた紐にくくりつけられていた。太いマジックで無造作に描かれた簡単な顔だったが、大きいのでインパクトがある。
自然の風景の中にいきなり顔があると、どうしようもなく目立つ。一つは笑顔で、もう一つは普通の顔をしていたが、残る一つが物凄い怒り顔だった。ご丁寧に、額に青筋のマークまで描かれてある。激怒している顔がのどかな田んぼの中で揺れているのは少し怖かった。
単に風船に顔が描かれているだけなのに、なぜ怖いかというと、自然そのものの風景の中に突如として人間の生の感情が人工的に表現されているからだ。風景と相容れない違和感が恐怖を呼ぶらしい。
 なだらかだった坂が次第に傾斜を増し、ついに自転車を降りざるを得なくなった。カーンと照りつける太陽の下、私はとぼとぼと自転車を引いた。たまに軽トラックや軽自動車とすれ違うくらいで人の姿はない。
傾斜に沿って隙間なく生えた木々が、雲一つない空に向かって青々と茂り、茂みの奥には川が流れ、空を見上げれば遠くに小さく鷹らしき鳥が舞っている。まさに日本の昔話に出てきそうな風景を愛でつつ、私はもうすっかり息が上がって汗だくであった。立ち止まって何度も水を飲んだが、いくら飲んでも飲み足りない。ペットボトルの水はそろそろ尽きかけていた。大切に、ちびちびと飲んだ。
 坂がいよいよきつくなった。どういうわけか、途中から一匹のアブが私にまとわりついてきて、ブンブンとうるさかった。自転車のハンドルを持っているため両手がふさがっているので、首を振ってやり過ごすしかない。亡き父がアブになって私を見守り、励ましてくれているのかもしれない、とふと思った。なんせここは父の郷里であるわけだし、子供の頃、父も朝日山に登って遊んでいたはずだから。だがアブはやたらと私の顔の周りで飛び回り、目障り以外の何ものでもなかった。
 ある程度ひらけていた景色が狭まり、道の両側がすぐ杉林という状態になった。しばらくして、何やらバキバキと大型の動物が木々を踏みしだくような音が聞こえてきた。ギョッとして私は立ち止まった。こんな誰もいない所でクマなど出てきたらひとたまりもない。咄嗟にクマよけのベルを思い出し、自転車のベルをチリンチリンと激しく鳴らした。足を速めながら、しばらくのあいだ鳴らし続けた。
もういいだろう、と、激しく息をつきながら、とぼとぼペースに戻っていると、上から軽トラックが降りてきた。車体の横に「竹原市」と書かれてある。市役所の車らしい。
車は私の姿を認めるとスピードを緩め、止まった。窓が開き、ベージュ色のつなぎのような制服を着た男性が顔を出した。
「大丈夫ですか」
 どうやら私は大丈夫に見えなかったらしい。汗をぽたぽた垂らしつつ、おそらく発火寸前なほど上気しているであろう顔を上げて、私は笑顔を作った。大丈夫です、と答えた後、そうだ、と思い、付け加えた。
「この辺ってクマとか出ますか」
 男性は首をかしげた後、
「いや、そんな話は聞いたことがないです」
 と答え、続けて、携帯持ってますか?と訊いてきた。いえ、持ってないです、と答えると、男性の顔が一瞬引きつった。今の時代、携帯を持たないで外を歩く人というのはかなり特殊らしい。私は普段からあまり携帯を持ち歩かないのだ。何かまだ言いたそうな男性に、私は笑顔をキープしつつ言った。
「水も持ってますし、大丈夫です」
 男性はなんとか納得したようで、お気をつけて、と言って窓を閉めた。軽トラックが去り、再び静けさが戻った。いや、まだアブがいる。まったくしつこいアブである。
 結局私はアブと共に登頂した。頂上には、もちろん誰もいなかった。宿の人が言っていた展望台は、丸太で作られた、ごく素朴なものであった。一応その上にあがると景色を眺めた。少し霞がかった竹原の町が見渡せた。特になんということもなく、感動もわいてこない。ただ、風が気持ち良かった。
 山頂には展望台の他に、観音様と木のテーブルと椅子があった。地面にはオレンジ色のアリが歩き回っている。
丸太を割ったような椅子に、私は仰向けになった。眩しいので帽子を顔にかぶせた。まだアブは顔の周りでブンブンいっている。目を閉じて、私は羽音を聞いていた。
 山登りが好きな人は、一体なんのために山に登るのだろう? 景色は確かに見事かもしれないが、すぐ飽きてしまう。なにしろ登頂するまでが大変である。二時間半かけてここまで登ってきた私が言うのもなんだが、私は山登りがあまり好きではない。登って降りて、なんだか無駄の極致のような気がする。もちろん、途中でいろいろな出会いもあるだろうが。アブとか、軽トラックに乗った市役所の人とか。
 降りるときは、登りと正反対だった。なんせ自転車で来ているのだ。恐ろしいスピードで、あっけなく下山した。しつこかったアブも、さすがに自転車のスピードにはついてこられなかったようで、いつのまにかいなくなっていた。
 
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